冷えて行く世界
あぁもう駄目だ、なんて弱気が頭を過った。体が動けばどうにか出来ても、今の彼には起き上がる力すら残っていない。まっすぐ降り下ろされる手を躱したくても、躱す事が出来なかった。
無茶しすぎたのだ。
傷を患って、大量の魔力を消費して、限界が見えてしまっていたのも事実。だから決着を焦ったが、相手がそれには大きすぎたようだ。
あぁ年貢の納め時かとか、存外他人事のような思考を働かせながら、迫り来る手を見つめた。
だが、その時目の前に急に影が現れる。半分ボヤけた視界にはそれがなんなのか判別出来なくて、目を思わず細めた。
自分の上に何かが覆い被さって、疲労が蓄積された体にドカリと容赦なく襲ってくる。それが背を押し、腹を圧迫して思わず咳き込んだ。
音が、何も聞こえない。ただ、何か重いものが自分にのし掛かってきて、耐えがたいくらい苦しかった。
だが、同時に鈍った思考が少しだけ働きだす。襲い来る筈の痛みが、一切やってこないのだ。
「うくっ…」
この上に覆い被さるものは何なのかと、嫌がる体に鞭打って肘を突き上げる。その肘で自分に覆い被さるものを持ち上げると、そのまま自分の体を仰向けに回転させながら横にどかした。
何とか体を両手で支えて、上に覆い被さっていた物へ視線を投げ掛ける。
「あ……」
その時、霞んだ視界に捉えたものに言葉をなくしてしまった。血が、当たりに飛び散っている。肉片と思われるものもすぐ傍に転がっていて、それを見ても事態が理解できなかった。
「ごめ、ん……なさ、い」
覆い被さっていたものが、口を開く。涙を溢しながら、弱々しい瞳をこちらに向けてきていた。
「隊長、ごめん、なさ…」
「……ハ、ル……?」
仰向けに倒れたハルは、口から血を溢しながら、じっとピゼットを見つめていた。その光景に、ピゼットは釘付けになりながら呼吸を繰り返す。体が動かない。思考も回らない。ただ、目の前に先程解放の反動で気絶していた筈のハルが居るという事実を見つめることしか出来なかった。
「ぼ、く……たくさ、殺……隊ちょ、うにまで…」
「ハルっ!」
ゴポリと血の塊を吐き出したハルを見て、先程まで動かなかった体が嘘のように動いた。彼の体を抱え込むと、背から大量の血が零れ、ボタボタと地に広がった。
「あ…嘘だ…」
その暖かい液体を感じて、ピゼットの体はどんどん冷え始める。ジュイの攻撃から、ハルが守ってくれたのは明白だ。背で受け止めたのは、腹の当たりまで抉れた傷口が明確に示していた。
「たい、ちょ…」
「しゃべんなっ! ハル…しゃべらないでっ!」
こんなときに、思考が一切働かない。どうすれば良いのかわからなくなってしまって、首を振りながらそれだけを懇願するように叫ぶ。
「ごめ、ん…な……」
だが、ハルの瞳から光が消えるのはあっと言う間だった。言葉を言い切る事すら出来ず、虚ろな瞳は何も写さなくなっていく。
「駄目だ! ハルっ! ハルー!」
叫んでも、彼の命を繋ぎ止めることなんか出来なかった。完全に力を失った体は、ダラリとピゼットに抱えられるがままとなる。その口からはもう謝罪の言葉も聞こえない。
「あっ…」
その光景を見て、頭が真っ白になってしまった。自分を守って、大切な仲間が死んでしまった。助けたかったのに、横たわっているのは辛い現実だけ。
「よかった…。ジュイが殺しちゃうかと思った……」
リーフェアルトはまだ無事なピゼットを見てホッと一息つく。ハルが目覚めていたのも、飛び込んで来るのも想定外ではあったが、結果自分達の計画が狂わずにすんだと胸を撫で下ろした。
目の前な悲劇を見つめて冷静になったのか、自分のした事に多少の緊張を覚えながら、ジュイもふぅっと息を吐く。計画が自分の感情のせいで狂ったら、それこそアイルに顔向けできない。
無事難を逃れた事を確認すると、素早くリーフェアルトへ顔を向ける。
「早く噛みついちゃいなさい」
「わかってるわよっ!」
その言い草にムッとしながらも、リーフェアルトはピゼットの元へと駆け出した。
「私たちの目的はウィクレッタだもん」
クスリと微笑むと、魔力を練り出していく。
「《我は血による契約を授けし者。その血によりて舞踊れ》」
呪文念唱と共に、瞳が赤く輝きだす。それは、吸血鬼として探していた、血のような瞳。
先程立ち上がることも出来なくなったピゼットに近寄ると、背後にしゃがみこむ。ハルの体を抱えたまま放心しているように見える彼の首筋に手を這わした。
ジュイは念のため警戒しながら、その所業を見つめる。リーフェアルトは呪文により長く延びた犬歯を、ピゼットの首筋に宛がった。
「《閃光は瞬くが如く》」
彼の皮膚に少しだけ牙を食い込ませたとき、呪文の念唱が響き渡った。リーフェアルトはハッとして後ろに飛び退くと、自分が居た場所に眩しい閃光が落ちる。
「このっ!」
驚くも、直ぐに叩ける準備をしていたジュイは、思い切り腕を振りかぶった。ピゼットの頭を殴り付ける為に振るった手は、若干の魔力を纏わせたもの。動けない彼には、こうすれば脳が揺さぶられ、魔法も唱えることは出来なくなるはず。
だが、ピゼットはその攻撃を背を反らせることによって躱してしまった。その事実に、ジュイは目を見開く。
ピゼットは勢いよく体勢を元に戻すと、ハルを抱えて高く跳躍した。魔力を纏った足で、一気に彼女達と距離を置く。
「なっ……」
「嘘、でしょ…?」
その動きに、ジュイとリーフェアルトは目を見開いたまま動作を止めてしまった。先程まで、動けなかったのだ。一直線の攻撃を躱すことすら出来なかった。
それなのに、今の動きはなんだ。まるで傷や疲れを忘れてしまったかのような、俊敏な動き。
「ハル…ゴメンね…」
ピゼットは軽くハルを抱き締めると、耳元で囁いた。それから、見開かれたままだった瞳を静かに閉じさせる。
彼女達がその一連の動きを驚きでじっと見つめていると、ピゼットはすっと立ち上がった。立ち上がる力がないのは、先程見ている。それなのに、辛そうな面影ひとつ見せずに立ち上がったのだ。
「あのさ」
信じられない光景に息を飲んでいると、ピゼットの声が投げ掛けられる。少年のような声は色を無くし、不気味に耳に響いた。
「あんたら、絶対許してやんない」
にこりと微笑まれた表情に背筋が凍る。飄々とした幼く見えるウィクレッタの笑みは影を落とし、不気味な輝きを放った。
「ホントはこうすると後々迷惑かけるから嫌だったんだけどさ」
ピゼットは凍ったような笑みを携えたまま、唾に付けられた鈴へと手を伸ばす。
「俺の本気で殺したげるね」
鈴を、結わえた布ごと引きちぎると、二人に刃を向けて微笑んだ。
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