死骸の夢
空に、数羽の鳥が羽ばたいていた。
まるで地に横たわる身体が死に絶え彼らの餌になるのを待つかの様に、ぐるぐると、何度も頭上を飛び交っている。
太い木の幹に身体を預けた青年は、苦しげに息を吐き出した。
「っく、…しくじったか…」
痛みに引きつらせた口許には血が滲んでいる。泥で汚れた顔は、血を多く失ったせいか青白くなっていた。浅く呼吸する度に上下する胸が疎ましい。傷を追った脇腹からは、止めど無く血が溢れていた。それは、傷口を押さえる手を赤く染めていく。
喧嘩を売る相手を間違ってしまった様だった。
青年は、強く唇を噛む。
人間などただの間抜けの集まりだと思っていた。退治屋とは名ばかりで、本当は童の様な存在を見ることすらかなわない、そんな集団だと。
今までも、か弱い人間を山程殺して来たのだ。泣き喚き逃げ惑う無様な姿を嘲笑しながら。そうやって復讐を果たして来た。簡単だった。赤児の腕を捻りあげる程に、呆気ないものだった。
しかし、今日の相手は違った。
名の知れた退治屋だったのだ。そしてその実力も、名に引けを取らない程、十分にあった。
今まで沢山の人間を殺して来た青年は、何処か自分の力を過信している部分があったのだろう。惨めにも、大きな痛手を食らって逃げ帰って来た。むしろ、これだけの傷で――死なずに済んで良かったと思うべきなのかも知れない。
否。あれ程の力があれば、逃げる青年を殺してしまうことなど容易かっただろう。あの人間は敢えて青年を殺さなかったのだ。まだ、子どもであったために。
「っ、くしょう…!」
まざまざと自分の弱さを見せつけられた様で、吐き気がした。地面を目一杯叩き付けようとするが、脇腹が痛んでどうしようもない。痛みも重なり、更に青年の心の内は燻ってしまう。
その時、不意に何かを察した。
気配だ。しかしそれは、人間のものではない。確かに生き物の気配だが、自制心を無くした獣のものでもない様に思えた。どちらかと言うと、青年の存在に近しい。
それは少し遠くに位置していた。そしてゆっくりと、その横たわる身体に近付いて来ている。まるで青年の居場所に気付いているかの様に、しっかりとした足取りだった。
青年は気付かれない様に出来るだけ息を殺す。しかし、血の放つ臭いは消せない。相手が青年と同じ生物ならば、きっとすぐにでも場所を割り当てられてしまうのだろう。
彼らにとっては、人間を殺すなど日常茶飯事である。同族を殺すことですら、例外ではないはずだ。
近付くそれが敵であるか味方であるかは、今の状況だけでは判断出来ない。焦躁だけが募る。聞こえるのは自らの乱れる心臓の鼓動と、近付いてくるやけに大きく感じる足音だけだ。
やがて、目の前の草が踏み締められた。
「―――っ」
来たるべき衝撃に向けて目を瞑る。
一秒、二秒。
しかし、それ以上待てども、何も痛みは無かった。いや、痛みも感じる前に殺されたのかも知れない。気のふれた輩に、首を跳ねられたのかも知れない。
そう言えば自らは弱い存在でしかなかったのだな、と、復讐半ばで道を絶たれるのは悔しかったが、妙に納得してしまう。
諦めも交えて、ふう、と息を吐いた。
「けが、してるの?」
息は吐いたが、声など発していない。
「いきてる?」
それに、自らはこれ程舌足らずではないし声音が高くもない。迎えの使者か。そんなものが存在するはずない。実際に見たことはないが。見たことがないからこそ思うのだ。
青年が不思議に思い目を開くと、そこには先程まで見えていた世界と、そこに割り込んだ小さな女児を見つけた。
「――!」
女児は青年に向かって手を伸ばしていた。傷口に触れるために、ゆっくりと。その度にあどけない顔が近付いてくる。そこからは悪意が感じられないが、それ以上に意志が感じられなかった。
その表情に何かに似たものを垣間見た気がして一瞬どきりとしたが、彼女は傷口しか見ていない。そして女児が傷口に触れた途端に、身体が熱くなった。燃える様な痛みが全身を硬直させる。それと同時に、青年は我に帰った。
「触るな…っ!」
女児の小さな手を振り払う。痛みに耐えるために食いしばった歯の間から声を絞り出した。
「…っ?」
しかし、違和感を感じたのだ。振り払うために手を振った。手を振る動作には腹筋を使う。それなのに、傷口が痛まなかった。
未だ、女児はぼうっとした表情で傷口を見つめている。
視線を落とす。
血に塗れたそこには、傷口など無かった。
「…!お前っ…」
驚きに支配された瞳で青年は女児を見た。信じられない光景に、不思議と声が漏れる。
「治癒の力を…」
女児は、ゆっくりと顔の筋肉を動かして笑った。
「ようかのちからは、ひとをいやす」
「ようか?」
「ようかのなまえ」
そう言って、側に落ちていた枝で、地面に陽桜と書いた。
まるで読んだことのない字だ、と、青年は顔をしかめる。
「無理矢理だな」
「でも、ようかはすき」
「……」
「ようかのなまえは、じじさまがつけてくれたの。じじさまがね、ようかのすきなはなをきくの。だから、さくら。さくらは、はな」
「そうか…」
そう説明する時だけは、陽桜と名乗った女児は嬉しそうに笑っている気がした。
呆れにも似た声で答えている間に、青年は、自分は何故、陽桜をあの一瞬で殺さなかったのだと思った。治癒の力を持つ仲間を食らえば、何よりも強い力を手に入れられる。
他人を傷つけられる程の体力が残っていなかったのかも知れない。しかし、それ以上に初めて見る特殊な仲間に対する驚きが勝っていたのだ。そして、陽桜の独特な雰囲気。
「あなたは?」
「…?」
「あなたのなまえは?」
「…名前…」
「ないの?」
「お前には関係ないだろ」
手を触れることすらためらわれる様な、高尚な空気を纏った女児。
そっけなく対応しながらも、人懐っこく話しかけてくる姿に、よく今まで殺されなかったなと思ってしまう。だがしかし、死んでしまっていないことに、妙な安心感を抱いていることに気付いた。
馬鹿な、と、青年は再び驚かされることになる。復讐の原因となった母を殺された時から、青年は他人を思いやるという考えを捨てたはずだった。
「なら、ようかがつけてあげる」
「は?」
けれど、そんな考えを、この女児は断ち切ってしまう。戸惑ったままの青年を、陽桜は変わらぬ笑顔のままに彼女の空気に引き込んでしまうのだ。
「せいじゅ」
「せ、い…じゅ?」
首を捻る青年に、陽桜は再び枝を取り、晴珠と書いた。
そして、
「せいじゅ」
と、また繰り返す。
彼女自ら付けたものだったが、気に入ったらしい。
「…、……」
名付けとは、絶対的な上下関係を意味する。名付けられた者は、名付けた者への忠誠を誓うのだ。勿論、それは名付けを受け入れた場合、又は望んだ場合なのだが。
それを、陽桜は分かっていたのだろうか。まるで犬猫を拾った時の様に、簡単に付けてしまった。
しかし青年は、悪い気をしていない自分に気付いていた。
冷めていた心はまるで日だまりのせいで溶けてゆく氷塊の様だ。陽桜のあたたかさに触れ、絡んでいた糸がほつれていく。
「…」
目の前の少女と自らの姿を見比べてみると、どれほど自らの薄汚いことか。
血に塗れた手は獣の臭気を放っている。泥で汚れた顔は真黒だ。随分と長く伸びた髪は手入れもされておらず、四方八方に跳ね散らかしていた。
それに比べ、年端もいかない女児の肌は透き通るほどに美しい。桃を仄かに連想させる頬に、赤く血の通ったすべらかな手。耳の横で纏められた二束の髪も、さらさらと風に揺れている。
まるで仏と浮浪者ほどの違いがある。
それが何故か、途端に恥ずかしくなった。まともに直視出来ず、俯いてしまう。
手を触れることもためらわれる高尚な存在。自らとはかけ離れた綺麗な身体。まるで、病に倒れる前の母が目の前にいる様だ。
「きにいらない?」
俯く青年に、陽桜は問うた。やはり、ただの善意だったのだ。欲深く汚ならしい心中を秘めておらず、言えば考えなしの、言えば純粋な行為。
「っ…」
途端に嗚咽が込み上げて、青年は手を顔で覆った。
「どこか、まだいたい?」
陽桜の問いに、青年は黙って首を振る。
ただ、首を振るしか出来なかった。
上ではやはり、血の匂いに誘われた鳥たちが飛んでいる。その中にいるのが、本来の青年の姿だったはずだ。頼ってはいけない。心を開いてはいけない。また、あの様な気持ちを味わいたくはない。
俯いて、震える身体を必死に抑え込む。
その時、不意に身体があたたかさに包まれた。花の様に甘い匂いが鼻孔に届く。
「…あ」
抱き締められているのだと理解した。
その時思い出したのが、母の体温だった。
母が倒れるまで、母もよくこうして自らを抱いてくれた。小さな陽桜の手では、彼女より二回り以上大きな彼を包み込むまでは出来ないが。どれだけ長い間、こうされなかったのだろうか。青年はもう、遠い昔のことの様に感じた。
陽桜は何も喋らない。
ただ、静かに震える青年を、そのあたたかな身体で包んでいる。
自らを戒める彼を、彼女は解こうとしている。
「…陽、桜」
「せいじゅは、ほんとうはやさしいこ」
「違う…」
「たいせつだったかあさまをなくして、かなしんだ」
「…そんなこと、ない…」
「こんどは、せいじゅがただひとつのたいせつになるの」
「自分、が…?」
「たからもの」
「晴珠の字は、そのものを表しているみたいだな…」
「きにいった?」
「………重過ぎる…」
皮肉を込めて小さく呟くと、陽桜はころころと笑った。まるで鈴の音の様に優しい声に、童は瞼を伏せる。
これ程に彼女に身を任せたくなるのは、きっと疲れているからだ。血が無くなり過ぎて、抗う気力が残っていないだけだ。
晴珠は、笑みを浮かべた。
そして、きつくきつく瞼を閉じる。
遠のく意識の中、目覚めた時に彼女の姿が消えてしまっていないことを祈って。
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