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Marijuana




 霧雨が髪を濡らす。
 闇夜に紛れたそれは、昼間に鉢合わせした狙撃手の如く姿を見せることなく災いを身に降り掛けてくる。水気を含んで額に貼り付く邪魔な前髪を払いのける気にもなれず、ゼンはゆっくりと息を吐いた。
 ずっと向こうの通りから、雑踏や逃げ場をなくした水の流れる音が聞こえる。濡れそぼった見窄らしい犬がすれ違い際に体を揺すったせいで、膝に大量の雨粒が飛んで来た。ちらと犬が振り返る。くたびれた小さな瞳がこちらを見つめる。犬は鼻を鳴らした。まるでゼンを笑うように。犬が尻を振りながら去っていく。見窄らしくくたびれた背中だったが、それを眺めているだけの人間よりははるかに気高く見えた。
「こっち…入らなくて良いの?」
 控え目なファナの声が奥から聞こえたが、答える気にすらなれなかった。犬が消えた角を眺めていたゼンは一度瞼を閉じる。
 暫く一緒にいて分かったことだが、ファナは異様に勘が良い。他人の胸中の変化に敏感だ。そんな彼女を無視すれば決して良い方に転ばないのは目に見えている。だが、そこにまで気を回す余裕が、今のゼンには皆無だったのだ。案の定背後から戸惑っている気配が伝わってくるが、何も返せない。
 カミユと遭遇して以降、ファナがいくら話しかけようともずっとこの調子だった。目的も意志もなく歩き回り、夕日が差すはずの空が黒雲に覆われてからやっと、心ばかりの板が重なったこの道の片隅に身を置いた。それもファナに気を使ってと言うよりは、ただあったから入ったという風だった。
 だが、完全に周囲が暗闇に包まれ細かい雨が降り出しても、ゼンの腰が落ち着くことはなかった。奥に引っ込んだかと思えば、雨に濡れない程度に通りへ顔を出して忙しなく通路の左右に目を配る。立った状態から一転して座ったとしても足は絶えず小刻みに揺れ、静かな雨音では到底隠しきれない騒音をたてた。そしてそのことに、当事者は全く気付いていない。無意識なのかただ気付くのが不可能な程深い思考に陥っているのかは定かではないが。
 ファナが見かねて声をかけたのも、もう数えるのも億劫になる程それらが繰り返されてからだった。
 返事は返さないものの糸の切れた操り人形の様にぴたりと動きを止めたゼンは、通りの向こうを眺めている。暫くすれば、ファナのことも忘れてまた忙しなく動き出すのだろうか。ファナは小さく溜め息を吐く。心配からか他の理由からかは、彼女にも分からなかった。
 しかし予想は外れ、ゼンの瞳がファナを振り返る。明らかに、疲労困憊と言った表現がぴたりと当てはまる瞳だった。元から深く吸い込まれそうな暗い茶の瞳が、今や底無しの泥沼の様に濁っている。
 そんな状態でも、ゼンの口から発せられた言葉はいつも通りの落ち着いたものだった。ただ、少し掠れていたのだが。
「何だと思う?」
「え、…?」
「何だと思う?」
 ゼンは意外にもはっきりした口調でそう繰り返す。
 活力の籠もらない瞳で、それでも悔しげに下唇を噛んでいた。まるで今日の出来事を思い出しているのか視線は向こうを見ている。そして、言う。
「あいつは――カミユは、俺に考えるための時間を与えた…。何を考える猶予だと思う?」
 あまりに予想通りで、ファナは返答に詰まった。
「それは…」
「あいつが誰に雇われているか、か?あいつの目をどうやって欺いて如何に上手く逃げ切るか、か?…多分、違う」
「そんなの、…分からないわ」
 カミユはそんな簡単な問題を投げかける人間ではない。
 ファナは怪訝そうに顔をしかめたが、ゼンには何故だかそんな気がしていた。まるで年来付き合いのある友人の様に。彼の思考を断片的に察することが出来てしまう。それが自分も精神異常者だという暗示ならば全く歓迎出来ない話だが、それを不思議だとは思わなかった。必然として考えてしまうのは、生きる動物として当たり前の生存本能なのかも知れない。
「だったら何だと思う」
 もっと残酷なことか。
 自分に問い掛けた。
 そうすると、あまりに簡単で明確な回答が導き出される。彼が傷付けたいと考えているのか殺したいと考えているのか、あるいは傷付けてから殺したいと考えているのか。そこまでは思い浮かばないが、その回答はいくら問われても了承するつもりは毛頭ないもののあまりに容易に考えられた。
「お前と手を切った方が得策かと考えるのか?」
「ゼン…」
「安心しろ。お前を見放したりはしない。絶対に守ってやるから」
「……」
 皮肉げに笑ったゼンに、ファナは唇を引き結んだ。明らかに、彼の笑みが自嘲だったからだ。
「…ファナ?」
 顔色を無くしたファナに気付き、ゼンも唇の笑みを消す。
 ゆっくりと、エメラルドグリーンの瞳がゼンの全身から血の気を奪っていく。小さな桜色の唇が揺れ、言の葉がざわめきを誘う。
「覚悟は、出来てるわ…」
「は…?」
「ゼンがこんなに悲しい顔をしなくて良くなるなら、私…見放される覚悟は出来てる」
「―――っ!」
「そもそも、今の状況ですらおかしいもの。赤の他人の貴方が、こんなに面倒な人間を庇ってくれている状況が」
「ファ、ナ…」
「一瞬でもそんな考えが浮かんだなら、私を独りにしてくれて良いから」
「…、う………違う、ファナ…」
「むしろ、…独りにして…」
「………」
 今度はゼンの番だった。
 言葉を失い、ただただ立ち尽くす。悲しみの、そしてそれを隠しきれない強がりの浮かんだ瞳に向かっては、何も言えなかった。一拍遅れて、後悔が襲う。
 そんなつもりはなかった。
 ファナを拒絶するつもりなど。
 だから彼女の告げるとおりに立ち去ることも出来ずに、それでいて無神経な言葉を紡いだ自分を責め否定の言葉すらも紡げずにいる。
 これ以上目を合わせていることに苦痛を覚え、ゼンは頭を垂れた。
 耳に届くのは、先程よりずっと強くなった雨が跳ねる音ばかりだ。
 視界の端でファナが動いたのを見る。なかなか立ち去らないゼンに痺れを切らした彼女自身が何処かへ行ってしまうのかと思った。だが引き止めるための言葉を紡ぐ口や腕は動かない。
 気が付いた時には、ファナの手が頭の上に乗っていた。
「なんて、ね」
「―――…え?」
 湿った黒髪を、細い指がゆっくりと梳いている。
 まるで幼い子どもをあやすような素振りに、ゼンは小さく声を漏らした。顔を上げれば、ファナが静かに微笑んでいた。
「冗談よ。ゼンがあんまり考え込んでるから、気分転換させなきゃって」
「っ、だからって…――!」
 そう言う嘘はどうかと思う。
 そう言おうとして、ゼンは止めた。
 本当に、彼女が紡いだ言葉は嘘で冗談だったのだろうか。確かに、あれが演技でないとは言いきれない。だが、演技だとも言えない気がした。
 これ以上無神経な過ちを重ねないよう、ゼンは唇を引き結んで頭を下げた。
「俺の方が悪かった…」
「ううん。気にしてないわ」
 ゼンの発した言葉に傷付いていない訳ではないのだろう。だから敢えて仕返しとも言える乱暴な内容で切り返しを行ったのだ。改めてゼンは、彼女のことを強いと思った。
 もう一度、今度はファナの目を見て「ごめん」と小さく呟く。
 やはり、「気にしてないから」と控えめな返事が返って来た。
 ファナが、話を打ち切る様に薄暗い奥を指差して言う。
「ねえ、ゆっくり休んで?ゼンの分まで私が考えておくから、ゆっくり眠って。酷い顔だもの」
「ありがとう…、でも、さすがに眠る気にはなれない…」
「ゼン…」
「身体は休めておくよ。大事な時に動かなきゃ困るからな。ファナも…眠くなれば眠れば良い」
「ええ、…そうするわ」
 頷いて、ゼンは奥へ足を進めた。袋から毛布だけを引っ張り出して、比較的綺麗な床に敷く。不意に、ひんやりとした空気が肌を撫でた気がして今更気付く。随分濡れて、身体が冷えていた。急いで毛布にくるまると、湿気が吸われ少しだけ暖かくなる。
「ゼン…」
「ん?」
 振り返れば、同じ様に毛布に半身だけをくるんだファナがこちらを見ていた。
「……独りにしてくれなくて、ありがとう…」
 その言葉に、ゼンは黙って首を振る。ここで言葉を重ねてしまっては、ただの欺瞞にしかなり得ないと思ったからだった。それでも、ファナは安心したように表情を緩める。
 手を伸ばせば届きそうな距離にいる彼女へ触れたくなったが、ゼンは固く拳を握り締めることでその衝動を抑えた。
 毛布は、自身の体温で少しずつ心地の良い温度に温まっていく。しかし平和な日々を送っていた時のように眠気が襲ってくることはなく、雨音に耳を傾けた。




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あきゅろす。
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