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Marijuana




 灰色に境界線はない。
 始まりもなければ、終わりもない。
 陰鬱な曇り空と無機質なアスファルトは視界の向こうで一体となっている。
 覗き込んだスコープの向こうにはビルの間に並んだ二つの影が映った。自らの身に迫りくる危機に気付かない影を眺めていると、妙な嗜虐心が芽生え始める。彼らの命を握り締めていることに気分が高まることを感じた。
 手に浮かんだ汗を小さな動作で服に擦り付ける。いつも以上に時間はゆっくりと過ぎていた。一つ呼吸をする度に、もう一時間経ってしまう様な、それほどゆっくりした時間だった。最後は一瞬で、仄かな高揚もその途端に散ってしまうのかと思えば指の動きも必然的に鈍る。そしてその物足りなさがより一層興奮を高め、息苦しく張り詰めた欲望を解き放ってやりたい衝動に駆られるのだ。
 呼気が震えた。
 同時に漏れたのは、女と情事を交わす時のものに似た甘い声だった。
 一番の恍惚を感じるのはこの一瞬だ。
 熱い女の肌を撫でるよりも、冷たい無機物に触れる方が心地良い。よがる女の高い声を聞くよりも、耳を裂く一瞬の轟音の方が耳に馴染む。自覚していた。
 揺れる影に狙いを定める。
 指に力を込める。
 早く熱を解き放って欲しいと、冷たい鉄の声が耳に届く。
 薬莢の弾ける音が脳を心地の良いリズムで揺らした。
 やはり一瞬で、ひどく静かだった。

   ***

 硝子の割れる音が耳を劈いた。
 一瞬の破裂音。
 視界の端で破片が舞う姿を捕え、ゼンは驚くべき早さで身を翻した。隣りを歩いていたファナの強張った身体を強く抱き上げ、近くの物陰に隠れる。
 そしてアスファルトに散らばりきった硝子片を確認した時、不意に微かな足音が遠ざかる音を聞いた。
「ゼン!?」
 危ないと引き止める手を押しやり、ゼンは道端へ躍り出る。危険だと知りつつも確認せずにはいられなかった。
 音もなく砕けた硝子の理由を。
 遠ざかる足音が何かを知っていると、直感で悟った。
 硝子を堅い靴底で踏み躙ればそれらは音を立てて更に細く割れる。標的となった場所から真逆に位置する建物を見上げると、空がありありと陰鬱な様を見せつけてきた。視界を遮る物は何もない。そして側に音を立てて落ちたのは、中のなくなった薬莢だった。
 疑惑が確信へと変わる。きっと、先程走り去った『誰か』が投げ捨てたのだろう。その場にいた人間、つまりはゼンかファナに、もしくは二人共に見せ付けるために。
「わざとか…?」
「え?」
 低く呟かれた言葉に、後ろから恐る恐る出てきたファナが首を捻った。同じ様に建物を見上げ、ゼンの様子を伺うためにまた視線を戻す。
 ゼンは唇を噛んでいた。
 悔しいとも憎らしいとも取れる表情に思わずファナは黙り込む。視線は向かい側の建物を睨み付けている。
「誰かは知らないが、嫌な奴だ」
 ゼンの中では、得た確信がまるで針山の用に周囲を傷付け暴れ回っていた。怒りにも似た焦躁。
 明らかにこれは狙撃だ。
 人気のない路地裏を進んで歩いていた二人を狙った。
 硝子が割れた瞬間には、ファナを追うロゾネフの手先かと思った。しかし、違うと本能が告げている。思い出したくもない忌まわしい記憶が、『本物』の姿を思い起こさせる。
 彼らは闇を駆ける。
 相手が静止しているならば気取られぬ様に後ろへ歩み寄り口を塞ぎ、一撃目で相手の喉笛を的確に仕留め声を奪う。反対に動の相手ならば、闇に紛れて更に気配を隠し相手の見せた一瞬の油断を逃すことなく突いてくる。そして、死に対する恐怖や実感を与えることなく命を奪ってしまう。
 じわじわと苛め抜くことはそうそうない。そんなことをするのは変わり者か変態だけだ。
 つまりは正常な『本物』ならば、一発で獲物を殺してしまうのだ。
 それが出来なければ『本物』ではない。
 むろん、殺すために狙ったのならば足音を他人に気取られるべきではない。基本中の基本とも言うべき事柄だ。どちらに逃げたか、足音の運びで性別まで割れてしまうことすらある。そうなってしまえば商売としては致命的だ。
 しかし、敢えてそれを外したのなら。敢えて――そう、わざとだったのなら。わざと、気付かせるために足音をたてたのなら。
 妙に冴えた頭は苛立ちに襲われる。
 これは挑戦、誘いだ。
 ゼンたちがいつでも殺してしまえる手中にあるとでも言いたげな。
 例えロゾネフの一味であっても。
 そうでなければ、ゼンの頭を一瞬で吹き飛ばし、残った身体にすがりつき泣きわめくファナを無理矢理連れて行けば良い。
「誰か、私たちを狙ったの…?」
「…分からない」
 砕けた硝子を眺めて不安げに呟いたファナにかける慰めの言葉すら思い付きはしなかった。しゃがみ、白く細い指が一欠片を摘みあげ、眼前に来た所で指を離す。支えのなくなったそれは、軽い音を立てて地面へ舞い戻った。
 危ないぞと制止の声も入れられずにゼンは悩む。
 誰だったのか。
 本当に、ロゾネフの刺客なのか。
 そうでないのか。
 ならば何のために。
「分からない…」
 心を具現化させる様に、ゼンはまた言葉を繰り返した。
 巡る思考は収拾の目処が立たない。悔しさに歯がみする。
「迷ってるか?」
 その時、不意に嘲る様な、心配している様な声が響いた。決して近くではない。けれど良く響く、透き通った声だった。
 男が歩く時特有の、厚い靴底がアスファルトを蹴る鈍い男が耳に届く。今までそんな音はちらとも聞こえはしなかったのに。
 声の――足音のした方を振り向けば、まずはゼンより少し長身の影が見えた。割れた硝子を革靴が踏み付ける。そしてそれをまるで境界線の様に見立てて挟んだ向かいに佇むのは、いつしか見掛けた、屋台の店員だった。しかしあの時見た接客用の笑顔でなく、今は心底嬉しそうに破顔している。ただ、人懐こいものの中に、他人に不安感を与える輝きを含んでいることにすぐ気付く。純粋すぎる邪悪を見ている様な錯覚にさえ陥ってしまう。開いた唇からちらちらと覗く舌が、まるで獲物を狙う蛇の舌の動きにそっくりなのだ。
 男は口角を大きく上げる。
「彼女、昨日倒れただろ?屋台から見えてたんだ。大丈夫?それだけ痩せてちゃ倒れるのも当たり前かぁ。女の子はちゃんと食べないと駄目だぞ?お兄さん、ちゃんと食べさせてあげてる?」
 つらつらと言葉を並べる男に対して、ゼンはファナを隠す様に立ち塞がる。
 きつく睨み付けるゼンに、男は一度瞬きをし、困った様にくしゃりと頭を掻いた。
「覚えてない?」
 苦笑を交えて尋ねる言葉にも、答えなかった。無言のままのゼンに、男は焦りを覚えたのか半歩踏み出す。
「カミユだって。カミユ」
 パキリと硝子が音を立てた。
「ゼン…」
 裾を掴むファナが不安げに声をあげる。
 男は――カミユは確かに笑顔なのだ。しかし、繊細な、むしろそう言った感情に敏感なファナには、ゼンよりもありありと感じ取れているのだろう。身に迫る危機を。
「俺の顔に何か付いてる?」
 ファナの怯えに気付いたのか、カミユの瞳に嗜虐の光が灯る。既に隠し切ろうとする努力すら忘れたのか、毒蛇の牙が見え隠れしているのがありありと確認出来た。ただの錯覚であろうとも、カミユの腹の内を感じ取れる。
 もう一歩彼が踏み出した瞬間、それ以上の接近を静止するためにゼンが声を張り上げた。
「道に『迷ってるか』…と言う質問じゃなさそうだな」
 無愛想な声音でも返事が来たことに満足したのか、カミユは目元を緩めた。
「アンタは賢いみたいだな」
 優しい笑顔の後について来たのは、低く突き放す様な言葉だった。
 カミユは目の前で人差し指を立てる。それをゆっくりと左右に振る。唇からは小鳥を誘う様な小さな音が漏れる。
「でもアンタは確かに迷ってる。これからどうすれば良いのか、今をどうしたら良いのか、この現状を……例えば俺が、何者かとか。だから、俺が道案内をしてやろう。何でも聞いてくれて良いぞ?」
「……何でも?」
「ああ、何でも」
 頷く彼は、ひどく愉快そうに笑みを浮かべた。
 手のひらでもがく弱者を弄ぶ強者の如く。まるで自分よりも価値の少ない汚物を見る様な目でこちらを睨み付ける。慈悲と慈愛を込めた瞳のふりをして、それは辛辣な無言の言葉で痛め付ける。
 見知った瞳の輝きに、ゼンはうっすらと笑みを浮かべた。それは見様に寄っては自虐にも取れ、やはりそう感じたのかカミユの瞳は強者としての光を強く称える。
「今撃ってきたのはお前か?」
 不意打ちにも近い言葉は、その自信を叩き潰すのが目的だった。




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