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Marijuana




 栄えた治安の良い街の大通りとはまた違った悪質な賑わいが耳を打つ荒れた道路に、多くの足音が響いている。それは例えば商人だったり、行き場を無くした浮浪者だったりする。しかしそれほどの人間がいても、誰とも関わりを持とうとはしない。他人の生死など一々気にしていられないこの地区には良くある光景だ。歩く力を失った者は見向きもされず、切り捨てられて行く。
 そんな混沌とした雑踏の中、ゼンは後ろで懸命に追いかけてくる少女の軽い足音に耳を済ませながら歩いていた。小さな足音が遠くなれば少し歩調を緩め、隣りに並ぶ。そんなゼンの気遣いに気付いていたファナは、後ろでクスクスと笑みを漏らしながら付いて歩く。強く吹いた風が、少し短くなった髪と、その上から被るフードを揺らした。
 灰色の雲間から仄かに差し込む夕日に染められた茶色いフードは、ファナが被っていたいと言ったために持って来たものだった。追われている身であるならば懸命な判断だが、幼い少女がそこまで気を遣わなければ出かけられない境遇に、心苦しさを感じずにはいられない。フードの下に控え目に見える緋色の髪が、まるで彼女自身を表している様だった。
 しかし、少女はそんな不憫な状況を感じさせないほどに、明るく振る舞っている。それが元の性格からか、隠しているのかは分からないが。長い間感じていなかった外の空気や、目に飛び込んでくる風景に、ただ感嘆の声を漏らす。足元に転がったままの鉄棒や、元が何だったかなど知れないゴミまで散乱しているが、気になどしていない様だった。
 そんなファナの様子に、ゼンは口端を軽く上げて笑う。
「ガイド上手のトキの方が、良かったかもな」
「そんなことないです。ただぶらぶらと歩いて、眺めているだけでも楽しいですから」
 上手いフォローとは言えなかったが、彼女が本心からそう言っていることは分かったゼンは、何も言わずに頷いた。ぼんやりと過ごすことは、ゼンも好きだった。それをファナが嫌だと言わないならば、変える必要はないと感じる。
 だが、ファナが笑っているのはほんの少しの間だけだった。通りの節々に空いた薄暗い穴の向こうに、幾つかの動かない影が増えてくれば、必然的に口数は減る。数十メートルも歩けば、ファナが浮かべる笑みは心の奥底からの笑いでないことはゼンにも分かった。
「…こんな風景が楽しいなんて、酷いことかも知れませんね…」
 長く伸びたボロ布には得体の知れない物体が纏わりつき、辺りには蠅がたかっている。注意深く嗅がなくても臭う腐臭に、顔つきは段々と険しくなった。
 ポケットに入れたままだった煙草の箱を取り出す。抜き出した一本を口に運んで加えた先に火を灯すと、瞬間に立ち上ぼった紫煙が風にさらわれて、視界の端を一筋の線を描いて飛んでいった。
「今はまだ、自分のことだけを考えていても良いんじゃないか」
「…そうだと、良いですけれど…」
「…?」
 少しトーンの下がった声にファナを振り返ったが、ゼンと目が合えば、彼女は軟らかい笑みを浮かべて見せた。そして、鼻孔をくすぐる少し変わった甘い匂いに、ふと声を漏らす。
「煙草…」
「嫌いか?」
「あ、いえ。変わってますよね、匂い…」
「匂いか…。これはアロマの煙草なんだ」
「アロマ…?」
「普通はたばこの煙っぽい匂いしかしないけどな、この種類のやつは、花の匂いがするんだ」
「花の、匂い…」
 難しい顔をして鼻をすんすんと鳴らしたファナに、ゼンは眉を下げる。
「似合わないか?」
「あ、いえ!そんな…!」
「はははっ」
 慌てて首や両手を振って否定するファナに、ゼンは笑った。始めて出会った時から何故か優しくしてくれるゼンにつられて、ファナも笑う。
 それを見たゼンは不意に笑う事を止めて、視線を動かし、最終的にはそれを地面に落とした。
「あー」
 口からは意味のこもらない声が出る。ためらいがちな声に気付いたファナも笑みを無くせば、微妙な間が生まれてしまった。
「その…」
 綺麗なエメラルドグリーンの双眸に見つめられて、ゼンは居心地悪そうに視線を外し呟く。
「敬語じゃなくて、良い」
「え、…でも」
「俺も、その方が落ち着く」
 ふわりと煙草の匂いが鼻孔をくすぐる。
「…知り合いに、似てるから、さ」
「…妹さん…、ですか?」
「………」
 問えば、ぴくりと煙草を挟む指が震えた。そして暫くの沈黙の後に続いたのは、否定でも肯定でもないことばだった。
「ナズナに聞いたのか?」
「はい…」
「………」
 ファナが頷くと、途端にゼンはそのまま視線を逸らしてしまった。怒ってしまったのかと、ファナはうろたえる。
 しかし、まだ火を点けて少ししか経っていない長いままの煙草を踏み消して、ゼンがぼそりと口を開いた。
「……確かにお前は、…妹に、…声がよく似てる」
「声…?」
「だからあの時、俺は遠くにいたお前に気付いたんだ」
 空を見上げて呟くゼンの横顔を見つめ、
「…名前は、何て…?」
「リリィだ」
「リリィ…」
 小さくファナは復唱すした。
「私を初めて見た時に、呼んだ名前…」
「ああ」
「どうして、今は一緒に住んでいないんですか?」
「…殺されたんだよ」
「えっ、…」
「多分、…殺された。…屍体は見てないけど、血が沢山、残ってたから」
「………」
 気まずそうに俯いたファナは、そのまま口を開かなくなってしまった。
 聞こえるのは周りを行き交う人間の足音と話し声だけなもので。
 そうして二人は黙り込んだまま、歩を進めた。周りの喧騒が気まずくはさせなかったが、そのまま話を切り出せずに時は過ぎる。砂利を踏む音が時折聞こえては、すれ違った五月蠅いバイクの音に耳が利かなくなった。
 二人並んで歩いていると言うのに、分厚い壁が出来てしまったかの様に会話が交わされない。ただ皮膚の表面を通って無為に過ぎていく時間を、ぼんやりと感じるだけだ。
 行く宛もなく足を動かして、灰色の空の下に身体をさらす。
「………」
 無意識に足を動かしながら、ゼンはどうしても妹と被せて見てしまう事に胸を痛めた。あれが本当にリリィの血かは分からない。だが本当にそうだとすれば、あれ程の出血で助かっているはずが無い。しかしそう考える程、妹に似た彼女がより愛しく感じる。妹の声にそっくりだ。歳の頃も同じだろう。控え目な所や、はにかむ様に笑う所も。
 もしかして自分は、守れなかった大切な人を、身代わりを立ててもう一度守ろうとしているのか。それならばくだらない自己満足だ。
 そう自己嫌悪に陥った瞬間、
「あ、…!」
 不意にファナが声をあげた。
 一瞬息をのんだ程度のその声でも、そこに尋常でない怯えを感じ取ったそれは、ゼンの思考を遮り現実の世界に引き戻すには十分なものだった。
「どうした」
 ファナの顔が青白くなっているのに気付き、ゼンが駆け寄る。
「ぁ、あの、人たちっ…」
「…?」
 そして震える指先が指したのは、少し向こうの路地に佇んでいる二人の男だった。環境の悪い地域には似合わない、綺麗なスーツを身に纏った男たちだ。遠くから見てもすぐに見つけられる程、浮いた存在なのは明らかである。
 片方は背が高く体付きもがっしりしている。そしてもう片方は、背の低い、少し成長しすぎた腹をスーツに詰め込んだ男だった。そのどちらもが、黒いサングラスで表情を隠している。しかしその下からでも解る目の動き。行き交う人々を一人残らず刺すように見つめている。まるで訓練を受けた軍人の様だ。
 その様子をおかしいとは思ったが、何をそれほど驚くことがあるのだろうとゼンはファナを振り帰った。しかし、ファナの顔を見た瞬間に、普通ではないと瞬時に悟る事になる。
「っ…、…」
 怯えたまま後退り、喘ぐ少女の姿。先程よりもずっと酷い症状だ。その手は指先に血がにじむまで、首筋の、あの痣に爪を立てている。過呼吸を起こしたのか短く呼吸を繰り返し、薄く涙の滲んだ瞳は眼前の恐怖を映す。わななく唇が言葉になりきらない声を紡ぐ。
「私っ…、私、…っ!」
「どうした…、ファナっ?」
「痛いっ…、やだっ、止めてっ…」
「おいっ…!?」
 ゼンの声も聞こえていないのか、取り乱し出したファナが見開いた両目から涙を流した。
 その声が掠れて小さかった事が不幸中の幸いだろうか。じりじりと後退するファナの腕を抑えて、ゼンも注意深く彼らを見つめながら静かに下がる。一歩、また一歩。しかし、ゼンたちが人の波にかき消されるよりも、サングラスで隠れた瞳がこちらを見つけてしまう事の方が早かった。
 険しいまなざしが、ゼンたちに突き刺さるのを肌で感じた。




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