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Marijuana




「―――!」
 途端に、訳は解らないが、嫌な汗が背筋を流れ落ちる。心臓の音が、耳鳴りの様に鼓膜の内側に響いている。
 距離は離れていた筈なのに、土を蹴る音が明瞭に聞こえてきた。いつの間にか雑踏が引き、まるで通りには黒ずくめの彼らと自分たちだけが残された様な感覚に陥る。しかし、それら全ては錯覚だった。彼らはまだ遠い場所にいる。行き交う人々は減っていない。全てにおいて、遥か向こうにいる人間から発せられる威圧感がそうさせた。
 風で舞い上がった砂煙が、自分たちを隠してはくれないだろうか。
 どうして自分たちを見つけて、しかも近付いてくるのか。
 嫌な予感が駆け巡る。
 何も言われていないのに逃げるは、やはりおかしいだろうか。
 彼らが急いで追いかけて来ない分、逃げ出すタイミングも掴めない。感じる威圧感を逃す場もなく、ただ焦燥に駆られるだけだ。
 不意に腕に何かが触れて、ゼンは視線を下ろした。そこには異常な程怯えたファナの腕が絡み付いている。何かを呟いてはいるが、聞き取れない。目を見開いたまま、震えた身体を萎縮させてしがみついてくるファナを、無意識に抱き締めた。
「…、っ…」
 哀れだと思ったのかも知れない。
 そのまま抱き上げて、スーツの男たちを見据える。既に彼らとの間は十メートルも離れていなかった。一か八かの賭けでしかないが、何もアクションを起こさないまま流されるのだけは嫌だったのだ。思う様に行動出来ないのは、幼い頃だけで良い。そう思い、ゼンは少しずつ迫る距離に、自ら足を一歩前に踏み出した。腕にかかる重量が少しずつ心に平常心をもたらしてくれる。
 やはり、動きを見せたゼンに背の高い男が声をかけた。
「おい」
 今にも噛み付いてきそうな重低音に、反射的に軽い声音が喉から飛び出た。
「どうしたんだ、そんなに怖い顔して。この近くで、殺人でも起きたのか?」
 本音を言えば全く見えもしない警察を揶揄すれば、男たちは口端を歪めて皮肉げに笑う。
「こんな治安の悪い場所では、そうそう問題にはならないだろう」
「そうだな」
「人を探している」
「誰を?」
「女の子だ」
 身体が固まった気がした。
 この焦りが顔には出ていないだろうかと、逸る鼓動が相手にまで伝わってしまわないかと、心配になる。先程までの訳の解らなかった焦りが、今目の前で弾ける様に一瞬で理解される。ゼンは、コレを予感していたのだ。
 本能的に、危険な人間を察知していた。
 唇が、引きつった弧を描く。だがそれをゼンの茶化しだと理解したのか、男たちは構わず続けた。
「緋色の髪をした少女なんだが、知らないか?」
 腕の中でファナが震えた。
「赤い髪をした若者なんざ、こんな場所には珍しくもないだろう?」
「赤い髪ではなく、もっと綺麗な、この世のものとは…、――いや、良い。とにかく、緋色の髪をした少女だ」
「さあ、知らないな」
 気付かれないようにと、ゼンは声を絞り出す。それはあまりにも白々しい声だった。
 しかしその時、男たちの目がゼンの腕の中に向けられた。サングラスの向こうから薄く見える瞳が細められて、その姿を刺す様に見つめる。
 背の低い男が半歩前に出た。
「…その少女は?」
「…俺の、妹だ」
「どうして顔を見せない」
「!」
 そして太った男がフードに手をかけようとした途端、ゼンはしまったと胸中で舌打ちした。フードが捲られ、ファナの顔が露になった訳ではない。男の腕を避けるためにゼンが身体をひねった時に、フードが少しずれてしまったのだ。
 あどけない鼻筋にかかった緋色の髪を見咎めて、男たちの更に鋭くなった視線がゼンに突き刺さる。
「そこの少女も、緋色の髪をしている様だが?」
「…さっきも言っただろう。こいつも、悪い友人に影響を受けた馬鹿な子どもなんだよ」
「……」
 心臓が嫌な音を立てる。まるで腐った床板が抜けた様な。手の震えが止まらない。ファナを支えていて良かったと思った。目の前がチカチカする。今日はそれほど陽射しは無かったはずだが。いや、毎日か。
「…こいつの顔は、火傷が酷いんだ。幼い頃、火事にあってて…。今も気分が悪いと言っている…早く家に帰って看てやりたい」
「………」
 よくも言えたものだと、内心で自分を嘲笑った。しかし、今は男たちを誤魔化してやり過ごす他無い。本能がそう叫んでいる。
 ゼンは出来るだけ不安げな顔を作って黙り込んだ。
 すると、暫くためらった様な沈黙を見せた後、背の高い男が頷いた。
「…解った」
「すまないな」
 男たちが両端に別れ、開けられたその間を足早に抜ける。その間もずっと、ファナは震えていた。その身体を、宥める様に強く抱き締めてやった。

   ***

 食器の擦れる音に交じって静かな談笑が漏れる食卓には、沢山の料理が置かれていた。勿論それは、いくら四人全員が頑張ったとしても全ては食べ切れないと思われる程の量で。そうなったのも、長年牢獄生活をしていたファナに家庭料理を教えるのだと、ナズナが張り切ったせいだ。ここ一週間はずっとこの調子である。時々、見兼ねたトキが手を出した。
 テーブルには綺麗に盛られた皿もあれば、形が歪な料理が乗った皿もある。見た目の悪い料理は全てナズナが料理したものだ。香辛料や調味料の分量や種類を間違ったそれらは、しかし黙々と料理を口に運ぶゼンによって、一枚ずつ綺麗に片付けられていく。
 その様子に、ナズナが戸惑った表情で小さく声をかけた。
「あの…、無理、しないでね?」
「いや、大丈夫だ。慣れた」
「………」
 バッサリと返されてナズナは唇を噤む。ゼンが食べているモノを小皿に取って自らも食べてみたが、お世辞にも美味しいと言える味付けでは無かった。
 視線を皿に落としたナズナに、トキは笑みを漏らす。
「頑張って作ったんだから。ドンドン上手くなってくって!…多分」
「多分は余計よ!」
 ナズナより遥かに料理上手なトキは、フォークに刺さった肉を口に運んで批評する。
「醤油とソースを間違えなければ、これなんてもっと美味しく―――」
「トーキー」
「はははっ、冗談、冗談っ」
 喉を鳴らして笑ったトキにつられて、ファナもクスクスと声をあげる。
「私、こんな温かい料理を食べる機会なんて全く無かったので…何でも美味しいです」
「ファナちゃん…、ありがとうっ!」
「きゃっ」
 突然ナズナに抱き付かれ、頭をクシャクシャに撫ぜられたファナは戸惑った顔で、しかし嬉しそうに笑った。
「でも、太るよな。これが毎日だと」
「同感だ」
 呟く男たちを尻目にそうやってじゃれついていたナズナは、一息入れてファナから離れる。
「今日のお出かけ、楽しかった?」
 しかし笑顔でナズナがそう口にした瞬間、ゼンの手が止まった。帰って来た時には既にファナは元気になっていて、昼間に何があったのかなど、彼女らは知らない。カツン、とスプーンの先が陶器に当たって音を立てた。
「………」
 一瞬にして空気が張り詰めた事を感じ取ったトキが、手からフォークを放す。それを見たナズナも表情を固めた。
「…言っておいた方が、良いのかも、な…」
「何か深刻な事情なのか?」
「黙っておける事なら黙っておきたかった」
「何だ?」
「はっきりとは言えない…」
「良いから」
「…昼間、知らない奴と街ですれ違ったんだ。その時に、ファナが酷く取り乱したんだ」
「なんで?」
「…理由は、俺も解らない。けれどファナ、お前のあの怯え方は尋常じゃなかった」
 皆の目が、ファナへ集まる。ファナは元から小さな身体を更に萎縮させて、俯いている。シン、と耳を打つ沈黙が、ただ時計が時を刻む音だけを明瞭にさせた。
「………」
「ファナ…」
 口を閉じたままだった彼女は、しかしゼンに促されて言葉を紡いだ。
「…誰かは、解らないです。けれど彼らが、…彼らに似た人間は、…知っています。…あの時、何故か首筋が焼ける様に痛んだ…」
 今では血も止まり、爪が少し食い込んだ跡しか残っていない首筋を擦る。少し盛り上がった肉が、強く爪を立てた事を物語っている。それはあまりにも痛々しい様子で、見ていたナズナが視線を逸らした。
「どんな奴?」
 トキがゼンを振り返る。
「スーツを着込んではいたが、雰囲気からアレは普通の人間じゃ無かった」
「…そう言うツテの人間かな?」
「ファナの言葉からすると、その線が濃いな」
「………」
 神妙な面持ちで考える仕草をしたトキが、ファナを見つめる。その視線をファナは受け取らず、テーブルの下で組んだ自らの手をジッと見つめていた。その様子に一度口を開きかけたトキが、少しためらった後、軽く頭を振り、真剣な表情で切り出した。




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