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白鎮魂歌(完結)
渡る命



「もう、時間はないのかも知れませんね」
 不意に聞こえた静かな声に、今まで頭を垂れていた朱援は反応を示した。さくり、と草履が土を踏んで、足跡を付ける。
「…それは、どういうことだ?」
 視線を合わせれば、その相手は肩を竦めて言った。
「私たちは人間に懺悔する必要は無いのですよ」
「…対等でいれば良い、と…そう言うことかえ?」
「………」
 不安げにそう問うてきた朱援に、きょとんと瞬き、
「ええ」
 晴珠は静かに微笑む。
 少しずつ青みがかって来た空を見上げれば、数羽、鳥が飛んだ。いつもと変わらない日常風景でありながら、何処か不安を感じる光景。
「貴女は、昔の貴女とは随分変わりましたね」
「人は変わる」
「私たちは殻蟲です」
「……。妾を待たせたと思えば、次は言葉遊びか?」
「いえ」
 明らかに不機嫌を表した朱援を見て、晴珠は降参だとでも言う様に手を上げる。
「ただ、本当に。どのように取っても時間がないものですから」

   ***

「………」
 ぼんやりとした視界は、ほんの少しの光に照らされていた。意識を取り戻した身体に、冷たい床が触れる。荒削りされた石畳の感触が、着物から出た四肢には少し痛く感じた。
 静かな空間だった。物音一つせずに、灯と言えば向こうに見える蝋燭一本だ。ゆっくりと見渡せば石壁に続く窓が一つ、月の浮かんだ空を切り取っていた。
 と、そこで一気に意識が覚醒した。
「…、っ…」
 急いで身体を起こせば首筋に痛みが走り、軽い眩暈を感じる。しかしそんな些細なことに拘泥している場合ではない。壁とは反対の、蝋燭が揺れる方へと近付けば、不意に何かが狛の行く手を阻んだ。暗がりでよくは分からないが、冷たい感触が手に当たる。柵がはめられていて、どうやら此処は牢屋らしいと判断出来た。
「どうしてっ…」
 愕然とした。
 早く行かなければならない場所があるのにと、気ばかりが急いて行く。
 一度鉄柵を強く握り締めてみたもののやはりびくともせずに、狛は力無く頽れた。静かだ。耳に痛い程に空気がぴんと糸を張っている。
 不意に、その糸を掻き乱す足音が牢屋に響いた。反響して幾重にも聞こえるが、ただ一つらしい。通路に掛けられた蝋燭とまた違った光が目に届き、狛は顔を上げた。
「………」
 その目に映ったのは、橙色の光を含んだ控え目な桃色の着物を着た女の姿だった。
「狛…」
「母さん…!」
 声で茜だとすぐに分かった。やがては、茜の陰鬱な顔がはっきりと見える様になる。狛は立ち上がり、鉄柵を掴んで自分より幾分か上にある顔を見つめながら言った。
「出してよ、母さん」
「……」
 茜は口を重たく閉ざしたまま、狛をじっと見つめている。蝋燭の灯はあまりにも頼りなく、瞳の色までは分からない。それがどうしようもなく不安に感じ、不安は憤りへと変わって行く。
「どうして俺が捕まらなきゃいけないんだよ!俺、行かなきゃならない所があるんだ」
「それは、捕まったお友達の所へ?」
「っ…、あいつは、犯人じゃないよ…」
「退治屋さんは、黙ったままだって言ってるけど」
「そんなの、そいつが嘘を言ってるだけだ!皆、蘭角の姿が見えないから、声が聞こえないから!」
「狛…」
「あいつのこと、何にも知らないで…!」
「………」
 茜の返答はあまりに静かだった。
 牢屋に反響するのは狛の声だけだ。それがより一層、狛の焦躁を掻き立てる。
「母さんも、俺の友だちが信じられないのかよ…?」
「信じたいけれど…、友だちが殻蟲だと言うなら信じたくないわ」
「…、っ……」
「…私は、狛には殻蟲なんてものと一緒にいて欲しくない」
「どうしてっ…」
「人間と殻蟲は違う」
「人間と人間だって違う!」
「…、っ…」
「一緒に生きて行くことだって出来るんだよ…」
 茜の持つ蝋燭の火が激しく揺れた。どうやら牢屋への入口がしっかりと閉められていなかった様で、きつく吹いた風は狛の髪までもさらって行く。
 長い長い沈黙の後、茜は俯いたまま消え入りそうな声で言った。
「そう言ってあの人も、友人と言っていた殻蟲のせいで命を落としたのよ…」
「!父さんは…殻蟲と、闘って死んだんでしょう?」
 狛の不安げな言葉に、茜は首を振る。
「…退治屋のあの人は、退治屋と言いながらも、悪しきものを祓うだけの人だった」
「だから、それで…」
「何より、話し合いですむならそれで解決しようとする誠実な人だったわ…」
「……」
「それなのに。無惨にも殺された」
「友人を、庇ったの…?」
「友人に、殺されたの」
「…、っ…」
 風が止んだ。
 耳に届いていた風の音が消え、不自然な速さで鳴る心臓の音が嫌な大きさで聞こえてくる。唇が震えた。殻蟲が何を考えているか分からないと言ったことに恐怖を感じた訳ではない。何か胸騒ぎがした。
「友人は、誰…?」
「……、分からないわ……」
「……」
 茜は視線を合わせない。
 それがより一層、胸騒ぎを増させた。
「貴方とあの人は良く似てるから…気を付けて」
 蝋燭の灯が遠のいて行く。温かい橙の灯。後に残されるのは裸足に触れる石畳の無機質な冷たさだ。
 良い事など一つしか起きない。それから二つ目はどうやっても悪い事の後にやってくる。間に挟むのだ。そうしなければ、良い事を良い事と確認できなくなる。けれど、どうして。どうして、悪い事はこれ程までに続くのだろうか。
「………、は」
 死ぬのが、怖いのかも知れない。
 狛は、うなだれる。
 今さら何を言っているのだろうか。
 否、今さら死に怯えている訳ではない。
 信じている相手に裏切られることに怯えているのだ。
 もしかしたら、朱援に、晴珠に、陽桜に、蘭角に――
「違う!!」
 過ぎった考えに、狛は鉄柵に拳を目一杯叩き付けた。自己嫌悪が溢れる。
 目の奥が熱い。
「くそっ…くそっ…くそっ!」
 何度も何度も叩く。手はじんわりと痛んだが気になどならなかった。
 と、不意に、茜が来た時の様に空気が揺れた。足音が響き、次第に橙色の灯が近くなる。
「出ろ」
 看守だろうか。
「仲間に合わせてやる」
 橙色の灯の向こうで、男は無表情だった。


 同じ様な石畳の廊下を通り、同じ造りの廊下を幾つか超えた時、不意に悲痛な叫び声が聞こえた。
 聞き慣れた声の、聞き慣れない声。
「蘭角!?蘭角!!」
「こら…!」
 しかし駆け出そうとした狛の腕を、看守が捕らえた。
「離してくれよ!蘭角がっ…!」
「今連れて行く。同じ場所にも入れてやる」
「だったら早く…!」
「その代わり、話を聞き出してくれ」
「……?」
「…だんまりなんだ」
 訝しげな狛の視線から逃げる様に看守は目の前を見つめ、狛の背を押した。
 だが、狛にとって看守などどうでも良かった。今はただ、蘭角の無事を願いたい。蘭角の入れられた牢に近付くまでの一歩が、とても長い時間に感じた。
 やがて辿り着く。その中に蹲る赤い影に、看守に手を離された途端狛は飛び付いた。
「蘭角…!」
「っ、う…」
 呼べば、蘭角の身体が弱々しく動いた。擡げられた顔には血筋が何通りも出来ている。肌は所々切り傷で一杯だ。
「蘭角っ…」
「何しに、来たんやっ…」
 しかし、その伸ばされた手を、蘭角は降り払った。ずきりとした痛みを胸に感じながら、狛は言う。
「違うって言えよ」
「殻蟲が、今さら何言っても…信じても、らえへん」
「そんなこと、…」
「それにしてもこの退治屋、目茶苦茶に刺しよってなぁ。痛くてかなわんわ」
「蘭角…!」
「………」
 強い調子の狛の声に、蘭角は唇には笑みを象ったまま制止した。今度は触れようとしても、手は振り払われなかった。蘭角の体重が、狛の細腕にかかる。腕に抱えられた蘭角の紅い瞳は、ぼんやりと狛の向こうを見ていた。後ろに佇んでいる、看守の姿を。
「…無意識にやったんかも知れへんやろ…」
「……」
「言うたやろ…。俺らは、戦闘能力が高いだけで、誰かを癒すことは出来へん。誰かを殺すしか脳がないんや…」
「…っそれは違うと思うんだ…!だって、蘭角は俺のこと慰めてくれただろ?」
「昔のしがらみが、抜けきれてへんとは限らんやろ…!」
「っ…!」
 哀しみと苦しみを綯い交ぜにした様な蘭角の声に、狛は息を飲んだ。固く閉ざされた瞼からは蘭角の表情が読み取れない。
「早く聞き出せ!」
 急かす鋭い声が飛んで、蘭角は狛の腕を掴んだ。驚く狛の掌に、温かい手が添えられる。肩が揺れた。看守が掴んでいる。蘭角が苦しげに息を吐き出す。
「けど、これだけは信じてくれ…」
「何、…」
「最後のは、俺と違う」
「えっ…――――蘭角!!?」
 握られた手が、熱く、痛みを伴って熱くなった。
「じゃあな」
 そう微笑むと、蘭角の身体は淡い光に包まれて霧散した。理解出来ずに、狛はただ、空になった腕の中を見つめるだけだ。そして、身体の内側で渦巻く力の波を感じる。熱い、熱い、生命の力を。
 何が起きたのかを理解した頃には、無意識に涙が頬を伝っていた。
「なんで、こんなことっ…」
「どうした」
 看守の言葉に、狛が目を見開く。
「何が…?」
「何もないなら早く出て行け。これからまた、この男に聞かなければならないことがある」
「………っ!」
 途端、憎悪が溢れた。
「見えてないのか?」
「え、…」
「蘭角が、殻蟲が、見えないのか…?」
「…っ、何を」
「見えないのに、悪戯に処罰を下してたのか?痛め付けてたのか?」
 初めて感じる感情だった。
 内から溢れる力が、肌を突破って暴れそうだ。
「………ぅ、…うあ"ぁあ、ああ―――!!」
 そうして狛は、溢れる怒りをぶつける様に、今までとは比べ物にならない力で柵を破った。片腕を看守に捕まれるが容易く降り払う。不思議と痛みは感じない。身の内からどんどんと力が溢れてくる。
 遠い空では、鉛色の雲から雷鳴が轟いた。
 もうすぐ、雨が降る。





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