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白鎮魂歌(完結)
炎と災



 視界が、緋色に染まった。
 ただそれは、痛みを与えられたからではない。身体が傷付いたからでもない。
 目の前で、何かが―――女が、稲荷が、殻蟲が、燃えていたからだ。
「ぁ、…ああっ…」
 焼けただれる皮膚の臭気が鼻を突く。熱さに犯され、乱れ狂った様に稲荷は悲鳴を上げて何度も何度も身を捻った。その前に佇むのは、肩から血を流した蘭角だ。右手には、揺らぐ炎が見える。晴珠のものと同じだろうか。
『ウラギリ、も、の、…』
 稲荷が唸った。
 焼かれた喉で、掠れた声を上げる。
「もとより、裏切る絆なんか、お前らとは繋がってへん…」
 歯がみしたまま低く言った蘭角に、不意に殻蟲はもがくのを止めた。濁った瞳を目の前の男に向ける。きっと、もう視覚は残っていないのだろう。焦点の合わない瞳は、蘭角を通り過ぎた向こうを見ていた。
 しかし、殻蟲は嘲笑う。
『ふ、ふ、ふ』
 ひくりひくりと、身体が揺れた。弱々しく擡げられた腕が、指先が、蘭角を指した。
『オまエは、わたしとオナじニオイをしてイるノニ』
「!」
『アア、イまわしイ、ニオイ』
「黙れ!!」
 蘭角が激昂した途端、燻っていた筈の炎が再び熱を持った。生きている様にうねりながら殻蟲を包み込む。絶望の叫びを上げて、殻蟲は焼き切れた。
 ぶすぶすと音を立てて、亡骸は灰になる。それは消して周囲を焼く炎ではなく、意識したものしか焼けない生きた炎――蘭角の力。
「俺はっ…、俺は、化けもんと違う…!」
 そう呟いた蘭角の声は、あの時と同じ様に何処か寂しげで。訣別を示したと言うよりは、願いを込めた様なものだ。振り向いた瞳も、今は鎮まった炎の様に、穏やかというよりは勢いがなかった。
 裾を掴み険しい顔をする蘭角に、狛は問う。
「あの殻蟲…」
「ああ…。生まれたての子どもを、退治屋か何かに殺されたんやろうな」
「…」
 吐き捨てる様な蘭角の声音に、狛は眉を寄せた。そんな狛の様子に、蘭角は今ではもう完全に灰となってしまった殻蟲の亡骸を見つめる。
「酷いと、思うか?」
 狛は答えなかった。
「変わりもんやな」
 嗚咽を噛み締めるために、答えられなかった。
「お前やったら、信じても良いんかもな…」
 小さく呟かれた蘭角の声は、狛へ届く前に風にさらわれる。
 やがては、灰になった亡骸は風に吹かれて跡形もなく消えてしまった。黒ずんだ後だけが地面に、陰鬱な空気だけがその場に残っている。時間だけが止まってしまったかの様な空間。幾つ時間が進んだかなどと知る由も無かった。
 それを裂くのは、狛の声でもない、蘭角の声でもない、良く知ったもの。
「こまー!」
 鼎の声だった。それは向こうから走って来て、林に紛れた狛に気付かず通り過ぎそうになる。
「鼎」
 それを引き止めるために呼べば、漸く狛の居場所に気が付いたのか、鼎が方向を転換して駆け寄って来た。
「っ、やっと、見つけたっ…」
 声も枯れ、はあ、はあ、と肩で息をする様子を見ると、長い時間走って叫び続けていたのだろう。ただ、狛を探すためだけに。
「どうしたんだ?」
 いつまで悼んでいても仕方ないと、狛は顔を上げた。視線が合うと、鼎の瞳が大きな不安に揺れていることに気付く。身体全体で大きく息をして、鼎は言った。
「とにかく、…急いで来てくれよっ!!」

 走っている途中で色々と話は聞いた。
 何故狛を探していたのか。
「村が、何かに襲われたんだ」
 そう、鼎は言った。喉から絞り出す様な苦痛を含んだ声で。前を走っているために表情までは見えなかったが、きっと今にも泣いてしまいそうなのだろう。
「どうしてっ、何に…!?」
「わかんないよっ…」
「そんなっ…!…、犯人は、見たのか?」
「…、千代が、見たって」
「千代ちゃんが…?」
「とにかく、早く行かないとっ…」
 焦躁に駆られた鼎の声。
 そんな二人の後を、蘭角は無言のままついて走っていた。

 村に帰れば、案の定大騒ぎだった。狭い広場には人があふれていて、何やら話あっている。気がつけば後ろをついていた筈の蘭角も居なくなってしまっていた。そんな中に鼎の妹――千代の姿を見つけて狛は一目散に駆け寄った。
「千代ちゃん…!」
 声をかけた途端、千代だけでなく周りの人間までもが狛を見た。そして鼎を見、口々に何か呟く。異様な雰囲気に飲まれながらも、狛は千代へと近付いた。
「ごめんよ、千代。一人にさせて」
「にいちゃ…」
「淋しかっただろ?ほら、おいで」
「っ…」
 鼎の優しい言葉に、無表情で平静を保っていた千代の顔がくしゃりと歪んだ。瞳には涙が浮かび、それはやがては大粒になって頬を伝っていく。大声で泣き出すとまではいかなかったが、鼎の胸にすがりついて嗚咽を漏らした。
 この広場の緊張した空気に飲まれたのだろうか。それとも。
「鼎、鼎の父さんはどうしたんだ?」
「………」
「鼎?」
「………死んだよ」
「っ…!?」
 死んだ。
 再びそう告げる鼎の瞳は哀しいほどに冷たかった。無表情のままの鼎が千代を振り返り、嫌な予感が頭を過ぎった。
「千代、話してくれるか?父ちゃんを、…襲った人のこと」
「っ…、…」
 低く呟かれた声に、まさかと心臓が脈を打つ。友人の腕に抱かれた小さな身体が震えた。何か恐ろしいものを思い出した様に、目の前の身体にしっかりと抱き付く。千代の無言の抵抗に、鼎はその頭を小さく撫ぜながら溜息と共に言葉を吐き出した。
「千代…」
 兄に優しく促され、嗚咽を噛み締めながら千代は腫らした目で狛を見上げる。父を亡くした少女の姿はあまりにも痛々しい。
「…ぁ、赤い、赤いおにいちゃん…まるで鬼みたいに、笑ってたの…」
「赤い、鬼…?」
 その時脳裏に、千代の言葉によってある一つの姿が思い浮かんでしまった。それを激しく後悔するが、それは千代の泣き声によって、すぐに思考の隅へ追いやられてしまう。
「とお、ちゃ、…ああ、うあああんっ…!」
「千代…」
 堪え切れずに息急き切って泣き出した千代の身体を、再びあやす様に鼎が力強く抱き締めた。その様子に返す言葉が何も思う浮かばずに、狛は立ち尽くすしかない。不穏なざわめきに身を焼かれる思いだ。
「どないしたんや?」
「―――っ!」
 不意にある声が聞こえた時、不自然に千代が泣きやんだ。どくりと心臓が跳ねる。千代の瞳が普通では空虚であるはずの場所を見ている。恐る恐ると追えば、こちらにやって来る声の主を見つめている様で。
「赤い、おにいちゃん…」
 千代が指を指す。
 狛の脳裏に過ぎった通りの姿を。
 つまりは、見えていると言うことだ。
 彼が、蘭角が、殻蟲が。
 蘭角の怪訝そうな瞳が狛に助けを求めてくる。足が震えた。やけに渇いた喉が張り付いて、動かす度に裂かれる様な痛みを感じる。
 しかし狛が口を開く前に、千代の叫び声が沈黙を破った。
「とおちゃっ…、千代のとおちゃんをかえしてよぉ!」
 その声に気圧されて、蘭角は狛へ助けを求める。しかし、今ここで――見えない人間の前で会話をする訳にはいかない。しかし、千代が指を指している。その相手を、鼎は探している。
 何処か抜け出せない洞穴に駆け込んだ様な感覚に陥って、狛は重たい口を開いた。
「村が、誰かに襲われたんだ」
「狛…?誰かいるのか?」
「それが、…ぁ、赤い、髪の…男だって…」
「誰と、喋ってるんだよ…?」
 鼎の顔が困惑に染まる。
 千代は再び鼎に抱き付き泣き出した。
 蘭角は黙ったまま話を聞く。
 狛は、震える唇を開く。
「でも、蘭角は関係ないよな?千代ちゃんが遠目で見て、赤い髪と男だってことしか分からなくて、だから勘違いして、蘭角だなんて言ったんだよ」
「………」
「だから、蘭角が違うって言わなきゃ、蘭角が、犯人になっちゃう。だから、違うって言わなきゃ」
「…狛」
 蘭角の小さな制止に、狛は従わない。
「蘭角が、人を襲ったりなんてするはずないだろう?だって、あんなに悲しい思いをしたんだ、だから―――」
「狛」
「っ……」
 しかし再びしっかりとした口調で遮られては、口を噤むしかなかった。見上げれば、何処かあきらめた様な蘭角の瞳が目に入った。
 それでもすぐに逸らしてしまう。認めている訳ではなかった。認めたくもなかった。しかし、当人が否定の言葉を発しないのだ。
 そして、
「俺には、その時の記憶が一切ない」
「なんでそんなこと言うんだよっ…」
 呟かれたその言葉に、目の前からの光が全て遠のく様な、そんな感覚に陥る。何処かでこれと似た声を聞いたことがある。懺悔をする様な。赦しを乞う様な。哀しみの滲んだ声だ。
 それまで黙っていた鼎が口を開いた。
「なんて、言ってるんだよ」
「…っ」
「狛!」
 強く促され、狛は息を飲む。肌で感じたのは直接的な怒りだった。くらくらと眩暈がする。吐き気がする。
 何が間違いだったのか。
 何処で間違ったのか。
「…じ、自分が、やったかも知れないって…」
「かも知れないだって…?」
「記憶が、ないって…」
「そんなの、…そいつに決まってるっ…」
 鼎の唸りにも似た声に、狛は顔を上げた。
「俺の父ちゃんを殺したのだってきっとそいつだ!!」
「――ッ!」
 ざわり、と空気が揺れた。
 不穏の渦に飲み込まれる。
 向けられたのは幾対もの疑惑のまなざし。
 ざわめきの波は見る間に増えて行く。
「村を襲った犯人がいたのか?」
「違っ…」
「化け物なの?」
「違う!」
「見えないのならば怪の類かも知れん」
「蘭角はっ、…蘭角は!」
「お前の知り合いか?」
「人間のことをっ」
「やっぱり余所者はっ…」
「止めてよ!!」
「捕まえろ!」
「蘭角っ」
「退治屋を呼ぶんだ!」
「らん―――」
 蘭角の手を取って逃げようとした刹那、首に衝撃が走った。激しい眩暈に襲われて、一気に意識が遠のいていく。
「お前が俺のために罪を被る必要はないんや…」
 蘭角は無表情で佇んだまま逃げようともしないで、倒れ行く狛を見つめていた。
 視界が白くなる。
「悪く思うなよ。人間と殻蟲は共存してはいけないんだから」
 聞こえた声は、誰が発したかも分からない程くぐもっていた。




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