記念の小説
困らせないで 終



 登校準備をしなければならない朝の時間は、あっという間に過ぎていく。
 高校の制服に着替え学生鞄を持ったオレの後ろについて、ハルが玄関先まで見送りに出てきた。
 上がり框に座り、スニーカーを履く為に丸めた背中に彼の視線を感じながら、どうしても動作が鈍くなる。
 よりによってハルが休みの日に、学校に行かなければならない自分が恨めしい。いっそ今日は休んでしまおうか。
 ハルが日曜に休めないなら、融通の効く学生のオレが彼の休みに合わせてしまえばいいのではないか。
 そうだ、そうしよう。
 後ろ髪を引かれる思いでノロノロと靴紐を結んでいたオレは、そう思い付くと即座に勢いよく立ち上がり、クルリと彼に向き直った。
「ハル、オレ今日……」
「タイシ、あのさ……」
 ところが互いに発した言葉が被ってしまい、ふたりして慌てて口をつぐむ。オレは譲るつもりで少し首を傾け、無言のままハルに先を促した。
 それなのにどうしたことか、彼はいつまでたっても続きを言おうとしない。
 20センチは低い三和土にスニーカーを履いて立ったオレと、上がり框に立ったままのハルの顔は、丁度同じくらいの位置にある。
 しかし、完全に目を伏せてしまっている為にハルの表情が見えず、例によって不安が頭をもたげ始めたオレは、恐る恐る彼の名前を呼んでみた。
「……ハル?」
 名前を呼ばれると、ハルはそれが合図だったかのように、遠慮がちに口を開いた。
「あ、あのさ。行ってきますのキスは…… しないのかな、と、思って」
 ボトッ。
 オレの手から滑り落ちた学生鞄が、タイル張りの三和土に当たり派手な音をたてる。
 鞄に入れた弁当箱の中で、苦心して飾ったミニトマトがとんでもない方向へ転がったかもしれない、という考えがチラリと脳裏を掠めたが、次の瞬間にはどうでもよくなっていた。
「あ、や、嫌ならいいんだ。お前は母さんにだって、挨拶のキスをしないだろ。俺だけしてもらうのも、母さんが後で知ったら拗ねそうだしな」
 そう言ってフイと顔を横に逸らした拍子に見えたハルの片側の頬から耳たぶまでが、綺麗な桃色に染まっていた。伏せたままの長い睫毛も、心なしかふるふると震えている。
 こ、ここかー!!
 ここが、彼の恥じらいのポイントなのか。
 挨拶でないキスなら何度かしているじゃないかと思ったが、乙女の如く恥じらうハルの美しい姿をこの胸に刻みつけたくて、オレは彼の方にずいと、身を乗り出した。
「……じゃない」
「ん?」
「い、い、いいい嫌じゃない」
「ホント?」
 慌て過ぎて激しくどもってしまった格好の悪いオレなのに、ハルは嬉しそうに見返してくれる。
 ああ、オレは本当にこの人が好きだ。
 ほんわりと嬉しそうに笑うハルの肩をそっと引き寄せながら、触れれば割れてしまうシャボン玉にくちづけをするつもりで、オレはハルの唇に優しく自分の唇を押し当てた。
 オレ達の顔がゆっくりと離れた丁度その時、ピンポンと玄関のチャイムが鳴った。
「あ、来たよ。ユウイチのお迎え」
 オレはハルの肩に手を置いたまま、ガックリと項垂れる。
 しまった、今日は休むと言いそびれた。
 それに行ってきますのキスをした後では、学校に行かないわけにはいかないではないか。
 暫しの逡巡の間をどうとったものか、ハルが努めて明るくオレに言った。
「大丈夫だよ、タイシ。俺、お前が帰ってくるまでちゃんと待ってる。お前を困らせるようなことはしないから、俺の心配なんてしてないで行ってこいよ」
「……ああ、待っていてくれ。じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 オレはハルに背を向けると、玄関扉を開けて外へと一歩を踏み出した。

 待っていてくれ、ハル。
 オレが高校を卒業するまであと少し。
 卒業したら、必ずあなたに好きだと言うから。
 それまでどうか、もう少しだけ待っていてくれ。





2012.03.12




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