「タカトー」 遠慮がちだが、はっきりと良く通る子供の高い声に、高遠はハッと我に返った。同時に、掴んでいた小笠原の服を放す。 解放された小笠原は、無言で高遠を睨みつけたまま、くしゃくしゃと皺になってしまった胸元を整え出した。 この場の気まずい空気を割くように、 「タカトー?」 と、可愛らしい声がもう一度自分を呼んだ時、高遠は声の主を振り返って優しく言った。 「どうしたの? わたしの用事が済むまで、お家で待ってる約束でしょう」 振り向いた高遠の顔には、笑みが浮かんでいる。 つい今しがたまで小笠原と言い争い、彼を殴ろうとしていた人物とは思えない。 スライド式の重い鉄の扉を少しだけ開けて中を覗き込んでいた子供は、お目当ての高遠をみつけて喜び勇み、約束など忘れて倉庫に入ってきた。 そして一目散に走り寄ってきたかと思うと、高遠の胸の中に思い切り良く飛び込んだ。 「あら、あら、あら」 幾ら子供とはいっても、助走までつけた勢いで来られては相当の衝撃があるだろうに、それを難なく受け止めて、高遠は笑顔のまま続ける。 「この倉庫に来ては駄目って、言っておいたでしょう。一体、どうしたの?」 「あのねー、おなかすいたのー」 「あら嫌だ、もうそんな時間?」 「おい」 小笠原が高遠の背中越しに声をかけるが、無視を決め込む。 「今日の夕飯は何にしましょうか?」 「んー? カレー」 「おい、タカ」 「アンタ、カレー好きねぇ」 「なぁおい、タカってば。その子、誰?」 そればかりか、高遠の大きな身体に隠されて一瞬にして見えなくなってしまった子供を、興味津々に覗き込もうとする小笠原に対し、身を捩って彼の目から遠ざけておいて、冷たい声で言い放った。 「アンタには関係無いわ。見ないで頂戴、エロがうつる」 「なっ……!」 「義光」 「んだよ」 小笠原はすっかり不機嫌な声に戻ってしまったが、 「バンド活動は、一旦休止にしましょう」 高遠は自分の胸に届くか届かないかくらいの子供を抱きしめながら、小笠原に提案する。 「え、なんで?」 「ほら、わたし達もう、冬休みが明けたら受験じゃない」 「受験つったって、俺達が受けるのT高だぜ? 俺もお前も、目ぇ瞑ってたって受かるっつの」 小笠原が言ったT高は、県立の普通科高校である。 練習倉庫がある市の中心部、駅前商店街の南に位置している、市役所や警察署が建ち並ぶ官庁街を抜けた先―― ここからだと歩いて十分程の、坂の頂上にある学校だ。 卒業後は進学よりも就職する者の方が多いため、県内の高校の中では比較的自由な校風で知られ、校則も緩く部活動の強制も無し、アルバイトも校長の許可が降りればOKというところが気に入り、バンド活動に力を入れたかった高遠と小笠原は、同じT高校へ進学することを決めていた。 T高なら放課後すぐ倉庫に集まって練習を始められるし、高遠の父親が経営する向かいのレストランでアルバイトをして、必要な楽器や機材を買い揃えることもできる。 「世の中嘗めてかかってると、痛い目をみるわよ。まあともかく、バンドもわたし達二人だけじゃあどうにもならないし、すぐには新しいメンバーもみつからないだろうから、春までは充電期間ってことで」 「分かった。バンドリーダーはタカ、お前だ。お前がいいなら、俺もそれでいい」 小笠原がどんな顔をして言ったのか、背中を向けていて見ることができず、彼の本心は計りかねたが、思いも寄らぬ言葉に高遠は驚く。 少なくとも、こちらがリーダーだと認めてもらってはいるわけだ。 好き放題やっているのかと思えば、どうやらそうでもないらしい。 短気をおこしてバンドを辞めると言わなくて、小笠原を殴らなくて良かった。 この子が来てくれたお陰かしら。 高遠は腕の中で、おそらく今交わされている日本語は理解できていないだろう、自分を見上げたまま動かない、可愛らしい子供を見つめた。 目が合うと、その子はにっこりと高遠に笑いかける。 まるで、良い香りのする花がパッと咲き開いたような笑顔だった。 「義光、倉庫の合鍵は持ってるわよね。家に居づらいのなら、休みの間ドラムの練習に来てもいいし、ここは好きに使って頂戴」 花のような笑顔を見ると、さっきまでの怒りはすっかり治まって、そればかりか少し優しい気持ちにもなり、小笠原を振り返った高遠は、落ち着いた声でそう言った。 |