花繋グ 10

「……分かりました」
 自分より一回り以上年嵩のコック長に優しく諭されれば、タイシは首を縦に振らないわけにいかない。
「帰るぞ、ハル」
と言った声は大いに不満げで、口下手なために上手く言葉にできないタイシはそれを身体で表すというか、コック長が止めるのも聞かず従業員出入り口に向かってスタスタと歩き出した。
 滅多なことでは自分からは握ろうとしない、ハルのアザができていない方の右手を、そっと後ろ手に握りしめて。
「タ、タイシ、ちょっと……」
 中年男と顔を合わせるのが怖くてハルは躊躇っていたが、手を繋いだタイシが自分を背中に隠すように庇ってくれていることに気づいたので、それ以上は何も言わず黙ってついていくことにした。
 あの男とは違い、タイシは自分を無理矢理強い力で引っ張るような真似はしない。
 本気で嫌がれば、裏口から帰るようなこともしないだろう。

 タイシに任せておけば大丈夫。

 そうハルは感じていた。
 十三才で日本に来るまで飛行機はおろか電車にさえ乗ったこともなく、二階以上の高さの建物といったら島の教会しか知らなかったハルだ。
 もうすっかり慣れてしまったが、駅前に並んだ高層ビルの谷間にあるスクランブル交差点で人いきれに酔い、目を回してしまったこともある。
 それでも鳥と一緒に歌って遊び、風の吹いてくる向きで自分の今いる位置を知り、空気の匂いを嗅いで雨や雪が降るのを予測していた直感的な感覚は、七年経った今でも身体の内に残っていた。
 お客さんの前で歌っている時には、それが顕著に現れる。
 “エメラルド”のステージは目の前に客の顔があり、円形の舞台はレストラン全体の空気を直接感じ取ることができた。
 その時その時の店の中の雰囲気に合わせ、出す声の大きさや揺らぎなどの歌い方をハルが変えるのは、計算されたものではなく、あの島にいた時と同じ言葉にはできない感覚的なものだった。
 そんなステージ上のハルを見て中年男がどんな幻想を抱いたものかは知らないが、実際には田舎育ちで世の中のことに疎く、恋愛の機微など全く考えたこともない、未だにタイシに対する自分の気持ちにさえ気づいていない奥手のハルには、男からの食事の誘いなど迷惑なだけの話なのだ。
 自分ひとりでは何の対処もできはしない。
 まだ十六才のタイシにすっかり甘え切っている二十歳の自分を歯痒く思わないでもなかったけれど、今までの経験上どんなこともタイシに任せてしまった方が上手くいくし、安心できることは分かっていた。
 休憩室から出たハルは、バックヤード通路に立ち自分達を心配そうに見ているコック長を振り返ると、
「コック長、ありがと。また明日」
 さすがにコック長に笑顔を見せることはできなかったが、大丈夫心配しないでというつもりでお礼を言うと、後はもうタイシの背中に額をくっつけるようにしてついていく。
 タイシの背中は、とてもとても広かった。

 いつの間にこんなに大きくなったんだろう?

 小笠原が聞いたら何を今更と笑うだろうが、今までタイシを自分の背中に庇ってきた―― ここ数年は、実際には彼はハルの背中からはみ出していたのだが―― つもりでいたハルは、庇われる側になって改めて、タイシの大きさに気がついたのだった。






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あきゅろす。
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