「ハル、起きたのか」 キッチンカウンター越しに低く太い声をかけられ、ハルはその日本人を見上げた。 切れ長の目を持ちはっきりとした顔立ちの、まだ若い男性だ。 料理を作る時の邪魔になるのか、時代劇に出てくるお侍さんのように長い前髪をゴムで結んでいる。 「すまない、学校から帰ってくるのが遅くなった。晩飯はもうすぐ出来上がるから、あと少し待ってくれ」 そう言って急いだ様子でキッチンカウンターの向こうから窮屈そうに身を屈めてこちらを覗き込んだ彼は、そうしないとカウンターの上の壁に顔が隠れてしまうほどに背が高かった。 「タイシ」 ハルは彼の名を呼ぶ。 呼んだと同時にヒィックと、大きくしゃくり上げてしまい、慌てて右手で自分の口を塞いだ。 ハルが泣いているのだと分かると、途端にタイシは男らしい顔の眉の間に皺を寄せる。 これはまだ小学生だったほんの小さな頃から、四つ年上のハルがあまりに泣き虫なためにその度に心配して眉を寄せてしまい、いつの間にか身についてしまった彼の癖だった。 日本に帰って二年後に、母親のウイは日本人男性と再婚した。 タイシはその男性の連れ子で、ハルにとっては義弟になる。 一度目の時と違いきちんと籍を入れたので、ウイもハルも彼らと同じ苗字に変わった。 デンマークではサクラと二人きりの生活を送り、日本に来てからはこちらになかなか馴染めず、かといって親子二人の生活を支える多忙な母親に我儘を言うわけにもいかず、ひとりぼっちで寂しい思いをしていたハルは、義父と義弟がいっぺんにできたことがとてもとても嬉しかった。 おまけにタイシは十一才だというのに、ウイに代わって家の仕事を何でもこなし、ハルが中学校から帰ってくる時間にはいつも家にいて何かと世話を焼いてくれる。 家でタイシが待っていると思うと嬉しさのあまり帰り道でついスキップをしてしまい、その頃一緒に帰っていた同級生でバンド仲間の、リョウの笑いを誘ったものだ。 ハルが泣いていると分かっても彼は何も言わず、水道の蛇口を止めガスレンジの火を消すと、キッチンカウンターから出てきた。 手にはティッシュを箱ごと持って。 そして、ソファーに足を投げ出したまま必死に嗚咽を堪えているハルの顔の脇に寄ってきて立て膝をつくと、口を覆っている手を外させ優しい手つきで涙を拭いてくれる。 彼の手は、水仕事をした後のサクラと同じで冷たかった。 冷たいけれど、優しい大好きな手。 「ほらハル、こっちを向け」 まるでたった今描き上げたばかりの、まだ絵の具が乾き切っていないキャンバスを扱うかのような、丁寧な手つきだった。 タイシの父親も祖父も画家である。 彼自身も小学生の頃から主に油絵を描き始め、今までに何度かコンクールで賞を獲得していた。 タイシが自分の描いた絵をこうやって大事そうに扱っているのを、ハルはずっと彼の隣にいて見てきたのだった。 初めて会った時小学生だった彼も、今はもう高校生だ。 タイシは毎日片道二時間かけて学校に通っている。 学校の成績はとても優秀で近くにある高校ならどこにでも進学できたのだが、今では始めた商売が成功し、趣味で芸術家の卵の支援をしているウイの強い勧めもあって、絵を描く勉強のできる特殊な高校に入学した。 [*前へ][次へ#] [戻る] |