大粒の涙を溢す彼女に戸惑ったハルが、泣かないで泣かないでサクラ、と繰り返す。 「そうだ、サクラに歌を歌ってあげます。だからどうか泣かないで、ね?」 良いことを思いついたと、ハルは次々に歌い出した。 彼はほんの小さな頃から誰に教わったわけでもないのに、歌がとても上手かった。 菜の花畑の歌、夕焼けの歌、シャボン玉の歌、海の歌、桜の歌―― それらの歌は全部、サクラがハルに教えた日本の歌だ。 日本の童謡には、短調のどこか物悲しいものが多い。 それでもハルのよく通る高く澄んだ歌声は彼女の胸に暖かく響き、もう帰ることもない懐かしい故郷を思い出させる。 サクラは青く高い秋の空を仰ぎ、無心に祈った。 ああ、神様。 どうかこの子をお守りください。 ◇◆◇◆◇◆ ザザーッと、彼方で波の音がする。 どこかで子供が、日本の童謡を歌っている。 さくら、さくら―― 物悲しいロ短調の調べの歌は、けれど自分にとっては大好きな育ての親の名前と同じ、桜の歌だ。 子供の声が自分のものだと気づいたハルは、閉じていた瞼をそっと開けた。 ボーッとしたまま辺りを見回すと、目に映った景色は見慣れた日本の自分の家のリビングだ。 部屋の中は暗く、ソファーからゆっくり起き上がると、いつの間にか掛けられていたブランケットが音もなく身体から滑り落ちた。どうやら眠ってしまっていたらしい。 まだ耳には、風車を回す強い風と海の波飛沫の音がこだましている。 後ろを振り返れば、風に揺られながら辺り一面に広がるベージュの小麦畑が見えるような気さえする。 もう一度ザーッという水音が聞こえて、ハルはぼんやりと音のした方に顔を向けた。 眠っていたリビングから続くキッチンカウンターの周りにだけ照明が灯っていて、中で人がひとり忙しなく立ち働いている。 黒髪の日本人だ。 先程から聞こえていた水の音は、この人が料理を作っている音だった。食欲を誘う良い匂いが部屋中に漂っている。 「サクラ……?」 そんな筈はなかった。 彼女にはもう会えないのだから。 主を失ったコペンハーゲンのお屋敷は、人手に渡って既に久しい。 日本に帰ってきて数年経った頃から商売が軌道に乗ったウイが、子供のいなかったサクラ達を引き取ろうと、北欧へ商品の買い付けに訪れる度に彼女と彼女の夫の行方を探しているのだが、仕事を失った二人は今どうしているのか、杳として行方が分からない。 「島には?」 震える声で訊ねるハルに、ウイは困り顔で答えた。 「あの島も、お前の父親の持ち物だったからな。行ってはみたんだが既に他人のものになっているし、小麦畑の農夫も教会の牧師も港で働いている漁師も、皆知らない顔ばかりになっていたよ」 「サクラ……」 ハルは彼女を想い、涙を流す。 彼女と別れたのは小麦を収穫する秋だったというのに、ハルがサクラを恋しがり泣き出すのは、何故だかいつも桜が満開になるこの季節だった。 日本では学校や公園、河川敷、通りの並木道、果ては民家の庭先にまで桜の木が植わっており、春になると町中が薄いピンク色に染まり例えようもなく美しく、日本に来て初めて桜を見たハルを驚かせた。 日本はハルにとって、文字通りサクラの国だった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |