また何よりも一番案じているのは、島から出ずに大人しくしてさえいれば生活の保証はされたというのに、本妻の世話にはなりたくないとハルを自分に預け島の外に出て働き詰めだったウイが、全く家事ができないことだった。 これからは、誰がこの子の食事を作るのだろう? のんびりとおおらかに、島の自然そのままに育った世間知らずなハルの世話を、誰が焼いてくれるのだろう? 彼女の心配の種は尽きない。 サクラはハルが生まれる以前から、本家のお屋敷で使用人として働いていた。 ハルが生まれた時、雇い主の愛人と赤ん坊を監視する役目にただ同じ日本人だからというだけの理由で、自分に白羽の矢が立ったのだ。 辺鄙な島に二人と共に渡り自分の夫に会うこともままならず、何故わたしがこんな田舎にと初めは嘆いたものだった。 旦那様も外に子供を作るのなら、もう少し上手く立ち回ってくださったら良かったのにと。 けれどそう思っていたのは最初だけで、ウイの男のように潔い決断力と率直な性格に感心し、夫との間に子供ができなかった彼女は、何の罪もない天使のように可愛らしいハルを育てることに夢中になった。 ある時サクラはウイに、何故本妻の酷い仕打ちを甘んじて受け入れているのかと問うたことがあった。 ウイからは、首都に残れば彼女との間の要らぬトラブルにハルを巻き込む恐れがあるからだと、簡潔な答えが返ってきた。 「全ては晴を守るためだ。それに、彼女には悪いことをしたと思っているんだ。自分が愛した人の裏切り行為を許せる人間など、世の中にそう多くはいないだろう」 と言ったウイは、とうとう一度もハルを父親に会わせようとはしなかった。 この様子だとハルが生まれてからは、彼女自身も一度も会わずに終わってしまったのではないだろうか。 旦那様が亡くなってしまった今、もう二度とは会えないというのに。 「晴がこんなに懐いているのだから桜、貴女は信用に足る」 と、愛する人と会えなくなってでも守りたかったハルを、ウイは自分に任せてくれた。 ウイは肝の据わった女性だ。 今度は自分が彼女を信じなければならない。 愛情の全てを注いで育ててきたハルを手離すことは、ひどく困難なことのように思われた。 この子を失ってこれから先、どうやって生きていけというのか。 それでも自分がハルと繋いでいるこの手を離してやりさえすれば、二人は島から出て自由になれるのだ。 「幸せになってくださいね、晴」 サクラは、わたしがあなたに教える日本語はこれが最後ですと、ハルに向かって無理矢理に笑顔を作った。 「大人になって晴がずっと傍にいて欲しいと思う人ができたら、その人には『好きです』ではなく『愛しています』と言うのですよ。その方の手を離してはいけませんよ。あなたなら、相手の方からきっと愛してもらえる筈です」 これは育ての親の欲目ではないだろう。 ハルには人を惹き付けるオーラのようなものがある。亡くなった彼の父親も、とても魅力的な人だった。 サクラの言葉をじっとして聞いていたハルは、彼女の手を握り直して分かりましたと頷く。 「アイシテイマス、サクラ」 彼の言葉を聞いた途端、サクラの目からどっと涙が溢れた。 そう言ってもらえるだけで充分だった。 ハルに愛していると言われる他に、どんな名誉なことがあるだろう。 この手を離そう。 自由になったハルはいつも地上から見上げるだけだった鳥達のように羽ばたいて、これからは自分の力で生きていくのだ。 彼ならきっと大丈夫だ。 朗らかで明るくとても優しいハルなら、きっと誰からも愛してもらえる。 彼をそう育てたのは、紛れもない自分なのだから。 [*前へ][次へ#] [戻る] |