ハルの父親は、輸入雑貨を手広く扱う裕福なデンマーク人実業家だった。 首都コペンハーゲンに立派なお屋敷を持ち、そこで同じデンマーク人の妻と子供二人と暮らしていた。 十三年前、夫の三人目の子供が仕事上のパートナーである日本人女性との間に生まれたと知った彼の妻は、事実を受け入れることができず、ウイとハルを首都から遠く離れた島に追いやり、夫に会うことを禁じた。 デンマークは北欧の南に位置し、首都コペンハーゲンのあるシェラン島と、ドイツへは陸続きのユトランド半島の他に大小沢山の島を持つ、お伽噺の舞台になるようなとても美しい国だ。 ハルは無数にある中の、父親が住んでいる首都からずっと遠く離れたこの小さな島で育った。 秋には小麦畑、春には菜の花畑、島を吹き抜ける強い風と大きな風車、そして放牧された牛が草を食む、なだらかな丘の他には信号機さえ無いこの島に、学校は存在しない。 数少ない子供達は七才になると島の真ん中にポツンと建っている小さな教会に行き、牧師からデンマーク語と英語の簡単な読み書き、生活する上で必要な計算を習う。 八才からは隣の島にある学校に船で通うことになるのだが、ハルはそれさえも許してもらえず、小さな子供達に交じって勉強を続けていた。 もともと朗らかで活発な性格の彼は、椅子に座って大人しく本を読むよりも戸外を駆け回ることを好み、勉強の最中に教会をよく抜け出しては、自分とは年の離れた小さな子供達とじゃれあって大きくなった。 世間一般の十三才といえばそろそろお洒落や異性に興味を持つ年頃だろうが、彼にはその気配すら感じられない。 父親と母親がどんな風に愛し合って自分が生まれてきたのかも知らないだろう。 この小さな島に閉じ込められて一生を終えるのだと思っていたからこそ、それでもいいと構わずに過ごしてきてしまったが、風の音や鳥の鳴き声を真似して遊ぶあまりに幼い彼を見ると、サクラは今更ながらに悔やまれた。 ハルの父親が亡くなり僅かばかりの庇護さえ失ってしまった今、デンマーク姓ではなく日本姓を名乗るウイとハルは、この島から出ていかなければならない。 それも丘の後ろに広がる小麦の収穫を待たずして、なるべく早くに。 ぐずぐずしていればあっという間に冬が来て、雪に閉じ込められ身動きがとれなくなってしまう。 二人は、ウイの故郷である日本に帰ることになっていた。 「ニホン人はみんなサクラと母さんみたいに、黒い目と黒い髪の毛をしているのは本当?」 サクラの後悔など知らずに、ハルが無邪気に問いかける。 自分の血が半分流れているとはいえ見たこともない海の向こうの遠い国に、好奇心旺盛な彼は思いを馳せる。 「ええ、本当ですよ」 「サクラはボクたちと一緒にニホンへ行く…… 違う。行かない、のですか?」 「わたしの夫はデンマーク人ですからね。彼を置いて日本へは行けません」 本当は、一緒について行きたかった。 だが例え主が亡くなっても、彼女は本家に雇われている使用人だ。ハルについて行けるわけがない。 こんなことになるのなら、嫌がられてでもきちんと日本語を教えておけばよかった。 ハルは日本語での日常会話は何とか通じるだろうが、読み書きが覚束ない。英語も似たようなものだった。 自分が日本を離れて三十年近くになるが、当時から子供の教育水準の高かったあの国で、この子は勉強についていけるだろうか? 同じ年頃の友達はできるだろうか? 女の子と見間違うほどの姿形のせいで、苛められはしないだろうか? [*前へ][次へ#] [戻る] |