花繋グ 1


 ヒュウ、と耳元で風が鳴る。
 風が過ぎ去った方角に顔を向ければ、さざ波のように引いては戻り引いては戻り、お辞儀を繰り返す秋小麦の穂。
 それはサワサワと音をたて、見渡す限り一面ずっと先まで続いていて。
「ひゅうー、さわさわ、さわさわ……」
 ハルは耳に入ってくる音を口真似しながら小麦の海の中で、ベージュ色に丸く膨らんだ穂と一緒にお辞儀をする。
 そんな遊びに夢中になっている彼の肌は透き通るように白く、明るい茶色の瞳が輝く目は大きくて、風の音を真似る唇はふっくらと桃色に色づいている。
 ハルの愛くるしい容姿を目にした人は誰もが天使のようだと褒め称えたが、ゴオーッと強い風が吹いてきて掻き乱された瞳と同色のふわふわとした巻き毛を、鬱陶しそうに首を振って避ける仕草など、十三才になったとはとても思えない幼い姿だった。



「晴。あなたはまた、お勉強をさぼりましたね」
 ひとり遊びにも飽きて、小麦畑を抜けた先にあるなだらかな丘の上から海を眺めていたハルは、近づいてきた人物にそう言われ、えへへと、誤魔化し笑いをする。
『この海の向こうにニホンがあるの、サクラ?』
 ハルにサクラと呼ばれた人は、彼が勉強をさぼったことを本当に怒っている風ではなく、ゆっくりと丘を登ってくると、低い頂上に立っていたハルの隣に並んで海をみつめた。
「この海はバルト海ですからね、日本に直接繋がっているわけではありませんよ。でもそうですね、ここからずっと東へ行けば、日本に着きますね。……それから晴。わたしと喋る時は日本語で」
 彼女はうっかりとデンマーク語で話しかけてしまったハルに、やんわりと注意を促す。
 サクラは黒い目と黒い髪をした日本人女性だ。
 真っ直ぐに伸ばした髪を後ろでひとつに簡単に束ね、日本人は平均して小柄だという噂に違わず、並んで立つと十三才のハルの方が少し背が高い。
 彼女と話す時は今までは日本語とデンマーク語と英語を混ぜての会話だったのだが、三日前から全て日本語でと言われたのを、ハルは直ぐに忘れてしまう。
『あ、そうだった』
 彼はまたデンマーク語でひとりごちると、うーんと考えながら喋り出した。
「お父さんが死んだとゆーのは、本当ですか?」
 ハルは生まれてから一度も、自分の父親に会ったことがなかった。
 家に父親の写真は一枚も無く、どんな声をしているのかさえ知らない。
 その父親が亡くなったと聞かされたのが、三日前のことだった。同時に、会話も日本語だけを使うように言われたのだ。
 会ったこともない父親が亡くなったと聞かされてもさほど悲しいとも思えなかったし、得意でない日本語を話すためにただそう訊ねたのだが、途端にサクラが辛そうに頷いたので、今の質問は失敗だったと彼は少し後悔した。
「旦那様は病弱な方でしたからね。まだお若いのに…… 晴と雨以さんを残して天国に行ってしまわれるのは、さぞ心残りでしょうね」
 サクラはハルの手を取ると、慰めるようにそっと擦った。
 もう若くはない彼女の手は、日頃の家事仕事のせいで皺が多く指先もささくれが目立ったが、ハルはこの手がとても好きだった。
 仕事に出掛けると暫くは帰ってこない母、ウイの代わりに、赤ん坊の頃から自分を育ててくれた優しい手。
「本家の奥様がもう少しお優しい方だったら、あなたも日本になど行かなくて済んだのに」
 言っても仕様のないことですけれど、と彼女は涙ぐむ。
 彼女の言う本家の奥様とは、ハルの父親の正式な妻のことだった。






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