彼は小笠原に泣かされて以来、一ヵ月以上“エメラルド”のアルバイトには来ていなかったのだが、今日レストランの人手が足りないことを大志から聞かされ、渋々ながらホール係の仕事に就いていた。 演奏中、従業員は店内を動かない決まりだ。 祐一はホールと厨房を繋ぐスイング式のドアの前に立ち、中を覗き込むようにして“オブシディアン”の演奏を聴いていた。 隣には、大志もいる。 彼らの前にも立ち見の人垣ができていて、背がそれほど高くない祐一には晴の姿を見ることができなかったが、声は聞こえていた。 そこへいきなり、自分の名前を呼ばれた祐一は飛び上がった。 この大勢の聴衆の中、あり得ないことが自分の身に起きている。 晴の呼び掛けに応じて、目の前の人垣が一斉に祐一を振り返る。 聴衆が自分に顔を向けた時、ザザッと大きな音がしたように感じて彼は怖じ気づき、厨房へ逃げ込もうと足を一歩後ろへ引いた。 「ユウイチ!」 もう一度晴が彼の名前を呼ぶと、隣にいた大志がトン、と祐一の肩を押した。 押された勢いでたたらを踏んで二、三歩前に進んでしまってから、 「ま、松浦」 何てことするんだと慌てた祐一が振り返ると、大志は「行け」と顎で前方を指し示す。 それを見ていた聴衆が人がひとり通ることのできる道を作ってくれ、皆に背中を押されながら祐一はあっという間に舞台の前へ飛び出てしまった。 一般人の彼は自分に注目している二百対以上の目に対して身の置き所が無く、どうしていいのか分からずに困り果て、おずおずとステージにいる晴を見上げる。 「あ、あの……」 「この曲は、オガ先輩がユウイチのために作ったんだ」 「え?」 晴がマイクを通したまま祐一に話しかけるので、全て聞こえている客席から、 「ヒュー、ヒュー」 「いいぞー」 と、囃し立てる声が上がった。 「今から演奏するこの一回だけは、オガ先輩とオブシディアンメンバーがユウイチのためだけに歌います。ごめんみんな、一回だけ許してねっ!」 晴が観客に向かい茶目っ気たっぷりにそう言うと、 「いいぞ、いいぞー!」 「祐一君、羨ましいっ!」 「早く演ってくれー!!」 などと、笑顔を浮かべた大勢の人々から次々に声がかかった。 それを聞いた晴は楽しそうに、アハハッと笑う。 「みんな、ありがとー! ……はいそれでは、俺の大親友、ユウイチのために歌います。オガ先輩からユウイチへの気持ちです」 言い終わると、晴はキーボードの高遠に顔を向け合図を送る。 高遠が頷き、待ってましたとばかりに演奏が始まった。 その曲は、キーボードのソロから始まるゆったりとした二拍子の曲で、いつも通りメインの歌詞を晴が、ハモる旋律をギターの亮太が歌う。 ただ違うところは残りの三人―― ベースの前原とキーボードの高遠、そしてドラムの小笠原も、歌の殆どを一緒に歌うのだ。 時には晴達とハモり、時には同じ音で、メンバー五人がずっと一緒に。 それは、愛することの喜びを歌い上げるバラードではなく。 『俺達が出会えたことは奇跡なんだ。ありがとう、お前に会えて俺は幸せだ。好きだよ。これからはいつも一緒にいて、お前と手を繋いで歩いていきたい』 聞き分けのないまだ幼い想い人に、言い聞かせるような恋の歌。 祐一は突然すぎて、歌われている歌詞の意味が上手く呑み込めず、正面にいる小笠原を問うようにみつめた。 小笠原は幾分赤い顔をしていたが、じっと祐一を見返してくる。 目尻が下がり、とても優しい顔をして。 |