「祐一、俺が悪かったって。謝るから出てきてくれよ、な?」 小笠原は言いながら、いい加減うんざりした気分でため息が出る。 今ので同じセリフを口にしたのは、何十回目だ? こいつがこんなに扱いづらい奴だったとは驚きだ。 小笠原の背後ではトイレに入れないと、厨房で仕込み作業の終わったコック達が、やいのやいのと囃し立てていた。 「うっせーな! 小便くらい、外でしやがれっ!」 コック達に向け言い放った小笠原の顔は、殺気立っている。 「オガ、一体何をしたんだ。祐一君をあそこまで怒らせるようなことを?」 コック長までもがこの騒ぎに呆れたように、厨房の入り口から覗いていた。 “エメラルド”のバックヤードは、従業員出入り口から店内に到るまでを細い通路が一直線に通っている。 通路の左側に手前から休憩室、トイレ、バーカウンターの中へ入るドア、その向こうに店内へ通じるスイング式のドアがあり、右側は全て厨房だ。 厨房には入り口が二ヵ所あり、コック長が立っているのは店内に近い方の入り口だった。もうひとつは、従業員出入り口のすぐ脇にある。 従業員専用トイレには個室が三つあるのだが、祐一がトイレに入るための最初のドアに鍵を掛けて立て籠ってしまったので、誰も中に入ることができずにいるのだった。 「別に何もしてませんって、俺は」 コック長に八つ当たりをするわけにはいかず言い訳がましく口を開くと、 「嘘だ! 僕にあんなことをしておいて!」 トイレの中から祐一のくぐもった声が、小笠原を遮った。 「お、おい祐一。お前はまた、人聞きの悪いことを……」 「オガ先輩にとってはただの遊びかもしれないけど、僕には、僕にはっ……」 「お、おい。祐一ってば」 「おまけに先輩は、僕を怒鳴りつけたじゃないですかっ。うわーん!」 あんなこと? 遊び? 狭い通路に、祐一の泣き叫ぶ声と共にザワッと、衝撃が走り抜ける。 「オガ先輩がユウイチに、ユウイチに…… あんなことを!」 そう言いながら自分の額に手を当て卒倒寸前でよろめく晴を、コックがこの時とばかりに三人がかりで抱き留めた。 「こらっ晴、おまっ……! 意味分かっててやってんのか? 止めろ、話が余計ややこしくなる!」 助けを求めるためにコック長を見れば、あろうことか彼までもが自分の両頬に手を添え、ポッと顔を赤くしているではないか。 ええい、いい年したオヤジがっ。 「誤解だって。皆が想像してるようなことは、何もないんだって」 誤解を解こうとここにいる人間の顔をひとりひとり覗き込むが、小笠原のこれまでの行いを承知しているコック達は、誰一人彼と目を合わそうとする者がいない。 あの男たらしの小笠原が遊び慣れた相手では飽き足らず、ウブな祐一を手籠めにした挙げ句泣いている彼に、俺は遊びだ本気になるなよと怒鳴りつけた。 という、真実なのか真実でないのかよく分からない囁きが、祐一の泣きじゃくる声と共にレストラン“エメラルド”のバックヤード通路をまことしやかに流れ始める。 何でこうなるんだ。 「違うっつってんだろっ! ちょっ、皆! 俺の話を聞いてくれっ!」 プレイボーイ小笠原の言葉はコック達のアイドル、晴を卒倒させた時点で、既に誰も聞いてくれる者など居はしないのであった。 ***** 小笠原はバーカウンターの中に戻り、グラスを磨き続けていた。 心を落ち着かせるには、グラス磨きは無心になることができて最適だ。 ドラムを叩くのもいいのだが。 結局開店時間を過ぎても小笠原は出てくるよう祐一を説得することができず、それでも店を開けなければならない従業員達はトイレの前に晴だけを残し、各々の持ち場に散っていた。 |