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magi「うたかたの夢」
始まりの迷宮
 ああ、そう言えば時間は大丈夫なのだろうか。
見知らぬ場所で目を開いて一番に思ったのは、そんな逃避一歩手前のことだった。
 眼前にある大きな石で出来ているらしい5メートル以上あるだろう扉は、目線の遥か上方までひとつも継ぎ目が見当たらず固く閉ざされ、その脇の壁には立って手を伸ばせば届くか届かないかといった位置にそれぞれ火の灯った燭台が頼りなさげに揺らいでいた。気付けば背を預けていた壁は到底日本の風土には合いそうもない、土色に乾いたレンガ造りで、動くたびにざらざらと不快な感覚を植え付けてくれた。足元には何故かカバンとともに薙刀の入った練習袋が無造作に投げ捨てられていた。部活は既に引退していて、未練などほとんどなかったと思っていたのだけれど、案外割りきれていないのかもしれなかった。
 立ち上がって辺りを見回すと、背にしていたものが壁ではなかったことに気づく。1メートルと20センチくらい、緩やかにカーブした壁だと思っていたものの向こうを立ちあがって覗き込むと、劇場の客席と舞台の様なものが見えた。広さは小学校の体育館程度だろうか。大きな円形の空間。カーテンもスピーカーもライトもない壁の反対側にあるその舞台と思しき場所は、形ばかり添えられたふたつの松明によってやっとのことほの暗いと呼べるか呼べないかといった微妙な明るさとなっていた。そして、恐らくは通路に当たるだろう、座り込んでいた場所から右へ十歩ほどいくと壁に沿って階段が続いていた。ぐるりと上へ伸びていく螺旋階段には勿論柵などなくて、見えないその先にぽっかりと空いた穴はただひたすらに暗かった。
 これは夢なのだ。
 暑さに溶けた脳髄が導き出した答えに、無意味と知りつつ数度瞬きを繰り返す。ぱちぱちとするはずのない音すら響いてきそうなほど、がらんどうの空間に音はなく、呼吸のたびに僅かばかりの衣ずれが神経を逆なでしていくのがわかる。
 ここはどこなのか、なぜ自分はこんなところにいるのか。全てを夢だからの一語に片付けて脇道にそれた思考が再度気にしたのは、やはり時間のことだった。乗り過ごすのは、どうにか勘弁願いたかった。最悪、終着まで行けば駅員さんに起こして貰えるのだろうけれど、それでも。良い笑いの種ではあるかもしれないが、限りある時間の浪費に変わりはないから。ぐうたらしていながら、寸暇を惜しむ。矛盾しているようでそうでない、それは偏在する性質だった。
 はやくさめろ、と理性は思うものの、目覚める方法がわからない。
 とりあえず頬でもつねれば良いのだろうか。
(……痛い)
 思いつきに素直に従った結果やらなければ良かったと思うなんていうのは、典型的な後の祭り状態で、次に生かす機会はいつになるのだろう。有益なことを思いつく欠片も見せない私の頭は今日も健在だった。
 とりあえずは、と拾い上げた鞄はやっぱり重たくて、舞台を見下ろす客席に放り投げた。辺りに人がいないのをいいことに、自身も椅子の背を超えて座りこむ。どこか生温く湿った空気はひどく不気味で、けれど何の打開策も見出せないうちはそれに甘んじるよりほかなかった。
 時間を潰そうと鞄から取り出したハードカバーは図書館独特の処理をされた表紙で、バーコードの部分だけ微かに違物感がある。ふらふらと寄ってしまった図書館で借りた、ファンタジーの続き物。読みかけのスピンが挟まれたページはまだ二桁中盤辺り。それは夢だというのに、記憶にない細部の日焼けや印字の滲んだ質感まで再現されているようだった。
 些細な事象に関する捏造を含んだ記憶なんかより、目覚める方法が欲しかった。眠るのは、帰って着替えてご飯を食べてシャワーを浴びて。やがて明日を迎える、温かな布団の中でだけで良い。

「まだ覚めないってどういうこと」
 何もない空間を思わず口をついて出た言葉が震わせる。当たり前のこと、それに返る言葉はなく、自分以外誰も居ない舞台と客席にぽつんと一人だけ残されたというのはいかにも間抜けな感じがして、虚しさばかりが胸を閉めた。
 携帯はいつの間にか充電が切れていたらしく、液晶はいつまでたっても黒いままだった。腕時計は見ると秒針が勢いよく逆回転していたので、見なかったことにしようと決めて鞄に放り込んだままだ。今どうなっているのか、何故そうなってしまったのかは分からない。本はと言うと、とうに読みきってしまっていて、何の因果かこれだけはまともに稼働していた電子辞書に入っている古典作品に手をつけはじめてしばらく、それでも夢が覚める気配が微塵もなかった。
 なんて、退屈なのだろう。
 螺旋階段の続くほの暗い円塔。継ぎ目の見当たらない大きな扉。乾いてざらざらしたレンガ。人の居ない観客席。古ぼけた舞台。放り出された学生鞄。
 フロイト先生が診断したら、きっとさぞ勿体ぶってそれらしいことを並べたてることが出来そうだが、現実はただ、空虚で、暇で、仕方がない。
 夢を、現実と呼ぶのかはさておいて。
 ふと思い立って、舞台の中央へ上がる。替えたばかりのローファーはまだ足に馴染み切っていない。かつん、かつん、とヒールでもないのに一歩ごとに乾いた音がする。からっぽのせかいに、私の靴音だけが確かなものとしてあるようだった。
 舞台奥の壁。暗くて客席からでは見えなかったそこに、それはあった。
 目覚めてすぐ目にした、継ぎ目のない扉らしきもの。ただ一つ違うのは、こちらにはうすく盛りあがった円と六彷星の紋章があることだった。振り仰いで見ると丁度対になっているように思えた。
 思いついたままに扉を押すと、やっぱりというかなんというか、びくともしなかった。
(こういうの、なんだっけ。開かない扉に向かって言うのは……)
 最適な合言葉があったじゃないか。
「開け、ゴマ――」
 なーんてね、と我ながら芝居がかったことをしたものだ。笑って客席に戻ろうと背を向けた。いや、むけようとした、瞬間。
 いきなり、まばゆいばかりの光が溢れて、扉は音もなく独りでに開いていた。
「うわあ、」
 まじで開いちゃったよ、と丁寧とは言い難い呟きが漏れる。
(びっくりしたから、仕方ない……ってことにしておこう。うん。)
 決して素の言葉遣いが悪いわけではない、はずだ。
誰に向けたものでもない言い訳をしながら、そろり、そろりと扉の中へと入る。好奇心に勝る行動原理は今のところ手元になかった。

 始めに目についたのは大量の財宝。
 目に痛いくらいに光る、金銀宝石の山だった。文字通り、山。粗大ごみを無造作に積み上げたといった風にも見えるくらい、雑に積まれた、けれど僅かな光源だけでもまばゆく光って見えるくらいの量の。目利きなんて出来ないけれど、第六感が根拠のない確信を持って告げていた。きっと、これは本物だ、なんて。
 それから室内をぐるりと見回せば、財宝の山をよけるようにして、積み上げられた本の塔があちこちに乱立していて、壁沿いの背丈の何倍かはありそうな棚には、科学室にありそうな実験器具が無秩序に突っ込んであった。痛まないのだろうか、と如何にも役に立たない苦笑いがにじみ出る。傷んだとしても計り知れない値段になるだろうことは想像に容易い。
 そこかしこに積まれた諸々の品を踏まないように、普段からは想像もつかないくらいの細心の注意を払って部屋の奥を覗き込む。やたらと広い部屋のようだが、そこここに放置された物品のせいで、どうにも狭苦しく思えた。うっかりしているとぶつかって、埋もれてしまいそうだ。しかしながら残念なことに、掘り起こされたしゃれこうべになるのも一興だと、木乃伊になってやる心積もりは舞台袖に捨ててきた。幕は初めから上がっている。
「やっと来たのね。嬉しいわ。」
 唐突に聞こえたのは少年とも少女ともつかない、幼い声。空気を震わせるそれは肉声としか思えないのに、機械越しのように味気ない。幼い声とは言うけれど、言葉遣いのせいか、はたまた起伏に乏しい話し方のせいか、それは老獪な人を思い起こさせた。
(この声は、聞いたことがある)
 声のした方へ足を向ければ、まだ年端も行かない子供が部屋の隅の机に座って足をばたつかせていた。服装は黒のゆるいズボンに簡素な造りをした白い膝丈の羽織を着物のように腰帯で留めている。アラビア風、というのだろうか。テレビか何かで見た知識で判断するなら、砂漠の国の服装に近いそれ。現実離れしたほのかに明るい部屋に、とても良く映える。
「私は自由と叡知を司るジン、グラーシャというものよ。異世界からの旅人さん、君の名前を教えてくれる?」
 どこかで聞き覚えのある、異国風の、少なくとも日本語ではない名前。異世界だとか旅人だとか、ありふれた言い回しはいっそ笑いたくなるほどこの場にお似合いだった。
 名乗っても良いものなのか、と数秒黙って考え込むも、にこにこと笑ってこちらをみる子供の目には抗えなかった。どうせ夢なのだから。そう言い聞かせて、できるだけ同じように笑みを形作ることを心がける。やっと夢らしく突拍子もない話ができそうで、浮かれていたのかもしれなかった。目覚めるまでの退屈は、もうきっとここにはない。
「東雲さつき、です」
「さつき、と呼んでも良いかしら?」
「はい」
「敬語なんていらないよ。話しやすいようにして頂戴な。言葉なんて意思疎通のための道具の一つにすぎないし、それさえ出来ればなんだって構わないんだから」
 些細なことにこだわって大局を逃す小物になりたいなら別だけどね?ころころと笑いながらそう毒を吐く子供は至極無邪気で、対する私はひどく滑稽だった。緩く持ち上げられた口角は、きっと双方とも同じ色を持っている。斜に構えて見上げる世界を馬鹿にして、けれどそれが何より愛しく思えるから、嘲りに敬愛を込めた憐れみを。それは羨望と何ら変わることなく、いつだって静けさを保って傍に並び立っていた。
 それからいくらか遅れて敬語を使っていたことに気付いて、なんだかなあ、とほんの少し苦さを覚える。どうにも調子を狂わせられる子供だった。内側に飼われている獣は秘かに牙を研ぎながら、虎視眈々と喉笛を見据えている。
「はい、じゃなくて、うん。」
 きゅっとほんのわずか優しく細められた目は、先程の子供のものではなく、例えるなら、そう。それはまるで、祖母が孫を見るような。年に不釣り合いなそれにあっけにとられている間に、艶消しの黒が一瞬だけ瞬いて、こちらを見透かすような視線が寄越される。かけられた秤の反対側にこれから乗せられる重りは、果たして釣り合うのだろうか。
「それで、君は何を望むのかしら?」
(ああ、これか。)
 聞いた直後、思い出したのは眠る前のこと。あの波のように揺れる声。

――君は何を望む?

 それはまるで、物語のような問いかけで。
 夢に相応しく、いつ投げ捨てても良いほど、世界中に溢れかえった言葉の羅列は、掬った端からぼろぼろと崩れおちていく欠片を拾い集めようとする、ほんのひと筋のくも糸にも似ていた。縋りついて馬鹿を見るのはごめんだからと、利口ぶって甘いと知っている葡萄を諦めたのは一体誰だったのだろう。
(…ああ、そうだ。けれど私には、)
「分不相応、かな」
「あら、どうして?」
 心底意外そうに言われて、私も大概疲れているのかなあ、と他人事のように思う。誰に診断してもらう必要もないくらいに分かりやすい心理が、ざりざりと音を立てて削られていく。表面張力でぎりぎり保たれたグラスの水面に、ほんのひと欠け、投じて全てを台無しにしまいたい。
「私は普通の人だから。それに、夢で願いを叶えてもらっても虚しいしね。」
 夢だから、何を望もうと構わない。そう思う自分を何処かに感じながら、それでもいらなかった。今ここで叶えてもらったところで、永続するわけのない望みなど絵に描いた餅と変わらない。救済を信じた人魚はただ泡となって海に溶けていく。いずれは弾けて消えるものに余暇を託す贅沢は、理解こそすれ縁のないものだ。
 所詮、もうすぐ覚める夢の話。
そのはず、なのに。
「さつきは普通なんかじゃないわよ?」
そう、いとも簡単に覆される。
「賢い君はもう分かってるでしょう。知らぬふりをしても変わりはしない。ここはね、」
 ぐわん、と耳の奥で大きな音がする。遠くにあった電車の音は途切れたきりいつまでたっても戻ってきやしない。足下が覚束ない。持っていた薙刀を支えにしても、うまく力が入らなかった。
(これまでどうやって立っていた?)
 思考と身体が切り離されたようだった。
 目の前の景色が歪む中、相対する子供の口だけがやけにゆっくりと動く。スローモーションの映画予告は字幕と共に聴覚も視覚も刺激して、0か1かの電気信号に変えられていく。
(聞きたくない。聞いちゃいけない)
 知っている。
 正常に作用している、否、しすぎている五感は絶えず鋭敏に世界を知覚して、神経細胞を速やかに巡り続けていることを。伝えられた情報を処理するコンピュータは制御不能でも何でもなく、意識に上らせるのが恐ろしいだけだということを。口に出せばすべて終わりだということを。
 それから、覆い隠したものを暴くのは、いつだって介入する他者の仕事であるということを。
 ああ、だから。だから、わたしは。
(聞きたくない)
 大声を上げて耳を手で閉ざしてしまいたい。それはきっとなんら意味をなさないけれど。子供はいつだってどうしたって無邪気に、こちらの都合なんて知ったことではないと嘯くから。
「ここは、君のもといた世界じゃない。まして夢でもね。いいや、或いは夢かもしれないけれど。覚めない夢は現実と変わらないと言えないかしら。兎にも角にも、ここは、この世界は、君がこれまで生まれて暮らして記憶していたのじゃあなくて、これから先、君が生きていくところだよ。分かっていたのでしょう?異世界からの旅人さん」
 それとも私からも論拠の提示が必要かな、と声は軽やかに投げられて。
(出来たら欲しいけど、痛いのはいやだなぁ)
 つい数刻前、自分でつねった頬を思い出して苦笑が漏れた。とうに知っていて、認めたくなかっただけのこと。意地を張っていたのは他でもなく自分しかあり得ない。
「その様子なら要らないな。良かったわ。刺すのは私も嫌だもの」
 鈴を鳴らすような音で笑う姿に冷や汗が落ちる。欲しい、なんて口にしなくて良かった。奥底の安堵は隠れきれずにしっぽを覗かせているに相違ない。
「さぁ、それで君は何を望む?」
今この状況で聞かれるなら、答えはひとつだった。
「帰りたい」
 端的に吐いた言葉は明確に世界を震わせる。出来ないのなら仕方がないけれど、出来ることなら元いた場所へ。どれだけ面倒でも、愛着はあった。ついでに言うならまだやりきっていないことだって、それこそたくさん。なんのひねりもない、単純明快にして難解な、本能とすら呼べそうなレベルの願いは、理由だってわかりやすかった。
「ごめんなさいね、それは出来ないわ」
 申し訳なさそうな様子で言われて、やっぱりそうなのかとも思う。よくある話ではないか。帰り道を失くした少女はファンタジーにはかかせない。ロマンじゃないか、と見知った顔が笑ったような気がした。
 言ってはみたものの、何が何でも叶えたいというわけではないのだ。どこへ行こうが流されることに変わりはなく、切実にこみ上げる焦燥感からは程遠い。
「理由は聞いても良いのかな」
「それも、答えられないんだ」
 子供はどんどん眉尻を下げて見せて、まるで罪悪感で私を潰してしまいたいみたいだった。いつの間にか、目眩は治まっていた。
(今の、私の望み)
 言えば叶うと言うのなら。
「今はまだわからない」
 だから、とひとつ息を置き、すっと手を差し出す。
「私の友達になって、グラーシャ。それから、」
(いつか心から願うことが出来るまで、)
「この世界について、貴方と知っていきたい」
 そう、まどろみの中に見たのと寸分違わぬ先延ばしを請えば、グラーシャは一瞬目を見張って、それから優しく微笑んだ。
 どうせ貴方にとっては、想定内の話でしょう?
「喜んで、我が主」
 芝居懸かった仕草でグラーシャが恭しく膝間付く。
「主なんて仰々しいのはやめてよ。普通にさつきって呼んで」
 また驚いたように見開かれた目。こぼれ落ちてしまいそうなそれに、思わず笑みが滲む。空いたままの手を改めて目の前に突き出して、強引に取ったそれはひんやりと冷たかった。
「……そう。では改めて。これから宜しくね、さつき」
「こちらこそ」
 願わくば、どうか――
 続く言葉を、私はまだ知らない。


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あきゅろす。
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