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magi「うたかたの夢」
幕開けは緩やかに
 その時まで、私は確かにそこにいた。
 私という一個人に言及したところで、強いて言うなら周囲と比較した場合に少しぼんやりしているだとか、そのせいであまり動じないように見えるだとか、それくらいのことしか浮かばない程度には。他と比べて特筆すべきことのない、至極普通で面白味など十人並みの、全国に数多存在する高校生を適当に掻き集めた集団の中では確実に埋没することのできるだろう、所謂没個性の人間だったように思う。
 ここで断言しないのは多分、物心ついたときからの慣習ともいうべきところまで無意識下に繰り返されるようになった悪癖のひとつだった。主観の私にとっては紛れもない真実であれ、叙述者が変われば例えば自身についてでさえいくらでも変わりうる。歳を経れば恐らく必ず気づくだろう、そして書籍に埋もれた小賢しい子供であれば早々に知ることとなるだろう、世間に溢れかえった物を見るときの尺度のひとつであった。こと、成り立ちや物理法則ですら違う、まるで遠い国の御伽話に登場する異世界のような場所であれば、尚更、言うまでもないことで。
 どうしたって埋められない溝や超えられない壁は存在していて、それをどうにかしようという努力は評価しこそすれ、結局のところ徒労に終わるだけの行為に分かりやすく目の前でうちひしがれて見せられても困るのだ。口先だけで慰める以外の選択肢を、生憎と私は持っていないのだから。話すだけが目的ならば良いけれど、解決策を求められてもどうしようもなかった。悲劇のヒロインを救うヒーローになれるだなんて思い上がりも甚だしい。そんなものは遠い夢物語の中のみにあれば十分だった。
 現在に至るまでの経緯を思い出す度、全てが夢か何かなのではないかという疑惑に駆られるような心地がする。目眩はまだしばらくの間治まりそうもなかった。
 事の起こりは、暫し前まで遡る。
 その時まで、私は確かに。そう、確かに、確固たる一少女として、そこにいたのだった。



 公立高校の安普請にもクーラーという文明の利器が取り入れられるようになったのは、少なくとも私の通う学校に限って言うならば、つい5、6年前だったらしい。そんなどうでも良く、ついでに言えば真偽すら怪しいことをだらだらと汗を流して日に焼かれ、駅への道をひたすら歩きながら、同じように歩く同級生達の雑談から拾いあげたのは、そのうだるような暑さ以外になんの特徴もない、とある夏の日のことだった。
 講習で毎日学校へ通いテキストを睨み付ける、夏休みとは名ばかりの日々。3年ほど前に進学先を決めた時から分かりきっていたはずなのそれに、見通しの甘い私には降って湧いたような面倒事だとしか思えなかった。休みの直前に気付いて思わずうわぁ、と間抜けな呻き声を挙げたのはまごうことなく私だった。国立文系、と味も素っ気もなく白地に黒文字が書かれただけの分厚い問題集をつめたカバンが無性に重く、いっそ憎らしくすらあった。
(受験生の肩書き分も上乗せされているに違いない……)
 暑さで麻痺した脳みそが思いついた下らない戯言を鼻で笑う気力さえ、その日の私は何処かに置き忘れてきたらしかった。
 学校から駅まで続く道は広く、高い建物の少ない田舎のこと、日陰は勿論多くなかった。セーラー服の襟は熱がこもり、長さの調節出来ないワンピースタイプのスカートが擦れた太ももは赤く、暑い。機能性はお世辞にも良いとは言い難い代物だったけれど、それでもそのデザインは好きだった。
 ワンピースタイプのシンプルな白いスカートにくすんだような色合いをした水色のセーラー襟、夏服の半袖の折り返しも水色で、留め具には校章をあしらった小さなボタンが付けられていた。冬服は全体が紺のワンピースで、裾に赤いラインが入ったものの上にボレロのような上着を羽織る。腰のベルトには何の意味もないけれど、黒革と金の金具で出来たそれはかなり気に入っていた。
 決して低くはない偏差値とそれを鼻にかける教師や親、果ては生徒までが賛同し実現した連日の講習という現状は決して本意ではないけれど、元を辿れば制服で学校を決めた自分のせいだとも言えないことはなかった。
 改札機に定期券を翳すのは既に条件反射のように身体に染み付いていて、鈍った思考回路が挟まれることもない。ホームの日陰にやっと一心地ついて、ふうーっと長い息を吐きだすと、どうしようもない疲労を身の内に探し当ててしまっていた。背けるように瞬きした眼は向かい側のホームに無表情のままぱたぱたと団扇で風を送る友人を一人見つけ、しかしそれも到着した電車に遮られた。巻き込まれれば死ぬというのが嘘みたいな緩いスピードで動く鉄の塊は、蜃気楼がたちそうなくらいの熱気を巻き上げて、決められた場所へさも当然のように澄ました顔で停止する。気にすることもなく乗った、乗客もまばらな車内の効きすぎなくらいに効いた冷房に汗は一気に冷え、私は思わず身震いしてしまった。

 ああ、そうだ、そうして。
 忘れもしない。
 発車からから5分程たち、漸く冷房にもなれ寧ろその冷たさに心地よささえ覚えるようになった頃。
 疲労からやってくる眠気に耐えきれず、少しだけ寝ようと目を閉じると、ガタゴトと電車の揺れる音がしたのを嫌に鮮明に覚えている。例えばそれは、目を瞑れば今すぐその場に立ち返れるような気がするほどに。

――君は何を望む?

 脳裏に響いたのは、細波のように寄せては返す不思議な声。その後ろではこれまた更に眠気を誘うような、穏やかな風の音がしていた。
(何処かで読んだ本にこんな場面があったような……いや、なかったような……まぁどっちでも良いか……)
 ぼんやりとした頭でつらつらととりとめのないことを考えてながら、遠くからうっすらと流れてきたアナウンスが告げる駅名にまだ時間があることを知る。脈絡のない想いはどこまでも自分に素直で、もういっそ閉ざされてしまえばよかったのに。
投げかけられた言葉は鏡のように澄んだ水面に投じられたたった一片の小石にも似て、果てなく広がる波紋のようにするすると文字の海から言葉を呼び起こしていった。
(ありふれた口上、だなあ)
 望みを叶える。どんな望みでも、ひとつだけ。
 例えばそれは、代わりに対価を必要としたり、はたまた叶えられる望みはひとつではなかったり、何らかの条件が付与されたり。
 幾通りかのパターンに分けることは出来るそれらを総じて一括りにしてしまえば、遥か昔から続く物語のひとつの体系だった。
 もし叶うとすれば、私は何を願うのだろう。
 そんな途方もない、まるで買いもしない宝くじに当たった時のような話を、考えたことがないわけではなかった。どうでも良い仮定の話はふとした拍子に出しやすく、真剣に考えなくて良い分口も回りやすい。けれどそれはあまりにも現実離れした仮定で、頭にのぼらせる度私はてんでばらばらな馬鹿げて空想染みたことを舌にのせては、実際のところそんな御大層な機会を何かに活かすなんて芸当が出来るわけがないと思っていた。
 今までもこれからも、変わらずに願うことなんて何一つ持ち合わせに心当たりがない。
 十把一絡げに扱われる、その他大勢の内の一人に過ぎない私には、そういう主人公にあるべき問いは意味のないものだった。
 目の前の事柄が一番の重要事に見えるのは、思慮や分別や理性からは遠く離れた短慮であり反射であると思われがちな一方で、それは生物としてとても当たり前な、ごくごく自然な反応だとも思う。生きるという生命の第一義を果たすということは、瞬時の判断で死ぬ可能性を避けなければならないということだから。理性が選んだ死に甘んじるというのは端から見ればきっと馬鹿らしいくらいに美しくさぞや感動を呼ぶお話で、けれどそれは自分に起こり得ないからこそ言える呈の良い繰事に過ぎないのだろう。
(それでも選べというなら、)
 きっと、優柔不断に先伸ばしを乞うのだ。そうして折角のチャンスを見たこともない暖炉の燻った灰の中に放り込んでしまう様子がいとも容易く想像できた。
 思わず漏れ出た笑みは嘲りの色に塗れていたに違いなく、脳裏一面に映るのは目蓋の裏の黒で、その中にひとつ金の光が明滅し出し、やがてずるりと全身まとめて内側から引きずられるような、奇妙で気色の悪い感覚があった。抵抗が無駄であると薄々気づいていたような、ほんのわずか形ばかりのそれは、まるで無邪気な子供に溺れさせられる虫の足掻きに等しく無意味なものだった。

――君は何を望む?

 もう一度同じ言葉が響く中、私は自身が眠りに落ちたことだけを知る。
 電車の揺れる音は酷く遠く、それが私の覚えている限り最後のあちらの記憶であった。


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あきゅろす。
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