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遠き日の忘れ物
思い
生明学園は当時は福岡市南区に在った。
元々は孤児を受け入れる施設だったようだ。
その学園に盲学校入学と同時にぼくも預けられたのである。
飯塚市から福岡市中央区の盲学校に通うには毎朝七時の汽車に乗って博多駅まで行き、さらに筑肥線の汽車に乗り換えなければならない。
片道二時間 列車に揺られているのは流石に若い母でも無理だった。
ぼくは馴れない集団生活の中でホームシックにもなり随分と母を苦しめたが、それ以上に深刻だったのが虐めである。
殴る 蹴る 投げ飛ばすは毎晩の子とで、ぼくは身体中が痣だらけだった。
もちろん 職員も気付いていたに違いないが誰も口には出さなかった。
そのいじめは中学まで続いた。
言葉が変なぼくを先輩や同級生はインベーダーと呼んだ。
福岡市や久留米市に住んでいる同級生は汽車しか走っていない飯塚市に住んでいるぼくを田舎者と呼んで仲間はずれにした。
しかし誰にも相談できなかったぼくは一人で耐えるしかなかった。
失明した後は肉体的な暴力は減ったのだが、、、。
確かに財布を盗まれたり嘘を吐かれたり、いやなことも続いたが学園生活はそればかりではなかった。
日曜日になるとバレーボール大会や読書会なども行われていた。
夏には浜辺でキャンプをしたことも有った。
しかし職員は相変わらずである。
ある日、ぼくは風呂で先輩と潜水艦ごっこをして遊んでいた。
魚雷だ 爆雷だと言っては洗面器を投下する。 それに降参した方が敗けだ。
先輩は水を満タンにした洗面器をぼくの頭に投下した。 (ズキン)と痛みを感じた。
夕食後、何気なく頭を触っていたぼくは髪が団子になっているのに気付いた。 しかもベトベトしている。
臭いを嗅いでみるとそれは血だった。 洗面器を落とされた時に切れていたのだ。
翌日、指導員 村山忠昭が風呂場で現場検証をするというのでぼくも立ち会った。
しかし彼は『修理するからお前が転んだ場所を教えろ。』と言って聞かない。
先輩が投下した洗面器で切ったと言っているのに(ぼくが勝手に転んでケガをした)ことにされていた。
転んではいないぼくが場所を示せるはずがない。 その指導員はぼくを嘘吐きと呼ぶようになった。
そして高校二年の夏に事件は起きた。
それは日曜日の午後だった。
二人の若い職員が精神障害児を風呂へ誘導していた。
ぼくらもこれといって予定が無くて部屋で遊んでいる。 うちの一人が職員に声を掛けた。
『風呂?』『そうなんよ。 これから入れるん。』
入浴日はぼくらより先に精神障害児を入浴させることになっているのだ。
部屋の窓は全開されていて、みんな窓際で話している。
『由美子もおいで。』 職員が一番後ろに居る谷岡由美子を窓の近くまで呼び寄せた。
『やっぱり由美子には北村君よね。 ねえ、こっちに来てよ。』 大柄な方の職員がぼくを呼ぶ。
由美子は窓から差し出したぼくの手を握ると勢いよく自分の方へ引っ張った。
その勢いに負けて廊下に転がり落ちたぼくを見てみんなは爆笑している。
『あれあれ? 由美子は北村君が大好きなんかね? じゃあ風呂場まで一緒に来てもらわないかんねえ。』
由美子とぼくを取り囲んだみんなが賑やかに話していると最年長の職員が通り掛かった。
彼女は怪訝な顔で若い職員から話を聞いていたが、いきなり由美子を叩き始めた。
『あんたは何ばしよるとか! ばか!』 由美子を叩く音だけが聞こえて、ぼくらは何もしてやれない。
それから半年後、ぼくと二人の若い職員は学園を去ったのである。
由美子の行動にはきちんとした理由が有る。 それは二年前のこと。
精神障害を持つ彼女たちも「中学三年だけは登校させよう」ということになり、ぼくらと共にマイクロバスに乗った。
彼女も例に漏れなく叫んだりわめいたり意味不明な行動を繰り返す。 その度にみんなは怒ったり叩いたりして沈めようとしてきた。
だがそれではなかなか静まらない。 みんなは頭を抱えてしまった。
そんな様子をずっと見ていたぼくは思い切って隣に座ると手を握り背中を撫でてみた。
すると一瞬で彼女は静まり叫ばなくなってしまった。 つまりは日溜まりを求めていたのだ。
なぜ叫ぶのか? なぜわめくのか? それは寂しいからだ。 怖いからだ。
精神障害を持っていると聞けば、たいていの人は関わりを避けようとする。
それはなぜか?とぼくは反対に聞いてみたい。
彼 彼女たちも一人の人間ではないか。 なぜ関わらないでいられよう?
当たり前に食事もする。 笑ったり泣いたり怒ったり、時には恋だってする。
それは彼 彼女にもぼくらと同じ心が有るからだ。 それをうまく表現できないだけだ。
それさえ解ってしまえば不気味でも恐怖でもない。
もし由美子が気持ちを話すことが出来たらどうなっていただろう? そう思うとやりきれない事件だった。
さてここで盲学校の話をする。盲学校は昭和53年に福岡市中央区から筑紫野市牛島へ移転している。
県知事公邸の候補地として選定されたのだ。
町のど真ん中、しかも小学校の真向かいに在った校舎は取り壊されてしまった。
移転先は交通も不便な田んぼのど真ん中である。 しかも突貫工事だった。
移転初年度はプールも体育館も調理室も音楽室も無い。
だだっ広い運動場と草むらが目立つ学校だった。
北側には宝満山 東側には宝満川、南に下れば久留米市。
西側にはJR鹿児島本線と西鉄大牟田線が走っている。
しかし夏は農薬と虫に囲まれ、冬は宝満下ろしに悩まされる学校だった。
学園からそこへ通うにはバスと電車を乗り継がなければならないが毎日は大変である。
そこでマイクロバスを購入して、それで送迎することになった。
そうなるとあの「愛のバス」も役目を終えたのである。
北棟一階は小学部の教室が並んでいる。
東側から四番目、そこがぼくら四年生の教室だった。
担任は前年に赴任してきた豊島先生だ。 自由奔放な先生だった。
机に向かっているのに飽きると外へ飛び出し畦に座って本を読み合ったり「社会科の授業」と称して辺りを散歩していたり。
時には授業に疲れたからと言ってホットドッグ作りに熱中した。
夏には「生き物の生体を調べる」と言って捕まえてきた蛙が教室中を飛び回って騒ぎになったことも懐かしい。
真新しい教室で真新しい担任と向き合う一年はスリルの連続だった。
豊島先生は九州交響楽団のトロンボーン奏者だったから、それが縁で楽団が盲学校で演奏する機会が出来た。
滅多と聞けない本物のオーケストラがやってくるのである。
体育館は超満員だった。 あの重厚な響きは一生涯忘れないだろう。
子供にはなるべく多くの実体験をさせてやりたいと思う。
それが後になって必ず活きてくるからだ。
生きていく中に無駄なことは何も無い。 45年経ってやっとそう思えた気がする。
福岡の田舎町の片隅で炭坑マンと女子高生の間に生まれたぼくは今、函館に住んでいる。
長く家族を知らずに生きてきたぼくのそばには妻と四人の子供が居る。
そして函館で出会った仲間たちが居る。
有名な占い師が言っていたことを今も覚えている。
『ここ「飯塚」から北東 または東北の方向へ行きなさい。 そこで一生涯大切にできる宝を見付けるだろう。』と。そう言われて盛岡へ引っ越し、そこでgreeを始めて妻と知り合ったのだ。
福岡でやってきたことは1つ残らず今に活かされている。
喧嘩したり疑ったり悩んだり苦しんだりもする。 でもそれが生きているということなのかもしれない。
悩まなくなったら終わっている。 苦しまなくなったら成長が止まっている証拠である。
ぼくが盛岡へ引っ越したのは平成18年の真冬だった。
その二年前、飲み屋を開店した妹に関わったことで500万以上の借金を抱えてしまったぼくを友人が盛岡へ呼んでくれたのだ。
だが、その友人との付き合いは一年半で崩壊した。
住んでいたアパートが近かったので朝から朝まで監視され、意見を違えると容赦なく怒鳴り付けられた。
店の中でもバスの中でもそれは関係なかった。
19年になると日毎に喧嘩が絶えなくなり、六月には殴り合いをして彼自ら警察を呼んだ。
呼ばれた警察官は彼を引き離してからぼくに言った。
『あの人からは離れなさい。 その方がいい。 あの人が居ないと何も出来ないわけじゃないんだから。』と。
両親が離婚したこと、事故に遭った妹が自分の一言で追い詰められて自殺したこと。
結婚した妻が難病を患い、その看病と親族の対応で精神的に耐えられなくなっていることは知っていた。
だからといって周囲を踏み荒らして壊してもいいとは思わない。
盛岡へ引っ越した最初の三ヶ月間は彼の酒に付き合わされてまいってしまった。
『ずっと氷点下なんだから飲んでないと死ぬぞ。』
午後六時、彼は徐に焼酎やブランデーなどをテーブルに置いて料理を作り始める。
それから毎日 午前四時まで飲み明かすのである。 休むことも断ることも許されない。
気付いた時には四六時中酔っ払っている状態だった。
引っ越した当初は右も左も分からなくて彼に世話になっていたからしょうがない。
でも辺りが分かってくるとだんだんにうざくなってくる。 ぶつかると彼は部屋の鍵を没収するようになった。
入れない自分の部屋の前で一夜を明かしたことも有る。
そんなこんなで決別したまではよかったが、彼はぼくが引っ越し先に選んだ下宿でも騒ぎを起こそうとした。
20年ほど前、大阪で知り合った時の彼とはまったくの別人に変貌してしまっていた。
『俺のやり方をやれば万事うまくいく。 お前のやり方は総て間違いなんだ。』
彼からして見れば「このままではいけない」と思うことが多かったのだろう。しかし人はそれぞれに違っていて、それぞれに違うスピードで成長していくものだ。 それをあれこれと他人が批判することは出来ない。
弱々しい苗木が数時間で大風にも折れぬ大樹には育たないのと同じである。
自分のやり方が正しいからと言ってそれを他人に強要することは、鶏に牛を産むように乞うようなものである。
下宿に引っ越したぼくは誘われるままに訪問マッサージの仕事を始めた。
久しぶりに白衣に腕を通したわけだ。 自分に戻れた気がした。
日中は運転手と二人で車内に居る。
訪問先はほとんどが高齢者である。 話も弾む。
一人のおばあちゃんはいつも寝ている。 「今日もか」と思いながら観察するとそうではない。
イビキと譫言を仕切りに繰り返している。 寝入りではなく昏睡に落ちているのだ。
脈を診ながら「まだいける」と思ったぼくはそっと治療を開始した。
提鍼という刺さらない鍼をつぼに当ててそっと気を送る。 それだけの治療を続けた。
一ヶ月はまるで効果が無いように見えたが、二ヶ月を過ぎてから効果が現れてきた。
ぼくらが声を掛けると小さく反応してくれるようになった。
次いで昔の話を聞かせてくれるようになり、最後には『先生は面白い人だ。』と大声で笑うようになった。
その変化に驚いたのは取り巻きの人たちである。
毎日譫言ばかり聞いていて、いつ死んでもおかしくないおばあちゃんが元気に笑っているのだ。
一人は葬式のことばかり考えていた自分を恥じたと言っていた。
「鍼にはまだまだ俺が知らない力が在る」 仕事即研究だと思った。
それからぼくは提鍼の研究に没頭している。 様々なことが分かってきた。
鍼を皮膚に接触させるのかさせないのか。 接触させないなら何o離すのか?
鍼を皮膚に対して垂直に立てるのか、それとも寝かせるのか? そのままで動かさないのか、それとも動かすのか?
鍼を支える親指と人差し指には何lの力を入れるのか?
そして鍼を当てている時間はどのくらいか? 課題は次から次へと出てくる。
その答えに正解は無い。 それは個人差が大きいからだ。
いくらぼくでも全ての人に合った治療を施すのは一生の課題である。
訪問マッサージをしながらぼくは一つの夢を形にしようと決意した。
それが広域医療介護支援ネットワークである。
医療 看護 介護をオンラインで結ぼうというのだ。

中央にステーションを構え、そこから電話一本で曜日 時間 地域 場所を問わず利用したいサービスを受けられるようにしたいのだ。
その中には看護士 歯科助手などの派遣医療も当然に含まれる。
歯を削った後の薬の詰め替えや形録り、外科処置後の包帯の付け替えなどは自宅で出来るようにすべきだと思う。
さらに住民基本台帳ネットと連動させておけば診察券の心配は無くなる。
いったい動き出すまでに何年かかるか分からない壮大な冒険だ。
もう一つの柱は徘徊者対策である。
現在は行方不明になってから家族や警察が探し回っている。
これでは家族や地域の負担が重くなる一方である。 それを改善しようというのだ。
まず徘徊しそうな人を写真付きでネットワークに登録する。
もしもの時にはネットワークと契約しているタクシー会社と携帯電話に情報を発信する。
タクシーやデーサービスの機動力を無駄にはしたくないのである。 おそらくは今より格段に早く動けるはずだ。
三つ目の柱は119オンラインである。
今は搬送先の病院をしらみつぶしに当たっていく方法である。
これでは患者がたらい回しされ死ぬことも多い。
確実に緊急手術にも対応できる医療施設を待機病院として予め指令本部に登録しておく。
救急車には正確な位置と患者の容態を瞬時に把握するためのGPS付属電送カメラを車載しておく。
通報を受けたら救急車から的確な情報を得たならば、直ちに待機病院へ一斉に発信する。
受け入れ可能な施設のみ返信を受けたら救急車をそこに向かわせればいい。
準備に手間と金は掛かるが動き出せば手間と無駄を省ける大事業である。
なんとしても何年掛かっても実現させなければならない。
センターで病院や介護老人福祉施設 治療院を検索できれば患者が病院や施設を探し回る手間を省くことが出来る。
住民基本台帳と連動させれば財布を気にする必要も無くなれば、保険証の心配もしなくていい。
いつだったか、体調不良で受診しようとした男性を保険証の未所持を理由に看護師が追い返したニュースを聞いた。
その男性は帰宅途中に立ち寄ったホテルで倒れてそのまま亡くなったのである。
そんな患者を一人でも減らしたい。 救える命は一人でも多く救いたい。
そのような思いからこの事業計画は生まれている。
最初は民間での運営になるかもしれないが、時期を見て自治体へ移管することも考えている。
いずれにしてもぼくにとっては最後の仕事である。
仕事を離れたぼくはずっとこのビジョンを暖めてきた。 形だけは残したいと思っている。
そしてぼくの最後の仕事として死を看取るような仕事をしたいと願っている。
『最後にいい先生に会うことが出来た。 有り難い有り難い。」
亡くなる前日のおじいちゃんに言われた言葉が今も胸に響いているからだ。
元気な人の治療は誰かがやってくれるだろう。
でも、やがて死に行く人に寄り添うのはそれ相当の覚悟が必要だ。
働いてきた職場で幾度も見送りを経験してきたぼくはそう思う。
ぼくの白衣はそのために在るのだと。

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