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遠き日の忘れ物
触れ合い
人を愛するとはどういうことなのだろう?
そしてそれがどんなに難しいことなのだろう?
平成22年10月29日、ぼくはJR盛岡駅の新幹線ホームに居た。
ここから東北新幹線ハヤテに乗って函館へ向かうのだ。
そこには一人の女性と三人の娘が待っていた。
午前10時過ぎ、ぼくを乗せたハヤテは発車した。
終点は八戸駅。 そこからは東北本線の特急 スーパー白鳥に乗り換える。
ぼくにとっては初めての北海道である。 さっきからずっと緊張している。
でもこれまで緊張しない旅など無かった。 それはいつも一人旅だったから。
それにそれまでの旅はいつも飛行機だった。
今回は北海道だし、女性と会うのが目的の旅である。
夕べからなかなか落ち着かなくてそのままの状態で出発したのである。
 二戸を過ぎ、トンネルばかりの線路をひたすら北上していく。 車内では携帯も圏外になったままである。
メールできないまま時間だけが流れていく。 さっきからぼくは彼女のことばかり考えている。
夏にメールで付き合うようになり、それから電話でも話すようになった。
娘たちは動画を送るのが嬉しいらしくていつも順番を争っている。
そのくせ電話で直接話そうとはしないのだ。
当時 ぼくはユースパンション上田という下宿に住んでいた。 仕事も見付からなくて昼間も部屋に居た。
唯一、加奈子とメールをし電話で話すことが楽しみになっていた。
午後三時五分 上り貨物列車が遅れた影響で予定より少し遅れて白鳥は函館駅に着いた。
駅員に付き添われて改札を抜けると緊張した顔の四人が待っていた。
『あっどうもすいません。』 加奈子は駅員に会釈すると娘たちを促して外へ出た。
『ラーメンでも食べるか。』 そう言ってラーメン屋へ向かっていた時である。
三女 彩香が小さな手紙を加奈子に手渡した。
「パパ大好き。 おやか。」 『彩香 これ間違えたな?』
その手紙を読んだ長女 冴子も次女 かおりも吹き出してしまった。
さっきまで張り詰めていた空気が緩んだ瞬間だった。
思えばぼくらの出会いはSNSだった。
ぼくは創価学会系コミュニティ SGIレスキューを主催し、彼女はその参加者の一人だった。
しかしメールで話をしているうちにどちらからとも無く近付くようになったのである。
出会い系は禁止していたので他の参加者からは疑問や批判がよく寄せられていた。
夏になるとぼくらはアドレスを交換してさらに距離を縮めていった。交際を決定的にしたのは8月14日夜の電話だった。
『じゃあ、一緒になるか?』 その問い掛けに加奈子は頷いた。
そして今日 こうしてぼくは函館にまでやってきた。
一年前、、AV女優の名を語ったユーザーに騙されたばかりだから不安も有った。 でも賭けてみようと思った。
ラーメン屋へ入ったぼくらは座敷に落ち着いてメニューを頼んだ。
三人の娘たちはいつもの大騒ぎを始めた。
ぎこちなさはまるで感じない。 初対面で緊張しているがよそよそしさもまるで無い。
そんじょそこらのふつうの家族がそこに居た。
腹を満たしたぼくらはアパートへやってきた。
当初、ぼくはホテルに泊まる予定にしていたが加奈子の誘いを受けてみんなで一緒に過ごすことにしたのである。
居間に荷物を下ろしたぼくはお土産の「カモメの卵」を加奈子に手渡した。
加奈子と冴子 かおりは喜んでくれたがアンコが嫌いな彩香はそうでもなかったようである。
それにしても不思議な懐かしい家族である。 その懐かしさは何処から来るのだろうか?
変に飾ることもせず、そのまんまの家族がそこに居る。 (これでいい)とぼくは思った。
まず、ぼくに近付いてきたのは三女の彩香である。
その翌日、冴子と彩香が騒いでいる間にかおりが引っ付いてきた。
『パパが見えないんだったらあたしらが目になればいいじゃん。 今まで一人で苦労してきたんだからこれからはあたしらが幸せにするんだ。』
三人は加奈子にそう話していたという。
八月のある日、加奈子は三人に問い掛けた。
『今度新しいお父さんが来るけどどう?』 三人は答えた。
『それは違う。 今度来るのが本当のお父さんだよ。』
その話を聞いたぼくはどう返事を返したらいいのか悩んでしまった。
娘たちはまだ動画と写メでしかぼくを見ていないし、ぼくもまだ加奈子にすら会っていない。
そのような状態で「本当のお父さんだよ。」と言われても、、、。
電話で加奈子と話し送られた写メを見た娘たちには感じる物が有ったのだろう。
気付いた時にはぼくはパパと呼ばれていた。
この二学期、かおりと彩香が大きく変わったと加奈子から聞かされていた。
離婚前後から精神的に不安定になって勉強に集中できなかったかおりは椅子に根が生えたように落ち着きを取り戻した。
原因不明の体調不良で一学期の多くを休んだ彩香は『パパが見てるから』と頑張って登校するようになった。10月に行われた小学校の学芸会でもエピソードは有る。
不安そうな顔で舞台に上がったかおりを見付けた加奈子は思わずゼスチャーを交えて励ました。
『パパが見てるぞ』と。 それを見たかおりは自信を取り戻して堂々と演技をしたのである。
環境の変化が子供に及ぼす精神的な影響がどれほどに大きいか、、、。
思えば父も行事を見に来ることは無かった。
最後の最後まで全て母が見に来てくれていた。
中学でぼくが失明した時も。
静かに時間が過ぎていく。 聞こえるのは四人の寝息だけである。
離婚した後、ゆっくりと寝ることもできなかった四人が何事も無かったように眠っている。
まるでずっと探し続けていた忘れ物を見付けたように。
ぼくが函館にやってきて三日目、よく出掛けるという家族風呂へ行った。
脱衣所に入っても四人はまったく緊張しない。 思えば四人とも女である。
違和感も抵抗感もまったく無い三人はいつものように大騒ぎを始めた。
何処にでも居るごくふつうの家族がそこに居る。
長い長い出張を終えてやっとの思いで家に帰ってきた ぼくもそんな思いである。
「本当のお父さん」 それがいったい何を意味しているのか分からなかったが。
ぼくが盛岡へ帰る前の日、彩香が一枚の絵を描いてぼくにくれた。 それはぼくと加奈子がハートで結ばれた絵だった。
彩香が修学する前に両親が離婚してしまったからよっぽど嬉しかったのだろう。
その絵はぼくの大切なお守りだった。
翌8日は月曜日だが三人は揃って学校を休んでいた。
(帰りの電車を見送るんだ。) そう言ってかおりと彩香はおにぎりを作っている。
(帰らなくてもいいんだよ。) 三人は泣きそうに言うのだが盛岡ではやらなければならないことが待っていた。
1990年10月14日に大阪で入信した創価学会はこの年に創立80年の節目を迎えていた。
それを記念してお守り御本尊をお迎えすることになっていたのだ。
あの日、ぼくはまだ21歳だったが、気付くと41歳になっていた。
入信したことでたくさんの友人が去っていった。 もちろん、いろんな苦労もした。
それでも20年 引き下がらずに突っ走ってきた。 挫折も裏切りも経験した。
その全てを抱えて福岡から岩手へ引っ越し、この家族と知り合ったのだ。
無邪気に騒いでいる娘たちを見たぼくは密かに満足していた。
昼になり、ぼくらは揃って函館駅へ向かった。スーパー白鳥が入線するまでぼくは加奈子の隣に居る。 その時間が近付くほど加奈子は口数が少なくなった。
やがて入線のアナウンスが聞こえてぼくは改札口へ。
ぼくから離れた四人は手を振ると外へ出た。
列車に乗ったぼくは発車するのと同時にメールを送った。
「今 動き出したよ。 また来るから待っててね。」
駅の外に出ていた四人も列車がホームを離れたのを確認した。
その瞬間 堪えきれなくなった彩香が号泣した。 それに釣られてかおりも加奈子も冴子も泣いてしまった。
早速 その様子はメールで送られてきた。 だがどうしようもない。
木古内を過ぎた辺りから言い知れぬ寂しさが込み上げてくる。
今までには感じたことの無い寂しさだ。 しかしレールを刻む音しか聞こえては来ない。
ぼんやりしていると列車は青函トンネルを抜けて青森に入った。
「しかし、あの親子が懐かしく思えるのはなぜだ?」 考えれば考えるほど深まっていく謎である。
母親に反対されても貫いてくれた加奈子、おばあちゃんに絶縁を宣言されてもぼくを選んだ娘たち。
僅か三ヶ月ほどでここまで解け合った家族。 そして変わっていく子供たち。
メールに添付された動画の中で(早く一緒になって幸せになりたい)と泣いていたかおり。
互いに必要としていることにぼくは気付いた。
やがて八戸に着いたぼくはハヤテに乗り換える。 だが謎は解けないままである。
下宿の部屋に落ち着いておにぎりを食べていても謎は頭の中を回っている。
毎日 勤行をしながらその謎を自分に問い掛ける。 あの親子はどういう存在なのか?
なぜ今 函館で出会ったのか? 本当のお父さんとは?
いくら問い掛けても答えはなかなか出てこない。 そのまま一ヶ月が過ぎていった。
11月、1981年のこの頃は絶対安静の布団の中に居た。
中学一年の二学期、それも中間試験の初日に異変は起きた。
その前夜、勉強中だったぼくは右目の左上隅に赤い点を見付けた。
それでも二時間ほど勉強を続けてから寝ることにした。
翌朝、目を覚ましてみると目の前は真っ暗になっていた。
社会と美術の試験が行われたが問題を読むことが出来なかった。
学園に帰ってから職員と共に眼科へ走ったが、そこには絶望が待っていた。
夥しい眼底出血と網膜剥離が確認され失明する可能性が有ることを宣告されたのだ。
原因は一ヶ月ほど前に先輩から受けた暴力だった。あの当時のぼくは中学生になったことで有頂天になっていた。
それに腹を立てた先輩に頭を強打された。
今もそこだけ骨が僅かに凹んでいる。
そして一ヶ月後に失明したのだ。
先輩が隠し持っていたヌード雑誌も新聞も読めなくなった。
それより残念だったのは集めていた鉄道関係の本を読めなくなったことだ。
父が買ってくれた伝記や百科辞典も他人に譲らねばならなかった。
さらにぼくは絶対安静を言い渡されたのである。
だからといって心配してくれる仲間も居なかった。 自宅療養をしていても電話してくる人すら居なかった。
失明を宣告されたぼくは療養のために実家へ身を寄せたのだが、、、。
祖母はぼくを座敷の奥に寝かせると遊びに来た親戚にすら会わせようとはしなかった。 それは母も同じだった。
母の友人が遊びに来た時のこと、ぼくも話しに加わろうとして食堂に入った。
しかし母はぼくに冷たく言ったのである。 「あんたはあっちに行ってなさい。」と。
ずっと寝ていることが多いぼくは祖父母が仕事に出掛けたのも知らない。
昼を過ぎてようやく起き出してみると誰も居ないし食事も無い。
腹を空かしたぼくは棚や冷蔵庫を探って食べられそうな物を片っ端から口に入れた。
パンや納豆はもちろん、マヨネーズやバターまで口に入れた。
しばらくしてそのことに気付いた祖母はぼくを泥棒と呼んだ。
秋になれば今でもそんな過去をふと思い出してしまうぼくの前に加奈子たちは現れたのだ。
初めて話したあの日以来、ぼくは確かに加奈子を愛していた。
それにしてもぼくはずっと一人だった。 クリスマスも大晦日も正月も。
昼間は空腹をごまかすために水を飲み続け、夜は寂しさを紛らすためにラジオにかじりついた。
いつの間にか、ぼくは誰とも話さず会うこともしなくなっていた。 ぼんやりとラジオを聞きながら一日布団にくるまって過ごしたのである。
担任だった脇田俊男先生は母に留年を提案し、母はそれを拒否した。
その決断が正しかったのか間違っていたのか、それは今も分からない。
一ヶ月 二ヶ月と療養が続いて春になった。
この間、母はバイト先から飲みにくい生薬をたくさん買ってきてぼくに飲ませてくれた。
どろっとしていて甘ったるくてコップ一杯で満腹になってしまう。 おまけに下痢までしたりして大騒ぎである。
生薬を売っている店の店長さんは「体調が整うまでは下したり吐いたり湿疹が出たりいろんなことが有るよ。」と笑っていた。
つまりは漢方で言う汗吐下の治療である。
それはぼくにとっては苦痛以外の何者でもなかった。
それでも母は毎食前にコップ一杯を飲ませたのである。
一升瓶が二本三本と空になっていく。 ぼくは何気に外の景色を見て驚いた。
車が走っている。 近所のおばちゃんが買い物袋を下げている。
その全てが見えるようになっていた。 失明を宣告されたはずなのに。
眼科の検査でも剥離の影が驚くほど小さくなっていた。
そのまま続けていれば今のぼくはまったく違う世界に居たかもしれない。
四ヶ月の自宅療養を経て久しぶりに学校へ行ってみると教室にぼくの居場所は無くなっていた。
誰と話すわけでもなく何をするでもなく、ただ椅子に座って一日を過ごした。
渡された教科書は全て点字である。 読めない。
日本語が読めないのだから英語や数学は尚更である。
機能訓練を受けたが、それでも読めるまでに半年かかった。 だが日本語だけである。
数字や音符はとてもじゃないが難しくて読めない。
さらに英語はページ数を減らすためにスペルを略したりしているからさらに読めなくて苦労した。 「お前 暇なら付き合え。」 失明のショックも癒えないぼくに一人の先生が声を掛けてきた。
彼は元九州交響楽団のトロンボーン奏者で四年生の担任だった豊島護先生である。
半ば無理矢理に連れてこられたのは音楽室。
先生はぼくにアルトリコーダーを持たせてから言った。
「野球部辞めて暇やろ? お前が吹けるのは知ってる。 今日から頑張れ。」
リコーダー同好会の顧問だった豊島先生はぼくに慣れないアルトリコーダーを任せたのである。 無茶苦茶な話だった。
見たことも触ったことも無い木のリコーダーを(今日から任せる)と言われても簡単ではない。
一番の問題は右手の小指が穴に届かないことだった。
その日から先生の訓闘が始まった。
同好会でやっている曲はこれまた興味も馴染みも無いバロック音楽だ。
マッテゾンだ ビバルディーだと名前を出されてもさっぱり分からなくて(?_?)が走り回るだけである。
それでも(やれ。)と言うのだから仕方ない。 先生が用意してくれたテープを聞きながら必死に楽譜を覚えた。
そして暇を見付けては真剣に吹いた。 笑われても怒られても吹かないわけにはいかなかった。
いつか、全てを失ったぼくにリコーダーが唯一の支えになっていた。
家に帰っても両親は相変わらず共働きだし、三歳になった妹が中心に居る。
親にそんなつもりは無くてもぼくは隅の方で小さくなっていたのだ。
誰が相手にしてもしなくても構わずに朝からリコーダーを吹いている毎日が続いた。
同級生も学園の職員もぼくを『笛キチガイ』と呼んで嘲笑った。
でも負けたくはなかった。 それが生き甲斐だったから。
夏休みになると合宿にも参加した。
そこにはギター同好会の人たちも居て賑やかだった。
午前 午後 夜と厳しいレッスンが続いた。 その間には気を抜けない個人練習が組まれている。
頭が熱くなるとみんなでプールに飛び込んだ。 楽しい時間だった。
二学期になるとレッスンはさらに厳しくなったが、それには理由が有った。
この1982年の秋、福岡県立福岡盲学校 音楽同好会単独のリサイタルが計画されていたのだ。
福岡市西市民会館のホールで行ったリサイタルは新聞でも話題となりテレビカメラも取材に入るほどだった。
当時としては珍しく取材も興味の域だったのだ。
今や 視聴覚に障害を得た音楽家がリサイタルを開くことは珍しくないしふつうのことなのだが、、、。
ぼくがこの福岡盲学校に入学したのは昭和50年のことだった。
生まれてすぐのぼくは目も耳も塞がれていたらしい。
異変に気付いた母は診断の結果に唖然としたことだろう。
目は先天性の白内障で耳は感音性難聴と告げられた。
それで二歳 三歳のぼくは大学病院と家を往復することになったのである。
そこで同時に見付かった口蓋裂と裂唇の手術も受けたのである。
右目の手術は成功し視力を取り戻したが、左目は眼球が脆くて手術を続けることができなかった。

四歳になったぼくは市立の幼稚園に通い始めた。
炭坑から転職した父が働いている鉄工所の近くに在る幼稚園だ。
毎朝、父の自転車に乗って園まで行くと担当だった菰田博子先生が迎えてくれる。
桃組の部屋にみんなが集まると賑やかに一日が始まる。
しかし一ヶ月と経たないうちにぼくは虐めの的にされてしまった。
目が悪かったぼくは右だけ分厚い眼鏡を掛けていたし口蓋裂のために発音も変だから子供たちには珍しかったのだろう。
菰田先生も止めに入ってはくれたが虐めは簡単には止まらない。
そこで帰りはいつも瘤を作って泣いていた。
そんなぼくをいつも事務室に呼んで遊んでくれたのは園長先生と田中ひろみ先生だった。
田中先生は昭和50年、ぼくが入学した福岡盲学校に幼稚部の担任として赴任した先生である。
虐めは長く続いた。 話し合いもしていたようだが解決には結び付かなかった。
そこで母は思い切って退園を決断したから、五歳の時は毎日が留守番だった。
親は共働きだったから八時には揃って家を出る。 ぼくの遊び相手は本とマジンガーZだ。
遊ぶのに飽きると外へ出て近所を散策する。 でも辺りには誰も居ない。
祖父母も現役で働いていたし友達は幼稚園だ。 家に戻ってきたぼくはおにぎりを食べると寝てしまう。
親とゆっくり話せるのは夕食の時だけだった。
幼稚園で習い始めたオルガンも途中で止めてしまって時間だけが過ぎていった。
もちろん 誰にも寂しいなんて言えなかったし、言ってはいけないと思っていた。
やがて六歳になると小学校入学の話が出てくる。
だが役所は視聴覚の検査結果を見て、母に盲学校入学を申し渡した。
当時、福岡盲学校は福岡市中央区に在った。
明治生まれ 木造の古い校舎で高宮小学校と向き合っていた。バス通りから少し離れていて近くには川が流れていた。
いつも子供たちの歓声が響いていて賑やかだった。
しかし飯塚から通うには汽車を乗り継いで二時間半はかかるから通学は断念した。
それで福岡市南区に在った障害者福祉施設 生明学園にぼくは預けられることになったのである。
折しも昭和50年は東海道山陽新幹線が岡山から福岡へ伸長された年である。
そこで祖母と母は小倉から新幹線に乗ってぼくを学園へ送ってくれた。
学園には視力障害児と共に精神障害児が暮らしていた。
一部屋に15人ほどが居て風呂も食事も大騒ぎである。
朝は六時半に喧しい鐘で叩き起こされる。 寝坊なんて絶対にできない。
布団を仕舞って洗面と点呼を済ませると居室と廊下の掃除をする。
役割が決められているからさぼることは許されない。
そして食事をするのだが食事訓というやつを暗唱しないと食べられない。
八時を過ぎると盲学校の生徒は揃って登校する。
毎日決まった時間に運行されるバスに乗るのだが、そのバスには「愛のバス」という札が下げられていた。
西鉄の気遣いのつもりなのだろう。
学校から帰ってくるとまずは弁当箱を洗ってから配られたおやつにみんなで群がる。
入浴は一日おきで風呂は男女兼用である。
五時半からの夕食を済ませると六時半からは自習時間で遊ぶことは許されない。
ぼくも小さな机を前にしてよく読書をした。
しかしながら幼稚園の頃から本を読んでいたからか国語や社会の教科書はすぐに読み終えてしまった。
次に読んだのは伝記である。
湯川秀樹 豊臣秀吉 シュバイツァー ライト兄弟と毎日のように読み耽った。
居室には同級生の松井始が居て、すぐに打ち解けることができた。
彼は生まれつきの全盲で、彼の誘導はぼくの役割だったから。
八時に自習時間が終わると小学生は布団に入る。
八時に寝る決まりになっているからである。 しかし寝れたものではなかった。
夜の点呼が済んでも起きている先輩たちは野球を聞いては試合が終わるまで騒いでいる。
時にはプロレスを始めたりして毎日 投げた投げられたの繰り返しだった。
学園生活に慣れてきた頃、ぼくは変なことに気付いた。 朝 起きてみると素っ裸にされているのだ。
だからぼくの一日はばら蒔かれた下着やパジャマを探すことから始まるのである。寝小便の常習犯だったぼくは夜中に必ず先輩に起こされるようになった。 職員が先輩に言い付けてやらせていたからだ。
しかし、なかなか起きないぼくに苛立った先輩は殴る蹴るを始めた。 それが日常の暴行へと発展していくのである。
さらにぼくは奇妙なことに気付いた。
朝 起きてみると口の回りが矢鱈とベトベトしているのだ。
それは頬にも広がっていてカピカピになっている。 入浴日の翌朝にもそれは見た。
ついでに口の中も矢鱈と苦くて何かがまとわりついている。
そう、その正体は先輩が口に吐き出した精液。 ぼくの口でフェラってる先輩が居たのだ。
それを知ったのは二年ほど経ってからである。
年に一度の慰安旅行の夜、寝ているぼくは体が重くなって目を覚ました。
その瞬間、ぼくは自分の舌を疑った。 そこに先輩の物が乗っていた。
野球部で活躍する真面目な先輩だった。
ホテルの静かな部屋の中で、ぼくはどうしていいのか分からなかったが、それ以来 先輩が精液を吐き出すことは無かった。
とはいえ、30年以上が過ぎた今でも誰にも話せぬままに傷として深く残ってしまった事件である。
しかし学園で極秘とされたのはこれだけではない。 園内淫行もその一つである。
ぼくは横に眠っている加奈子の髪を撫でてみた。 不思議にも安心しきった寝息を立てている。
「これまではいろいろと大変だったね。」
前夫の家庭放棄、そして借金に浮気と暴力。 加奈子がどれほどの思いで耐えてきたのかぼくには分からない。
調理師で母親でさえも認めていた結婚。 しかし夫は家庭を省みなかった。
給料は自分で使ってしまって家庭にはまったく入れない。 それどころか借金を持ち込んでくる。
加奈子は夫の借金を返済するために無理して働いた。
食事は母親の家で食べていた。
夫との絡みは寝る時だけ。 出産にすら立ち会おうとしない男だった。
そんな夫の浮気が明かになり2009年の秋、二人は離婚した。
その一年後に現れたのがぼくだったわけである。
加奈子が再婚を母親に打ち明けた時、母親は物凄い形相で四人を睨み付けた。
そして忘れ物を取りに来た三人に絶縁を宣告した。
そんなことが有っても四人はぼくを選んでくれていた。
(パパが見えんかったらダメなん?) そう号泣して。
ぼくは嬉しかった。 大好きなお祖母ちゃんよりもぼくを選んでくれていたことが。

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