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月三物語
【慕情】

 記憶の中の母の顔は、霞のように表情すら判らない。ただ白い手で抱きしめられた。それだけが、僕に唯一残された母の記憶。

 車窓からの景色が、急に1面の緑になる。父から渡された手紙を握り締め、ぼんやりと考える。

 僕を産み四歳の時に家を出て行った母、再婚して六歳違いの妹がいるという。今更逢ってどうなるというのか?

『このまま帰ろうか……』

 そう思う気持ちと、逢わなくては、と思う気持ちがある。

 恐れ? いや、違う。僕の人生を取り戻すためには逢わなくてはいけないのだと――


 駅から徒歩で十五分歩く。周りの風景はどこまでも民家と畦道ばかり。風が吹くと伸びた稲がザワザワと音を立てる。

 手紙の住所を確認しながら歩いていた僕は一軒の家の前にいた。チャイムを押そうとした時、声をかけられた。

「あら? 家庭教師の先生かい? 美鈴ならまだ帰ってないけど。まあ、上がりなよ」

 妹の家庭教師と間違えているらしい。美鈴……妹の名だ。

「いえ……僕は」

「さあ、上がった上がった」

 強引に勧められ家の中へと入る。お茶とお菓子を出され孫は、志望校へ入れるのだろうか? とか、先生になってどれぐらい経つのとか、聞かれ曖昧に相槌をうつ間に元気の良い声が聴こえてきた。
「ただいま〜おばあちゃん、お腹空いたよ〜」

 玄関から勢いよく走ってきて、僕に気が付くと急に黙り込んでしまった。

「こら美鈴、先生に挨拶は?」

 美鈴はああ、という顔をしてニッコリ笑ってこんにちはと言った。

「こんにちは美鈴さん」

 僕は今更違うとも言えず、話を合わすことにした。

「今日は違う先生なのね。じゃ、私の部屋に行きましょ先生」

 おばあさんに声をかけ二階の美鈴の部屋へ入る。勉強を教えられるのか僕が? 眠りにつく前の僕は今の美鈴より一学年下だった。
 幸い得意の数学だったので、教えてあげられてホッとしてたら、ノックの音がしてドアが開けられた。

 ガシャ―ンと音がした――母がお盆から手を離しカップが割れた音だ。

「……りゅう……」

 母が僕の名を呼ぶ――僕は違うと言った。違う――! と。

「竜でしょ? 逢いにきて……」

「違う! 僕は竜じゃない! 」


 叫ぶと家を飛び出し走りながら泣いた……涙があとから、あとからあふれるままに……



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