清流に棲む魚
2
「嶋崎先生。おはようございます」
須田は嶋崎とともに更衣室に入った。
「今日の病棟の光凝固術、あの患者さんね」
嶋崎が須田に確認してきた。
「ああ、安藤さんですね」
ふたりは私服を脱いで、白衣に身を包んでゆく。
「蛍光眼底撮影の結果はどうだった?」
「軽度の眼底出血が2ヶ所認められましたが、視力そのものには影響ありません」
白衣の上から診療衣をはおりながら、ふたりは更衣室を出た。
「糖尿病の方は血糖のコントロールがプアだったんですが……。現在内科で教育入院中ですから、自己血糖測定とインシュリンの自己注射が出来るようになれば、病態も安定するでしょう」
「A1Cは?」
「明日の定検で組まれていました」
嶋崎は、須田のそつの無さに満足してうなずいた。
医局のコーヒーメーカーでドリップされていたコーヒーをカップに注いで須田が嶋崎に差し出す。
「お、ありがとう」
受け取った嶋崎に、須田は笑顔で応えた。
彼にとって、この医局はくつろげる空間でもある。
医局がそんな場所だとは、ここに来るまでは思ってもみなかった。
「あ、須田先生。ぼくもいただいていいですか?」
更衣室から出てきた産婦人科医の曽我が診察衣に袖を通しながらやって来た。須田とは同年代という事もあって、懇意にしている。
「ああ、どうぞ」
「すみません」
須田がコーヒーを注いだカップに笑顔を添えて渡すと、曽我は端正な笑顔を浮かべて受け取った。
須田は、受け取ったコーヒーを味わう曽我をじっと観察する。
白いブラインド越しの朝日を浴びて、色白できめ細かな肌と、絹糸のようなさらさらとした色素の薄い髪が眩しいほど輝いて見える。その端正で優しい顔立ちは、女性患者の受けが良過ぎて彼女たちの羞恥心を煽るため、彼はデリケートな部分の診療を拒まれる事もしばしばだった。
「曽我先生。最近また特に綺麗になりましたね」
須田が指摘すると、曽我は一瞬むせてしまいそうになりながら、そんな発言をしてくる須田を咎めるような視線で返してきた。
曽我にとって『綺麗』という形容は禁句だ。
本人はジムに通って体を鍛え上げているため、実際は決して女性的ではない。
しかしながら、曽我の恋人が男性である事を密かに知っている須田にとっては、曽我はなかなか色っぽく見えてしまう。
「こらこら、ぼくの曽我くんをからかってはいけませんよ」
それを聞いた産婦人科科長の藤本が、仙人のようなつかみ所の無い穏やかな表情で、ソファーに座って茶をすすりながらツッコミを入れてくる。
クスクス笑う藤本に、嶋崎が呆れていた。
「先生のそれはどこまでが本気なんだ?」
「ぼくは全部本気だよ。曽我先生は綺麗だから独り占めしたいのだけれどね、なかなかそれが叶わない」
藤本は茶をすすりながら涼しい顔で云ってのける。
嶋崎は何も云えなくなった。
曽我にとってはいつもの戯言で、もう気にならなくなってきている。
「そりゃあ、婦人科で女ばかり診ている反動か?」
恰幅の良い体をソファーに埋めている整形外科科長の常磐が訊ねた。
彼は職員検診で境界型糖尿病を指摘されたにも関わらず、相変わらず糖分の多いヨーグルトドリンクを飲んでいる。
「違うよ。綺麗なものを綺麗だと認めているだけだよ。須田くんだって惚れ惚れするほどいい男だしねぇ」
須田を見てにっこりと笑う藤本に、須田は愛想笑いで返した。
「そりゃどうも」
「ぼくはどうも惚れっぽい性分みたいでね。ここの医局は華があっていい。篠田くんも軽薄だけど可愛いしね」
男を華と表現する藤本の感性は良く分からないが、須田はこのつかみ所の無い医局のヌシに計り知れない懐の広さを覚えた。
「おはようございます」
そこに小児科医の篠田が相変わらずのボサボサの風体で現れた。
「おはよう篠田先生。今日もねぐせが可愛いね」
「え?」
藤本に指摘されて慌てて後頭部を押さえる篠田は、医師たちの失笑を誘った。
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