清流に棲む魚
11
時は瞬く間に過ぎていった。
あれから一年経った現在となっては、あの日、嶋崎と出合う事ができたのは運命の粋な計らいだったとしか思えない。
嶋崎のもとで、嶋崎と共に、この病院の医療にずっと携わってゆけるのがどんなに幸福な事か。
須田は、自分が嶋崎の崇拝者のようになっていくのを自覚していた。
午後になって、須田は未熟児の定期的な眼底検査のためにNICUを訪れた。
クリーンな空間であるそこに入るために、医局で白い外来診療衣からブルーの手術衣に着替えてやってきた。
ナースセンターに入ると、そこでは篠田がカルテの記録をしていて、病児の明日以降の栄養と点滴の指示を出していた。
「やあ、篠田先生。寝ぐせは直してしまったんだ?可愛かったのにね」
須田は、藤本と同様に篠田をからかう。
「あの後すぐに直しましたよ」
篠田は、陽に焼けたやんちゃな子供のようで、きまりが悪そうにふて腐れながら返してきた。
須田はクスクス笑って、担当する未熟児のカルテが用意されているデスクに座った。
「須田先生……だんだん藤本先生に似てきましたね」
篠田がぼそりと呟く。
「え?」
「悪い意味じゃないですよ。温厚で大物っぽいんですけど……何かこう正体不明なんだなぁ」
須田にとっては、意外な指摘だった。ストレートな言動は、多少なりとも他人に不快な思いをさせるという事を経験で知った須田は、嶋崎のようになりたくて、嶋崎の穏やかな言動に影響されてこうなったはずが、なぜ藤本になってしまうのか。
正体不明と言われてしまえば、確かにそうかもしれない。
男性にも女性にも同様に接してしまう在り方は、藤本の特徴にそっくりだ。
須田にとっては男性も女性も守備範囲に入るのだから仕方がない。
喜んでいいのか悲しんだ方がいいのか悩んでいると、NICU独自のフェミニンなラインのピンクのユニフォームに身を包んだ看護師が須田に呼びかけてきた。
「須田先生、検査準備出来ました」
「はい」
須田はカルテを抱えて立ち上がった。
淡いピンクの上下揃いのチュニックとパンツのユニフォームは、男性職員の憧れの的だ。
クリーンな環境で働いている彼女たちは、院内をあまり出歩かないため、その姿には滅多にお目にかかれない。小さな命を清潔に整えられた指先で優しくケアする姿は聖母のようで、なぜか一様に気高く美しく見える。
それがユニフォームのせいかどうかは定かではないが、イメージは大切だと須田は思う。
須田は、補液チューブや栄養チューブ、心電図モニターと経皮酸素分圧モニターのコードの渦に埋もれている保育器の中の未熟児を見下ろして『まだ羊水の中でのほほんとしていたかったろうに……』と同情しながら、彼らの眼底を検診していった。
「生まれてすぐに、厳しい世の中を生きる苦悩を味わっているね」
検眼鏡を通して眼底を覗きながら呟く須田に、未熟児の頭を固定していた看護師が反応した。
「は?」
「人肌のぬくもりも味わえず、こんな狭い部屋でひとりきり。……いや、実に孤独だね」
看護師はどうリアクションしていいか分からない。
これは何かの哲学なのだろうかと悩みながら、須田を見つめた。
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