相応しい男
23
「橘少佐」
「え?」
突然の新しい呼称に橘は戸惑いを見せる。
「今夜、何かご予定はありますか」
橘は穏やかに微笑む西奈を見て、安心して微笑み返した。
「いや、予定は何も……」
「沢口中佐は?」
「あいつは提督と先約があるだろう」
橘は西奈に耳打ちして、極秘情報を伝えてきた。
「同棲してるのとほとんど変わらない状態なんだから」
西奈は驚いて壇上を見た。
今まで真実味がなかった関係が、急に生々しく感じてしまう。
「……で、何?」
橘は、黙り込んで壇上を見つめる西奈を急いた。
「ええ。……今夜、自分の部屋にご招待しても構いませんか?」
そんな誘いが嬉しくて。嬉しさを少しだけ抑えながら橘は頷いた。
「うん」
綺麗な笑顔で笑う彼が愛しい。
西奈は、そんな笑顔が今も傍にあり続ける事が幸せだと感じる。
「シャンパンでも用意して、お待ちしてます」
「昇進祝いか。……いいね」
「自分が、あなたに相応しい立場を手に入れた記念ですよ」
そういう解釈もあるか、と橘は感心した。こういうセリフをためらいなく言ってのける西奈はさすがだと思う。そんな西奈の感性が嬉しい。
「だけど俺、飲めないよ。アイツが出て来たらどうするんだよ」
真剣に困っている橘だったが、西奈は失笑した。
それはそれで楽しいとも思う。しかし、西奈には確信があった。
「たぶん、もう現れないんじゃないでしょうか」
「どうして?」
橘は驚いた。
「あれは、叶えられなかったあなたの深層の願望が原因だったのだと思います。今のあなたには、そんな事をすべて断ち切って、新しい困難を乗り越えて来た強さがある」
西奈は柔らかく包みこむような視線を向けた。
「だから、安心してください。……もし現れたとしても、自分とふたりだけの時なら、彼女も可愛いから好きですしね」
穏やかに笑顔を向けられて、橘の胸が熱く切なく疼く。
西奈は、どんなときも傍にいた。
たとえ全てが敵にまわったとしても、西奈だけは自分の味方でいてくれた。
そして、西奈自身が、そうあるための努力をしてきた事を橘は知っている。
橘は、まるで暗示をかけられたように、その西奈の言葉に反応した。
「なんか、悔しい……。俺ばかりいつも取り残される。……俺だって、おまえに負けないくらい」
――おまえが好きなのに
そう言いたげな危うい感情を示す切ない視線に気付いた西奈は、この状態はまずいと感じていた。
橘の感情は嬉しい。人目さえなければ、このまま押し倒してしまいたいくらい可愛い。
しかし、そうもいかない状況では、なんとか橘の感情を隠すしかなかった。
「続きは今夜……ね?オフィスラブは原則的に奨励されませんから」
西奈の耳打ちで橘は我に返った。
自分たちの世界に浸っているうちにいつのまにか記者会見が終わって、フリーになった記者たちが、目当ての将校たちに向かってやってくる。
橘は西奈を見上げた。
「どうしよう」
「祭り上げられるのはゴメンです。正体がバレてはまずい過去が多いですからね」
「そりゃそーだ」
笑う橘と連れ立って、西奈は早乙女の傍に向かって行った。そして、自分たちを追ってくる記者たちを後ろに従えながら、早乙女とすれ違いざまにニヤリと笑った。
「後を頼みましたよ。艦長」
「え?」
去って行く西奈と橘。副長ふたりよりもいいネタを前にして、標的を早乙女に変更した記者たち。
「策士だな」
早乙女は西奈にしてやられた事を知って、恨みがましい視線を向けてエレベーターに駆け込むふたりを見送った。
ふたりはこらえきれずに、ドアが閉じてからエレベーターの中で笑いだした。
やがて視線が絡んで、違いにひかれあうようにキスを交わした。
唇が触れるだけの、互いの唇を愛撫するキスは泣きたくなるほど切なくて優しい。
西奈の記憶のなかにある橘と、今、自分の腕の中に抱いている橘のイメージはずいぶん違ってきた。
橘を知れば知るほど、遠くから見つめていた時のイメージとは程遠いと実感する。
変わる表情が生き生きとして、その輝きのなかに強さを感じさせる。儚げで頼りない、いつも寂しさに包まれていた彼の姿など、今はどこにもなかった。
それは、無条件で愛してくれる存在があるという、信頼からなる強さに外ならない。
自分の存在こそが橘を強くしているという事に、西奈はまだ気付いていない。
西奈自身も、橘の存在による自分のなかの革新を知る由もなかった。
「――久しぶりにゆっくりしたいです。泊まっていくでしょう?」
「明日も仕事だろ? 早く寝たいよ、俺」
欲しいまま求めあっていた時も良かったと思うが、今の現実もなかなかいいスパイスになる。ままならない制約ある生活もまた、なんとなくもどかしくていいと思えるようになってしまった。
先輩と後輩、上官と部下、戦場の盟友、同じフロアのオフィスに勤務する同僚。様々なシチュエーションが刺激的で、マンネリ化しない関係を保つひとつの効果を発揮していた。
「オフィスラブなんて初めてなので、ドキドキしますね」
「……ばか」
橘は恥じらいを隠そうとしても赤くなる。
クスクスと笑う西奈もまた、自分で言いながら赤くなっていた。
後日、まことしやかな噂が流れたが、それは『好みで艦長を決めている』という類いのものではなかった。
空母アレスの指揮官ふたり。早乙女と西奈にまつわる濃厚な関係についての艶聞が、本部職員の間に飛び交っていた。
西奈がオフィスに飛び込んで早乙女に抱きついた。
早乙女が抱き返すまでの瞬間、ゆっくりと閉まるドアの向こうの事などふたりは全く意識していなかった。だが、そこには大勢のギャラリーがふたりの行為を目撃していたのだ。
ドアが閉まった瞬間、ゴシップ好きの職員が歓声を上げた事など、全く気づかないでいたふたりが、そのまま渦中の人に祭り上げられたのは言うまでもない。
尾ヒレがついて勝手に泳ぎ出す噂には誰も太刀打ち出来ないのだと、西奈はこのとき初めて知った。
相応しい男
――終――
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