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楽園の紛糾
setuna3





 早朝の4時。
 橘は西奈のコールに起こされ目を覚ました。
 いつのまに眠ってしまったのか、彼女の姿はどこにも無くて、ひとりで広いベッドを占領していたことに気付いた。
 シャワーを浴びた後の、洗いざらしのボサボサの長い髪を指で梳きながら、橘はぐるりと室内を見渡した。
 脱ぎ捨てた服がそのままソファに掛けられていた。近寄って確認するとサイフもIDカードもそのままで安心する。あの情熱は、素直な感情の表れだったと知って、橘は嬉しかった。
「名前も……聞いてなかったな」
 一夜の火遊びに名乗る必要もない。
 そんな印象があった。
 長く親密に付き合おうと思うなら、初対面からあんな大胆な事はできないだろうと思えた。
 下着とパンツを身につけて、テーブルから腕時計を拾い上げて左手首に通しながら、時計と共にそこにあったはずのブレスレットが無くなっていた事に気付いた。その代わりに、青い石と羽飾りで装飾されたピアスがひとつ残されていた。
 それはまるで試合後のユニフォーム交換のようだ。
 橘は苦笑してそれを抓みあげて眺める。
 HEAVENで初めての情交にしてはあまりにも情熱的だった自分自身にも苦笑しながら、ピアスをテーブルに置いて煙草を取って火をつけた。
 そして、指折り数えて反芻してみる。
「我ながら、なんというか……」
 自分でもそんなに欲があろうとは知らなかった。
『橘さん……』
 ノックの音とともに、ドアの向こうから西奈の声がした。
 橘はドアを開けて、疲れた様子の西奈を迎え入れた。
 そして、西奈の前を半裸のままで歩いて、テーブルに戻ると煙草を灰皿に押し付けた。
 西奈は、橘の肌を見て顔が火照るのを自覚した。
 透明な白い肌に包まれ、華奢に思えていたその身体はぎりぎりまで絞られて、締まった筋肉につつまれている。ウエイトこそないが決して華奢ではない、若い男子の理想的な姿がそこにあった。
 そして、後ろから見ても分かる場所にまで、紅い情事の跡が残っている。
 偶像化していた橘の生の部分を実感して、西奈の鼓動が昂まった。
 シャツを着て振り返った橘と視線が合って耳まで赤くなる。
「帰りましょう」
 動揺を悟られないように、ドアに向かう。
「休まなくていいのか?朝までまだ時間あるぞ」
「いえ、こういうところでは寝付けなくて」
 ドアを開けて廊下に出る。
 ふたりはそのままエレベーターへと向かった。
「じゃあ、俺ん家来る?何にもないけど、ベッドとコーヒーだけはあるよ」
 西奈と肩を並べて歩く橘は、そう言って視線を合わせてきた。
 誘われているようで気恥ずかしい。
 勿論、ただ寝る場所があるといっただけの意味だ。
 消耗して賢者になっていたはずなのに、なんとなくそう感じてしまう自分が邪まで、いささか動揺してしまう。
 しかし、こんな機会は滅多にないだろう。
 西奈は橘の私生活を覗く誘惑に負けて、素直について行った。
 ホテルを出ると、外はうっすらと夜が明け始めていた。ふたりが歩くその通りはホテルが軒を並べ、いかにも人目を忍ぶ恋人たちが愛し合う場所といった趣をたたえていた。
 ふたりは自分たちが向かっている方向にあるホテルの入り口で、アベックが何やらもめているところを目撃した。
「ここまで来ておいて、そりゃないぜ……ってトコだよなぁ」
 橘は苦笑した。
「あ……逃げられた」
 西奈は冷やかすような視線でアベックを眺める。
「あれ?あの走りっぷりは男だな」
「残されたほうも男ですよ」
 ホテルの前を通りかかり、諦めて中に戻って行く男の後ろ姿を見送って、ふたりは苦笑した。
「いやぁ……。これが普通だっていうんだから慣れないうちはまいっちゃうよなあ」
「自分たちもこういうところを見られては、誤解されるかもしれませんね」
「そーいやそうだな」
 確かに、ホテル街をふたりで肩を並べて歩いているこんな状況を目撃されでもしたら、申し開きもたたないだろう。
 しかもふたりとも情事の後で、それ相応の気怠さと色気の残りをダダ洩れさせている。
「俺の回りに全くなかったわけじゃないけど、プラトニックだったりしたから……。なんか、どうも生々しいなぁ」
 困惑した様子で話す橘は、自分自身の事も含めて考えていた。
 立川に惹かれていた事実がある。しかし、その感情は身体まで支配していたわけではない。
「西奈は?そういうの理解あるほう?」
 突然質問を向けられて、西奈はうろたえた。
「自分ですか?」
「まあ、女のほうが好きだってのは分かるけどな。今日だってふたりも相手してきたみたいだしぃ」
 橘は全く罪の意識を持たない邪まな含み笑いを浮かべて、西奈と視線を合わせた。
「成り行きですからね。好きでふたりも抱えこんだわけじゃありませんよ。あんなスポーツ感覚でやられちゃあこっちの身が持ちません」
 げんなりして答える西奈から、すべての原因が自分にあった事を思いだして、橘は急に罪悪感に駆られた。
「……ごめん」
「あ。いえ、そういう意味ではありません。橘さんのせいじゃありませんよ。その気があればあなたをつれて帰る事だって出来たわけですから」
 しかし、熱いモーションで迫ってくる『翔子ちゃん』とふたりきりになっては、そのまま流されてしまいそうで、西奈にはそれができなかったのだ。
 ふたりはまばらに車が走っている通りに出ると、タクシーを止めて乗り込んでいった。



 早朝の街角で、息を乱して肩で呼吸する沢口が、ビルの壁にもたれながら朱の空を眺めていた。
 杉崎への想いを断ち切るために新しい相手を求めていても、いざとなると恐怖と嫌悪感で逃げ出してしまう。
 沢口は、そんな自分がみじめで悔しかった。
 クロイツとの戦いから帰還する途中に立ち寄った、衛星都市アベルでの数日間は、沢口にとっては苦しい現実だった。
 別れ話でもめていたはずの響姫と杉崎は、ふたたび元の関係に戻ったようで、変わらない仲の良さを見せつけられた。
 早乙女がいなくなった今、もう彼等の障害になるものは何もない。
 それまで自分をいろいろとかまって励ましてくれていた立川も、ふたりの関係を容認しているのか、沢口に対してはもう何も言って来なくなってきた。
 諦める外はない。
 それなのに、自分はまだどう仕様もなく杉崎を求めている。
 沢口は、滲む涙を拭ってふたたび静寂なビルの街中へと消えて行った。



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