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愛と恋のはざまで 僕らは永遠の明日を夢見る(2019/04/24更新)
愛と恋のはざまで 2



2



 大戦の最中、杉崎の訃報を聞いたフェニックスは、惑星ジェイル空域でイスハーク艦隊を迎え討っていた。
 提督と参謀の暗殺を聞かされて足元が崩れた沢口は、自分の感情に呑まれ冷静さを失い前線から退いた。
 野村は、どう仕様もなく自暴自棄に陥る沢口を放っておけなかった。
 沢口の慟哭を受け止めて、慰めるために体を使ってしまった事は、衝動的過ぎたかと反省しても手遅れで、気付いた時には心まで許し過ぎていた。
 沢口も、そんな野村の戸惑いには気付いていた。
 戸惑いながら、それでも許されて包容される事に沢口は縋った。
 提督の死亡報告を受けて一月以上経った後でも、時折言い知れない喪失感が襲って、身の置き所がなくなるような悲しみに支配される。
 そんな時、野村は必ず沢口の傍にいて、黙ってその悲しみを抱きとめた。
「いいよ、泣けよ。……我慢するな」
 そうやって野村から許されるたびに、沢口はこらえきれないままその胸に縋って泣き崩れた。
 失った愛を忘れられる程、時は経っていない。
 欲しかった温もりとは違う。からだも、香りも、声も違う。
 欲しくて恋しくてたまらなかったひととは違うのに、どうしてこんなにやさしいと感じるのだろう……と、沢口は混乱してしまう。
 重ねるてのひらのあたたかさが嬉しくて、そっと耳元で自分の名をささやく声がくすぐったくて、どうしてこんなにもしあわせな気持ちになるのだろう。
 沢口は野村に抱かれながら、不埒な自分の感情を責め続けて涙をこぼした。野村の愛情は外にある。そんな事は最初から解っている。
 それでも、沢口にはそのやさしさが嬉しかった。

 そんな繰り返しの中で時が過ぎて、杉崎の訃報から立ち直った訳でもなく、そこから目を逸らし始めたような沢口は、事実に触れないように、ジェイルでの生活を野村と共に過ごしていた。
 まるで悲しい出来事を忘れようとしているかのように、沢口は野村に干渉する。特別メニューで野村を叩き上げ、野村にとってはハードな毎日が続いていた。
 時折、きつくなるトレーニングに音を上げる。
 特に、格闘技のトレーニングに沢口の熱が入り過ぎると、野村は投げやりに不満を訴えた。
「おれはパイロットだ!こんなん必要ないだろうっ!?」
「バカヤロウ!パイロットだってなぁ、機体失ったらあとはテメーの体で戦うしかねーだろうっっ!!自分ひとり守れねーでどーすんだっっ!?」
 そんな言葉のやり取りはいつもの事で、特別な意味など持たない。沢口もいつものように勢いで返したはずだった。
 それなのに、その日の沢口は、野村に言い捨ててから不意に何かを思いつめた。
 突然悲しみが襲って、戦意を消失して所在なく立ちすくんでしまう。
 その様子に気付いて慌てて駆け寄る野村に抱き竦められて、沢口は茫然として呟いた。
「――おまえは…………死ぬな」
 不安が沢口を支配して、野村の身体を抱き返してそのぬくもりに縋った。
 突然の感情に動揺を見せる沢口を受け止めて、野村は遣る瀬ない思いに沈んでゆく。
 ひと月以上経っても、大切なものを失う恐怖心から逃れられないでいる。
 野村を叩きあげながら、その一方では食事も満足に摂れずに、痩せて行く沢口がいた。まるで、十年前のあの日、フェニックスを突然去ったあの時と同じように、沢口は病んでいた。
 野村を失ってしまえば、自分はどうなるのだろうと云う恐怖感が、沢口を追い詰める。それほど、野村の存在が沢口を大きく占めていて、その思いは確実に育っていた。
 縋る沢口の細くなってしまった身体を抱きしめて、その悼む心を癒したいと、野村は切に願った。

 深夜に目覚めた野村の目の前に、沢口の寝顔が飛び込んできた。
 艦長室の寝室で、共に眠るのが当たり前になってから、いつのまにか抱き合って眠るようになっていた。
 その夜も、動揺する沢口を慰めて傍で眠った。
 野村は、薄明かりの中で、改めて沢口の寝顔を見つめた。
 形よく濃い眉は男らしい。豊かで長い睫毛は綺麗だ。それなのに、高過ぎない鼻は可愛くて、ぷるんと上唇が突き出たようなふっくらとした口元との組み合わせは、キューピー人形のように見えて、野村は思わず失笑した。
 やっぱりこいつの顔は可愛い……と野村は思う。
 ぐっすり眠る沢口の鼻筋を指先でなぞって、そのまま唇に触れた。
 やわらかく弾力のあるあたたかい感触は、野村をふたたび誘惑する。
 そっとくちづけて、そのやわらかさを堪能しているうちに、不埒な欲望が頭をもたげてきた。
 野村は、遠慮も罪悪感も無いまま、眠る沢口をそのまま抱き寄せた。
 さすがに、そこまでされると目が覚める。
 沢口は完全に目覚めないままのぼんやりとした思考で、目の前の存在と、身体を襲う感覚の正体を考えた。
 考えるうちに、否応なく襲ってくる快感と熱くなった体の変調で、自身の身の上に起こっている現実を理解した。
「タカ……」
 既に恥ずかしい格好にされている事に改めて気付いて、紅潮して困ったような表情で野村を咎める。それはかえって、野村を挑発した。
「うん?」
「ケダモノ」
 拒絶は無かったが、行為に呆れる。
「う〜ん……そうかなあ。ああ……でも、キモチイイ。ケダモノでもなんでもいいわ、おれ」
らしくない溺れた事を言う野村からキスを贈られて、沢口はさらに赤面した。気持ちいいのは自分も同様だった。
 何の理屈もこだわりもなく、ただ行為に没頭する。単純に快楽を求め合って慰め合う。
 愛とか恋とか独占欲とか。そんな縛りは存在しない。
 その関係は理屈なくふたりを夢中にさせて、あまりに相性が良過ぎて信じられない。
 野村にとって、それは悩ましい事態だった。
 安心と素直な快楽を、ありのままに受け入れる。思うままに抱くだけで、それに応える相手が自分と共鳴して昂め合う。
 聖や黒木には、体裁を整えるために、実は一歩引いて気を使っている。嫌われたくないと言う思いがある野村にとっては、関係を続けるためにはそれでも構わなかった。
 沢口は違う。
 純粋に対等な関係は、思うままに愛し合う事を許して野村を夢中にさせた。それまで、そんなに恋人に気を使っていたなんて自覚すらなかった野村は、ここで初めて自分の在り方を自覚して、少なからずショックを受けていた。
「初っ端から一番みっともねー姿見せられて、全てをさらけ出した相手だ。……好き放題にもなるさ」
野村の動揺を察した沢口は、さらりと重たい判決を下した。
「それで俺は救われたんだ。善行を施したと思えよ」
 そんな風に強がって見せる沢口の表情が、本当は頼りなく揺らいでいる事に野村は気付いていた。
 そして、行為を重ねて、情を重ねながら、互いに互いの存在が大きく育って行くのには気付かない振りをしていた。
 ある日、気運が向いて、聖がギャラクシアを率いてジェイルに立ち寄った。ギャラクシア護衛艦隊との合流が目的だった寄港によって、戦況どころか世界が大きく変わる程の事態を知った野村は、その時からの沢口の変化に気付く事が出来なかった。
 やがて、戦乱の渦中に参入したフェニックスは作戦を遂行し、終戦と共にHEAVENへと帰還した。
 HEAVENに帰ってからのふたりの関係は、まるで何事も無かったかのように途絶えてしまった。
 戦闘機隊は本部航空基地に収容され、艦隊指揮官は統合本部ビルのオフィスでの勤務に就く。
 ふたりの接点は、艦を降りてしまえば無くなってしまう事に気付いて、野村は恋人を取り戻した沢口に、祝福の気持ちを向けながら訣別した。


△ □ ▽


 壇上で、総帥から握手と共に少佐の階級章と認定書を受け取った野村は、階段を降りて席に戻るために会場を横切った。
 艦隊指揮官たちが並ぶ前を歩きながら、沢口と目が合う。
 押さえ切れない感情が表情に現れている沢口に気付いて、野村は動揺した。今にも泣き出してしまいそうな、苦痛を見せる沢口は、杉崎を失った当時を思い出させる。
 杉崎の存在が傍にありながら、どうしてそんな表情で自分を見るのか分からない。分からないが、自分がやってきた事への自覚はある。
 後ろ髪を引かれるような思いを残しながら、野村はそのまま沢口の前を通り過ぎて、自分の席に戻って行った。
 式典の最中、野村はずっと沢口の事が気掛かりだった。
 あんな顔をされてはたまらない。
 まるで、自分が求められているように錯覚する。
 自分たちは、日常を取り戻した。
 元の鞘に元って、ふたたび変わらない日常に還った。
 そう言い聞かせていた感情が崩折れてしまいそうで、野村は必至に自分を押さえ込んでいた。
 全ての式次第が終了し、列席した全ての関係者が、一斉に起立して壇上に敬礼を向けた。
 聖が壇上を降りたその時、会場の来賓席から、フェニックス艦隊参謀の立川が沢口を案じる声が聞こえてきた。
 驚いて振り向くと、視線の先に倒れそうになっている沢口の姿を見つけた。立川に支えられて、苦痛を浮かべる蒼白の表情に驚いて、思わず駆け寄った野村は、不意に向けられた沢口の視線に制止されて、半ばで立ち止まったまま、傍に行けないまま立ちすくんだ。
 動けない沢口は、杉崎に抱きかかえられて会場を去った。
 そんなアクシデントで一時中断されたセレモニー会場は再び動き出して、佇む野村は報道陣に囲まれてそのまま身動きがとれなくなった。



 認定式の後、休暇をとっていた野村は、久し振りの自分の部屋に戻って物思いに沈んでいた。
あの後、沢口はどうなったのだろう。
 杉崎に守られて、愛されている沢口の事だ、大事に至る事はないし、何も自分が心配する必要も無い。
それなのに、沢口が何かを訴えていた。
 どう仕様もない感情が伝わってきて、野村は遣る瀬ない。
 自分の立場も、沢口の立場も、どちらも同じような境遇に身を置いている事くらい分かっていながら、どうしてこんな喪失感に襲われなければならないのだろう。
 カーテンを開け放した14階のベランダの向こうに、街の灯りが輝いて見える。都会を繋ぐ幹線道路を照らす照明灯の青い光が、帯のように街を縦断している景色を眺めながら、野村は理由を探して、自分がどうすべきなのかを考え続けた。
 沢口を案じて、まんじりともしない夜を過ごして、やがてうっすらと白い光がビルのシルエットを浮き彫りにする夜明けを迎えた。
 ビルの向こうを朝焼けが覆って、夕暮れにも似た風景が時間の感覚を麻痺させる。
 野村は新しい一日の始まりを眺めながら、決然と表情を定めた。
 そして意を決したように、窓際を離れてベッドルームへと引き込んだ。明け方からやっと眠りについて、昼近くに目覚めてから、しばらくバスルームに籠って眠気の残る頭をスッキリさせた。そして、髪をスタイリングして、珍しく時間をかけて身支度をしてから家を出た。
 セントラルシティの中心街まで車で出かけて、ショッピングモールで買い物を済ませてから、防衛大附属病院へと向かう。
 病院の駐車場に到着して車を入れてから、病院の前庭を歩いた。
 温かい空気がそよいで、やさしく頬を撫でて行く。
 並木道の一部は桜並木になっていて、けぶる桜色の道は統合本部によく似ている。
 野村はそこに立ち止まって、桜の花を見上げた。
 青空を背景に、風に吹かれるピンクの花が、重たそうに枝を揺らしている。ジェイルでは見る事のできない景色が目の前に在って、ふたたび巡ってきた新しい環境でどうやって生きていこうかと思案した。
 野村は、そんな思いをめぐらして、しばらくしてから沢口が収容された病院へと入って行った。
 総合診療科の病棟に、沢口が入院している。
 過労とストレスによる上部消化管の炎症。鎮痛剤と保護剤の投与を受けて、今は症状が落ち着いている。
 病院のシステムに侵入して、そんな情報を手に入れるのは、今の野村にとっては容易い事だった。
 ハッキングとも言うが、そんな事はとるに足らない。
 五階の病棟に居る沢口に面会するため、病院独特の生活匂と消毒液の匂いが入り交じったエレベーターに乗り込む。
 自分の日常とは全く異質な空間は、慣れなくて拒否反応を起こしそうだと感じながら、野村は止まったエレベーターの開くドアからフロアに足を踏み出した。
 入手していた情報を元に、ベッドがすれ違う事が出来る程の広い廊下を進む。
 途中数人の白衣のスタッフとすれ違ったが、皆一様に忙しそうで、野村の姿に記憶を刺激されても、その注意は長続きしないまま離れて行く。
 結果的には、誰とも接することなく、迷わず病室の前まで辿り着いた。
 セキュリティガードの解除コードは入手済みで、ドアの横に設置されているテンキーを操作してドアを開けて入室した。
 キー操作の電子音に気付いていた沢口は、医療スタッフの入室を予感していたが、実際に入室してきた者の姿を見て唖然とした。
キャメルブラウンのジャケットの下には柔らかな素材の淡いダスティピンクのシャツ。アイボリーの細めのパンツの裾からは、同色の革靴が覗いていた。
 そんな野村の盛装を目の当たりにして、沢口は何事かと思う。
 何より驚いたのは、その脇に抱えている大量の赤いチューリップだった。
 まるで、プロポーズにでもやって来たかのような姿に、沢口はただ驚いて野村を見つめた。
 フロントとテンプルにグレイのメタルを使用したサングラスを外してから、野村は沢口に挨拶をよこしてきた。
「よう。元気だったか?」
 その言葉に沢口は呆れた。
 久し振りの再会なのに、第一声がこれか……と幻滅する。
「元気じゃねーからこんなところに閉じ込められてるんだろ?」
 ベッドに座っていた沢口は、そう応えてから渋い表情で俯いた。まだ苦痛が時折沢口を苛んでいた。
 足音がベッドに近づいてくる。
 傍に体温を感じて見上げると、野村はベッド脇に腰かけて花束を渡してきた。
 半ば押しつけられるように渡された沢口は、真っ赤なチューリップに埋もれながら、今では懐かしいとさえ感じる野村を陶然と見つめた。
 返される視線が、優しくて切なくて、押さえ込んでいたはずの感情を押さえ切れなくさせてしまう。
 沢口は、また以前と同じように、以前とは違う理由で、赤い花弁にぱたぱたと音を立てて涙をこぼしはじめた。
「俺は……おまえが好きで……」
 感情に痛む体が悲鳴を上げていた。
 そんな沢口の想いに触れて、野村はまた切なくなってしまう。
 今まで、互いの立場を知っている以上は、無理を通す事は出来ないと、自分に言い聞かせていた。
「おまえは提督を愛しているだろう。おれなんて、取るに足らない……」
 まるで、沢口の真実を試すように、または自嘲するようにあるべき事実を突きつけた。
 野村の指摘に、沢口は苛立ちさえ覚えて、花束を抱く腕に力が入る。
「整理したんだよ!」
 野村の言葉を遮るように沢口は訴えた。
「死んだって聞かされて、苦しくて辛くて、忘れなければならなくて、おまえに縋って。……やっとの思いで気持ち切り替えて。そしておまえを好きになっていた」
 視線を逸らしたまま、あってはならない自分の想いを口にする。
 野村は黙ってその想いを受け止めていた。
「気持ち整理して、俺の気持ちはおまえに向かった。おまえを大切に思った。決しておまえの重荷にならないように、それでも、ずっと大切にしようと思った」
 苦しかった心情を吐き出して、沢口は止められなくなる。
「――そんなに何度も切替えが利くかよ!」
 悲鳴が涙と共に体の奥からわき出てきて、それは取り返しのつかない思いを告げた。
「彼に逢って、本当に嬉しかった。だけど、違うんだ。……前とは違う」
 野村は、突然の告白に驚いたまま、何も返せなくなっていた。
「俺が、変わってしまった……」
 悲しみに咽びながら切々と訴える沢口に、野村はどう仕様もなく感情を乱される。
 それでも、ふたりの思いに歯止めをかけていなければ、深みに嵌って全てを壊してしまいかねない。
 野村は、杉崎を一途に愛してきた沢口の思いを大切にしたかった。
「――それでも、忘れる事だけは出来なかったんだろう?」
 野村は、感情に流される事なく、沢口に向かった。
 そんな冷静な言葉は、沢口の思いをそっと包んで、その胸の中にふたたびしまいこんだ。
「愛情は変わらないはずだ。形を変えても、おまえの中には提督を想う気持ちがある。無条件で彼を好きで、例え傍にいなくても、おまえの中で彼は生き続けていた」
 忘れられない想いに囚われて、悲しみに暮れる沢口を知っていた。
 それがあまりにも辛そうで、野村はぽっかりと空いた空洞のような沢口の心を埋めて、崩れてしまわないように支えてきた。
 沢口の心情を分かっていて、野村は背中を押す。
「あのひとがいないとおまえはダメだ。弱くて……おれにさえ縋って来る。らしくないだろ?」
 どうしようもない喪失感と孤独に耐えられなかった。
 悲しみに呑まれないように、自分を支えるために、沢口は差しのべられた手に縋るしかなかった。
「変わってしまったなら、あたらしく関係築いたっていいんじゃねえの?前と違う形で、愛情育めばいいじゃん。本当は別れたくないんだろうし……」
 裏腹な想いはどうにもならなくて、身動き出来ないまま内に押さえ込んでいた。
 本来在り得ない感情の混乱が、沢口に対してストレスを与え続ける。
 そのストレスが蓄積して、沢口は体調を崩して倒れてしまった。
 戻ってきた杉崎だけを愛さなければならないのに、会えない野村を想い続けて、求める感情は育ち過ぎた。
 そして野村も、杉崎との仲を願っていながら、本当は沢口に惹かれ続けている自分に気付いた。
 式典の会場で自分に向けられた縋る視線が、感情を自制していた箍を外した。
「昔……おまえが一本気なヤツだって、立川さんが言ってたっけ」
 一人しか愛せない。
 外に心を許すのは、浮ついた悪徳だと思っている。
 そんな在り方を目の当たりにして、野村は実感していた。
「ホントにその通りなのな」
 野村は愛おしそうな視線で、沢口の涙を指先で拭いながら、居心地の悪そうな顔を見つめる。
 沢口は、不実な感情だと知りながらも、どうしても忘れられない存在になってしまった野村を失いたくはなかった。
「おまえは、そうじゃないんだな……」
 沢口の指摘に胸が痛む。
 野村には、実際にふたりの恋人がいて、それなりの関係を続けている。
 沢口にとっては、自分は随分と浮ついた男なのだろうと思う。
 質問は、的を得ているようで、そうではないようで……。多分、この感情を沢口に伝えようとしても、理解してはもらえないだろう。それでも、今の混乱を整理出来たなら、少しは理解してもらえるのだろうか。
 あまりにも似すぎている自分たちの境遇によって、今になってはこの関係が偶然だったとは思えなくなってきている。
 野村は、少しだけ自分の感情に居直って、不埒な在り方を責める沢口を誘惑した。
「――聖には多情だと言われるよ」
 囁きで返してから、野村はキスを贈った。
 肩を抱いて、腰を抱き寄せて、唇を寄せて、抵抗出来ないままそれに応える沢口を愛した。
 さらりとした沢口の指先が、髪と頬に心地よく触れてくる。その想いに応えるように、野村はより深く情を注ぐ。
 愛とか恋とか独占欲とか……。
 自分たちの間には、そんなしがらみなど存在しないと思っていた。
 それでも、互いに惹かれあって、求め合う情熱は隠しようもない。
 ふたりは初めて、その感情が『恋』だと知った。



 深夜に、病室に忍び込んだ野村に連れ出されて、沢口は病院を抜け出した。安静を強いられて、しばらく仕事をするなと言い渡されていた。
 ストレス性の症状は、安静だけで改善するらしい。
 それなら、楽しんだほうがもっと早く良くなるはずだ……と、野村は外出を持ちかけた。
 真面目な沢口は無断外出は規則違反だと主張したが、入院する度に外泊三昧の野村はそんな沢口の生真面目ぶりを笑い飛ばして、沢口を強引にさらって逃避行を決め込んだ。
 車を飛ばして南へ。
 州を越えてから、空港に車を置いて、さらに南へと飛行機を乗り継いで、小さな環礁が散在する珊瑚礁の島へと辿り着いた。
 手ぶらでやってきた南の島は、観光客もまばらで、静かでゆっくりと流れる穏やかな時間が、ふたりをやさしく迎えてくれた。
 背の高い熱帯植物に囲まれた、海沿いの別荘を借りて、生活に必要な備品や備蓄食糧を買い出して、ふたりだけの住まいを整えた。
 思いつめていた沢口の感情は、ふたりきりに戻る事によって落ち着きを取り戻して、ふたたび野村へと向き合う。
 慣れない手つきでする食事の用意も、ふたりでなら楽しいと思えた。
 簡素な食事とボトルに入ったままのビールでも、どんな晩餐会よりも贅沢な時間を過ごす事が出来る。
 真新しいシーツをベッドに広げているうちに、そのまま求め合ってすぐにベッドを乱す。
 夜通し愛し合っても、朝になるとまた欲しいとねだる沢口の甘えには勝てなくて、野村は沢口の想いに平伏した。
 すっかり馴染んだ身体は心地よくて、今の自分にとっては、沢口とのこの関係が一番大切にしたい時間なのだろうと感じていた。


 昼過ぎになってから、海に面したウッドデッキにテーブルセットを持ち出して、外気浴を楽しんだ。
テーブルを前にして、木製の椅子を並べて座る。
 穏やかにそよぐ海風が肌に心地よくて、時間すら止まってしまったようなこの静かな場所で、ふたりで過ごす幸福に陶酔させられる。
 椅子に腰かけて海を眺めながら、携帯で誰かと話していた沢口は、重く沈む表情を隠し切れないまま通話を切った。
 逃げ出してから二日経った。
 今頃はきっと、関係者一同が大騒ぎしている頃だろう。
 ふたりとも、携帯の電源は切ってある。沢口はふたたび電源を切って、テーブルに放った。
 日常と完全に遮断された非日常のなかで、野村は沢口の思いを確認したかった。
 倒れてしまうほど思いつめて、自分への感情に悩んでいた。
 無理を承知で、こんな田舎の小さな島にまで追いてきてしまう。
 そんな沢口の一途な想いを、野村は愛しくて守りたいと思う。それは、橘に対する感情とも似ていながら、衝動を止められない情熱を秘めていた。
 たとえ、それが一時の感情だとしても、だからこそ今はそれに従いたいと思った。
「俊くん……おじさんとつきあわないか?」
 それは、以前沢口が野村に告げた言葉と同じだった。
 妙に落ち着いた口調で、沢口はからかわれているのかと思う。
 海を見つめたままの野村の横顔が、穏やかに微笑んでいた。
「――んなコト、本気で言ってんのか?」
 沢口は居心地が悪くなって、ぽっちゃりとした唇を水鳥のくちばしのように尖らせた。
 野村は、沢口を見て思わず口元をほころばせた。
 その表情が可愛いと思える自分のイカレ加減が、恋愛の末期症状だと自覚する。
 やわらかにカールする髪に触れて指先で梳いた。
 慣親しんだ指先とは違う体温が髪の奥に届いて、沢口の不埒な快感を刺激する。
「ジロさんに…………」
 切なさを伝える表情が、裏腹に歯止めを匂わせた。
 ギャラクシア艦隊の杉崎次郎。
 彼が一体どうしたと言うのか。
 野村は一瞬理解出来なかったが、すぐに彼が杉崎の実の弟だという事を思い出した。
「相談した事があって」
 沢口にとって、次郎がジェイルに立ち寄ったあの時は、もう後戻り出来ないまでに野村に惹かれていた。
 野村は、まずい事があったのではないかと予感する。
 沢口は次郎に何を云ったのか。
 野村は内心怯えていた。
「――好きな関係つくれって言われた」
 途中経過を全てパスしての結論に、野村は唖然とした。
 仮にも実兄の恋人に、不倫を推奨するとは信じられない。
「カレシでも……セフレでも……。後は、バレた時の言い訳考えとけって」
 好きにしろと大らかな回答を得ていながら、沢口の感情は沈んでいる。
 野村は沢口の次の言葉を黙って待っていた。
 沢口はなかなか口を開かなかった。
 たったひとり。
 外には何もいらない。
 ずっとそう思っていた。
 本当にそう思っていたはずなのに、失った途端に傍にあるぬくもりに縋ってしまった
 そのぬくもりが、献身的に自分を支えてくれていた。
 その大切な人に対しての熱い感情が、悪い事だなんて思いたくない。
 今になって、沢口は悔しかった。
「――言い訳なんて……したくねぇ」
 歪む唇から震える声が零れ落ちて、潤んだ瞳が豊かな長い睫毛を濡らす。
 不道徳とか不貞とか……。そんなふうに自分が認めてしまう事が許せない。
 視線を落としてまぶたを閉じた瞬間に、沢口の膝に涙が染みをつくった。
 そんなあえかな姿を目の当たりにした野村の中に、沢口への愛しさがあふれてきて、その肩を抱き寄せた。
 肌に触れる髪まで愛おしくて、そっと頬で撫でる。
 青が交わる遠い水平線を眺めているうちに、胸が切なさで満たされて、野村はため息をついた。
 フェニックス艦内で、ふたりは密接に関わって懇意にしていた。
 その仲をクルーの殆どが知っていて、ふたりの関係が外に洩れない訳がないと思える。
 なのに、周囲の環境は静かで、いつも理由をつけてはなんだかんだと構ってくるフェニックス戦闘機隊の副隊長たちでさえ、干渉してはこなかった。
「それ以前に、誰にも責められない。……どうしてだろうなあ?」
 静かな波と風がそよぐ音だけが聞こえる。
 沢口の耳に触れる野村の身体から、直接声が響く。
 それは、いつもより甘くやわらかな音に聞こえて、傍にいる事を実感して、沢口はあたたかなしあわせに包まれた。
 ニルヴァーナ出征に関しての事実は、そっと触れられずに封印されている。
 自分たちの関係までも、その範疇だったかと野村は疑った。
 例え女性士官たちの応援があろうとも、事の発端が指揮官暗殺にまつわる事件だったために、それとともに『無かった事』にされたのか……とも考えられた。
「そっとしておいてくれるのは、有り難いんだけどね」
 穏やかな声に引かれて、沢口が野村を見つめた。
 野村は視線で応える。
「――好きな関係つくれるから」
 思いつめていた沢口の表情がやわらいでいる事に気付いて、野村は悪戯っぽく笑って見せた。
 沢口は、その笑顔に骨抜きにされる自分が、素直で愛しいと思えた。
「どうしたい?」
 野村は沢口に訪ねた。
 こんな状態で、全てに背を向けて存在している自分たちは、今度こそ後戻りは出来ないと覚悟を決めていた。
「おまえに……溺れたい」
 正直に応える表情が誘っている。
 野村は、もう抗えないほどに、沢口に惹かれている事を自覚して、艶然と沢口を見つめ返した。
「壊れてみようか?」
 すでに溺れ過ぎた感情で冷静な判断力を欠いては、自分たちは壊れかけていると思える。
 愛欲に溺れて早死にしたくないと主張していたはずなのに、愛だけで戦い抜く事が出来る事を実証してしまった。
 野村は、自分の矛盾した在り方を認めた。
「それで……言い訳も成り立つから」
 囁きながら沢口に唇を寄せて、柔らかな感触を楽しんだ。
 暑い環境に反して、思いの外冷たく感じる唇によって、少しだけ現実に引き戻される。
 自分たちの立場では、本当は公私共に奨励される関係ではない事など重々承知の上だ。
 それでも、これからはふたりのやり方で、ふたりの関係をつくっていこうと思う。ずっと支えて、沢口を守っていけるなら、万年戦闘機隊隊長でもいいと思えた。
 ジェイルを旅立ったあの日。
 沢口の漢気を見た。
 聖とギャラクシアを救いたかった野村の思いを真摯に受け止めて、無謀とも云える行動で思いを示してくれた。
 決定的に惚れるには、あの事件だけで十分だった。
 途中、喘ぐようにキスから逃れた沢口の表情に、野村の情が直撃された。
 どこからどうみても可愛くて、色っぽくてたまらない。
 末期症状に侵されている野村は、沢口のギャップに奮い立たされてしまう。野村は両手でしっかりと沢口を抱きしめた。
 今では、鍛えられて厚くなった胸板が、沢口に安心感を与えるようになっていた。
「――こんな爽やかな環境にありながら、申し訳ないんだけど……」
 野村は遠慮がちに申し出てみた。
「抱かせて……」
 耳元で甘く囁かれて、沢口は赤くなって俯いてしまった。
 それが初々しくて、余計に野村の情を煽る。
ベッドでは大胆なテクニシャンが、ベッドの外ではまるで乙女のようだ。なんとなくそんな純情な反応が気になった。
「おまえ……交際ってしたことある?」
 野村の質問に、沢口は狼狽した。
 男女交際でも男男交際でも、その経験が危ぶまれる。
 野村は薄々感づいていた。
「……よく、分からない」
 消えいるような声がなんとなく痛々しい。
 仮にも、存在しているパートナーとの付き合い方が、何だか疑わしい。
「あのひととは、どんなふうに会ってるの?」
「互いの……部屋に行ったり。仕事で、少し逢ったり……」
 ぽつぽつと話す沢口の事情を聞かされて、野村は唖然とした。
 少なくとも、懇意にしている仲間のプライベートな付き合いの場でもしばしば顔を合わせていたので、まさかそんな隠れた付き合い方をしているとは気付かなかった。
 今思えば、確かにふたりは他人行儀で傍にいることなどなくて、明らかに連れ合いだとか分かるようなそぶりは見せなかった。
 沢口は、どちらかと云えば橘か立川と共にいることのほうが多かった。
「隠してたのか?」
「公には、出来ないっしょ?」
 それではまるで日陰者だ。
 ずっと陰で付き合って、互いの住居でしか会えなくて……って、なんなんだ!?と、野村は沢口が憐れになった。
「――おれは、遠慮しないから」
 自分はそんな思いをさせたくないという想いが、野村を強く支配した。
 野村の突然の宣言に、沢口は何事かと思う。
「ふたりでいろんなトコに行こう。ふたりでいる事を楽しもう」
 顔を合わせて、誓うように言葉を紡ぐ。
「今だって、こんな南の島で楽しんでいる」
 穏やかに微笑みを浮かべて、囁くように想いを向ける。
 そんな野村の優しさに触れて、途端に頬に赤みがさして沢口の表情が輝き出した。
「俺、旅行なんて……。初めてだったんだ」
 沢口が野村に応えた。
 はにかみながらも、歓びの感情を訴える沢口の姿に、野村はさらに愛おしさを育てる。
「おれもだ」
 ふたりは例えようのない幸福感に酔って、互いに見つめ合って互いの思いを確認した。
 そして、おもむろに立ち上がって、野村は沢口に手を差し伸べた。
「昼真っから溺れるのも……特権だろ?」
 野村の誘いで、本気だったのかと沢口は実感した。
 ふたりで、太陽の下で、誰に気遣う事もなく愛し合える。
 そんな休暇の過ごし方は、ふたりにとっては病みつきになりそうな予感があった。
 罪悪感とほんの少しの優越感とが入り交じった不埒な快感は、蜜のように甘い。
 全てを舐め取ってしまうまでは、正気に返る事などないだろう。
 サラリとしたシーツのベッドに上がって、ふたりは互いに服を脱がせ合って、もどかしそうに合間に接吻を交わす。
 強く抱きしめ合って、そのぬくもりがもたらす昂揚感と幸福感からは、もう離れられないとさえ思える。


 今のふたりには、ふたりだけでいるこの世界しか見えなかった。




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あきゅろす。
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