終焉の時はなく
HEAVEN1
漆黒の闇の中を漂うひとつの『意識』があった。
ときに浅く、ときに深く、さながら水草のように揺蕩うそれは、世界の不文律が示す『実存』を求めて彷徨い続けていた。
一体どれだけの時が経ったのか、感じる術もない。
ひとつだけ認識できる事といえば、自分は傷ついた肉体を捨て意識だけの存在となったはずで。
たった、それだけの事なのだと、感情は無に帰す。
なのに、時折、失ったはずの記憶が断片的に甦り。呼び覚まされた感情は、失った者たちを想っては、深い哀しみにとらわれ、後悔の念をつのらせて。それは、全身の痛みを伴い、捨てたはずの肉体の存在すら思い出させてならなかった。
1.HEAVEN
「心拍数安定しました。循環良好です」
「血圧正常」
「脳波は?」
「異常ありません」
意識の中に、『声』が割り込んで来る。
その声に重なって無機質な機械音が響いていた。
「じゃあ固定液抜いて」
「はい」
声の主の操作によって、感覚が突然の冷気を知覚して、自らの肉体の存在を自覚した。
それと共に呼吸が誘発され、肺胞のすみずみまでが清浄な空気で満たされる。
「自発呼吸開始、サーチレーション良好です」
「うん、いいね。固定液が乾いて問題が無ければ、モニター外して移床して……。覚醒したら知らせてくれ」
「わかりました」
様々な感覚が蘇っていながら、意識はまだぼんやりと頼りなくて。
眠りを妨げる声を疎ましく思いながら、意識はふたたび深い闇のなかへと引き込まれていった。
ふたたび眠りから目覚めたとき、自分の五感が完全に機能していることに気付いた。
感覚器を通して入ってくる情報に、すぐには適応できず、現在の環境に疑問を抱く。
ベッドに横たわったまま、周囲の清潔な白い壁をぼんやりと眺めていると、その視野に、ドアを開けて入室する白衣の人物が現れた。
いかにも学者風の、自分の外見には頓着しない在り方が見てとれる。不揃いで寝癖すら残っていそうな髪が、額から目元まで覆って縁無しの眼鏡にまでかかっている。清潔そうではあるが皺になった白衣は、むしろ彼には似合っているようだ。両手を白衣のポケットに突っ込んだまま、彼は傍に近寄ってきた。
「杉崎志郎さんですね?」
初対面なはずの白衣の人物が尋ねてきた。疑問を抱いたまま、その人物に答える。
「はい」
「御気分はいかがですか?」
「普通です」
杉崎の抑揚のない声と、微動だにしない表情が、その人物の苦笑を誘う。
「あなたが冷静な方で良かった。鎮静剤の必要はなさそうだ」
彼は、ベッドサイドに椅子を引き寄せて、腰をおちつけて話し続けた。
「……ですが、随分と猜疑心をお持ちのようですね」
杉崎は無言のまま、相手の出方と状況を探る。
「ご安心ください提督。わたしは軍関係の者ではありませんし、ましてや敵でもない。わたしは、このセンターのメディカルスタッフで、佐伯といいます。よろしく」
佐伯の他意のない微笑みが、杉崎の警戒を少しだけ解除させた。
「起きてみても構わないか?」
初めて意思を伝えた杉崎の希望を、佐伯は快く受け入れた。杉崎の意識の変化を知って満足する。
「ええ。……ただ、今は上半身を起こすだけにしてください。循環機能がまだ十分ではないでしょうから」
佐伯の指示を受容し、ゆっくりと上体を起こすと、杉崎は深く息をつき、体のバランスを確認した。
一瞬の軽い眩暈を感じたが、それはすぐに消失して全身の感覚を取り戻す。
「訊きたいことがある」
「……でしょうね」
杉崎の申し出を、当然の事のように受け入れる。その姿勢によって杉崎の疑問は少しずつ確信に変わりつつあった。
「ここは何処だ?俺は何故助かった?他の生存者は?」
「ちょっとお待ちください。そんな一遍に質問をいただいても」
突然豹変した杉崎は、切羽詰まったように質問を向ける。佐伯はいささか困惑して、それを制した。
「俺だけが生き残っても……。俺は」
哀しみに歪む表情が、さらに佐伯を困惑させる。彼は浅く息を吐いて、杉崎に告げた。
「御期待に添えなくて非常に残念なのですが。俗っぽい言い方をすれば、実はあなた自身も亡くなっているのです」
杉崎は言葉を失った。
確かに「亡くなった」と聞こえたが、気のせいかとも思えた。
「圧倒的に戦力と物量の差があった。辛い戦いだったのでしょう……」
佐伯の表情は、杉崎に憐情を向けている。
「では、自分は‥‥。戦死してあの世に来たとでも?」
「ええ。ご理解の早い方で助かります。ここは、地球圏に生きる人類の第二の故郷。惑星HEAVEN。……傷ついた肉体を捨て、意識生命体へと進化したあなたの魂は、HEAVENに導かれてここにやって来たのです」
杉崎は、唖然として佐伯を凝視した。自分の揶揄を含んだ質問に、こんなとんでもない答えを返してくるとは、尋常な精神とは思えない。杉崎にふたたび猜疑心が募る。
その疑いの眼差しに、佐伯は居心地の悪さを覚え、困惑した面持ちで訊ねた。
「信じていませんね」
「当然だ」
杉崎の表情は、明らかに怒りをたたえている。
佐伯は更に困惑した。
ふたりの間には、陰湿な空気が流れていた。
「わたしは事実を話しているつもりなのですが」
「事実?……一体、その話の何を以て事実と云えるのだ」
「あなた、わたしが話している事を、蔑んでいませんか?」
「いや。感心はしている」
険悪な空気が室内に充満する。
しばしの沈黙のあと、彼は気を取り直して再び説明を始めた。
「規定がありますので、続けさせてもらいます」
「どうぞ。それが終わらなければ、解放してもらえないのでしょう」
杉崎の皮肉めいた対応に、彼はピクリと眉を歪めた。
この男は、まだ30を過ぎたばかりの若さで、エリートコースを進んできた実力派だと聞いていたが、年に合わずなんて頑固なのだろう。
彼はそう思いながら説明を続けた。
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