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初恋迷路
3
終が泊まりにきた次の日は、必ずいつもより早めに家を出る。まだ寝ている終にメモと朝食を残して、いつもより一本早い電車に乗った。
この誰もいない教室で朝練してるのを見たり小説を読んだりするのが、俺のささやかな学校での癒しの時間だ。
足音もなく教室の扉が開く。委員長かな、と反射的にそっちを見たのが間違いだった。


「奏十くんじゃん?久しぶりだねえ」

「……お久しぶり、です。飯田先輩」


到底癒されそうにない不快な声が教室に響いて、俺の意識は一瞬で考えるのをやめた。手に持っている小説のあらすじが真っ白な中に沈んで消えていく。

名前を口にした途端、あの日の記憶が蘇ってくる。今まで忘れられていたのに思い出すのは一瞬だった。
飯田先輩はそれに気付いているのかいないのか、前と同じように笑顔を向けて近付いてくる。
それは俺の上で見せたものとあまりにも似ていて、不快感と僅かな吐き気に支配されていく。あの日の部室のにおいがした。


「元気そうだねえ?」

「そう…ですか……?あんまり…変わらない、ですよ…」

「奏十くんが辞めてから部は元気じゃなくなったけどねえ……ああそうだ、終くんは元気?最近そんなに話してないみたいだけど、君たち仲良かったよねえ?それともあれで仲悪くなっちゃった?」


飯田先輩の口から溢れてくる言葉を理解できないまま、だんだんと声が遠くなっていく。息が不規則になって苦しい、心臓が痛いくらいはやい、これを伝えられたら、先輩はどこかへ行ってくれるのだろうか。


「奏十くん?聞こえてる?」

「……っ、はい…すみま、せん。仲は…悪くはない、です」


かろうじてそれだけを絞り出して、会話を作り出す。誤魔化されないことは分かっていた。でも俺の声は意思を無視しようとするから、僅かに意識と繋がっている場所を探すので精一杯になってしまう。


「終くんさ、また戻ってこれないかな」


目を伏せて、困ったように笑うこの人は終が小学生のときから好きだった水泳を辞めたのが、どういうことか分かってない。自分がなにをしたのかも、分かってない。
ブレザーのポケットに入れている携帯が震える音がした。それを合図に俺の意識は朝の教室に戻る。そこには数人のクラスメイトがいたことに、今初めて気付いた。


「……人が増えてきちゃったね、この話はまた今度しようか。終くんと直接話せたらいいんだけど…ああ、そうだ、……奏十くん」


風が窓から入ってきて、小説のページを勝手に捲った。それを止めたのは飯田先輩の手で、それに気付いたときにはすでに、視界は影で染まっていた。


「俺の番号まだ消してないよねえ?」


今までより低く、小さく囁かれた声は確かに振動になって耳に入ったのに、返す言葉が見つからない。動かない口の代わりに、反射のように頷くことしかできなかった。
飯田先輩はそれで満足したのか、すっと離れて手を振りながら別棟にある教室へ帰っていく。姿が見えなくなって、やっとのことで息を吐き出す。部室のにおいはもう消えていた。

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あきゅろす。
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