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小説
花ニ祈ル。
  花ニ祈ル。

 泳げもせぬのに無理やり、流れの逆巻き飛沫の烈しい、冷たい暗い深い水底に投げ込まれ、そこから出ようとあがき続ける者の気持ち。―――今のオレの心境はそれに近いのではないかと、ピッコロは何度目になるやらわからぬ吐息をついた。
 
柔らかな下草の茂り始めた川べり。そこに均整の取れた長身の体躯を無造作に投げ出したピッコロの眼前には、春の柔らかな陽光が金銀の飛沫さながらにきらめく川が、穏やかに流れている。
 頭上で今を盛りと咲き誇る桜花は、春風がふく度、その薄紅色の――陽射しの加減によっては純白とも見える――花びらを、惜しげもなくピッコロの胸元に散らすのだった。
 しかし、こうした長閑な眺めも、今のピッコロには何の慰めも感動ももたらさなかった。むしろ春先の心湧き立つような風物の一つ一つが、己の現在の境遇の惨めさを引き立たせる小道具のように思えてきて、いっそう気が滅入ってくる。

 父たるピッコロ大魔王の復讐を果たすべく、第23回天下一武道会に乗り込み、宿敵・孫悟空と戦ったのは、この少し前のこと。
 …と言えばもっともらしく聞こえるかも知れないが、父親の怨念と世界征服の野望、断末魔の苦しみの中から生まれ、悟空への怨嗟だけを糧に生きてきた魔族のピッコロである。
当然、悟空との戦いが「正々堂々」の形容を冠せられるものになる筈もなく(悟空はあくまでもフェアであったが)、考えうる限りの奸智、狡知を駆使し、なしうる限りの悪辣な手を繰り出したのだが、結果は惨敗。悟空のフェアプレイ精神から仙豆を分けてもらい、捨て台詞を残してその場から逃走することだけは叶ったものの、この一連の流れが何の自慢にもならぬものであることがわからない程、ピッコロはバカでもめでたくもない。
「くそったれ……」
 誰に聞かせるでもなく呟き、胸元を優しく飾った薄紅の花びらを、乱暴に払いのけた。
 なんだかんだで父親に似たのだろう、ピッコロの意志力は相当に強靭であるし、プライドも高い。常こそ冷ややかさと傲岸さで本心を鎧っているものの、本来の気性は苛烈である。
 しかし、それをば生き甲斐としてきた、父の怨念を晴らすことが出来ず、どころかその宿敵に情けをかけられて逃亡…という、人生初にして最大の挫折を経験したばかりのピッコロ。
 そんなピッコロが落ち込むとまではいかずとも、常の冷笑的かつ攻撃的な態度を少しく改め、己の来し方、現在、そして行く末を案じてみようという気になったのを、果たして誰が責められよう。
 …ピッコロの視界を、薄紅の花びらがひらひらとよぎった。
 そもそも、とピッコロは考えた。
 ―――先の戦いでこそ無様な敗北を喫したものの、己の格闘センス、何より闘志が孫のヤツより下であるとは、オレは決して思わん。これならばヤツに勝てると確信が持てるまで、更なる修行を積めばそれで済むことだ。が………。
 ピッコロの眉間の皺が、いよいよ深くなった。
 ―――オレを悟空との決着に駆り立てる、その根底にある一念が「父の復讐」というのは。果たしてこれで良いのだろうか。
 …この世に生を受けてから四年にも満たないピッコロであるが、「復讐」という行為が負の激情に起因するものであること、その結果が美しく発露するのが極めて稀であることは、漠然ながら分かっている。その無益かつ空虚な行為のために、己の人生を費やするのは、どうにも賢明な選択とは言いかねる気がするのだ。
 かてて加えてピッコロは、己に「復讐」を託して逝った父の顔を、もはや鮮明には思い出せない。
 父の断末魔の、
『……いつの日にか父の怨念を晴らしてくれ……』
 という言葉こそ覚えてはいるものの、それが己にじかに「言葉」として投げかけられたものなのか、父の記憶を受け継いだ際、単なる「思念」として流れ込んできたものなのか、それすら判然としない。
 顔を思い出すこともままならず、父子(おやこ)として接した時間に至っては皆無の「父」。自然、その「父」の為に是が非でも「復讐」を果たさなければという思いは、希薄なものとなる。
 とは言い条、これから先、自分がどう生きてゆけば良いのか、どう在るべきなのか―――それは一層わからない。
 ―――ただ……………。
 胸元に散りかかる花びらを払いのけようとした手を、ピッコロは止めた。

『……いつの日にか父の怨念を晴らしてくれ……』

 父の断末魔のこの言葉。
 目下のところピッコロが記憶しているのは、それ以上でもそれ以下でもないのだが、乏しい記憶を辛うじて辿り、辿りしてみると、どうにもこの言葉には、前後各々に続きがあったように思われる。
 優秀な頭脳と、合理的過ぎる程に合理的な判断力を有したピッコロは当然、感傷に浸る性質(たち)でも、心の繊細な旋律を愛でる文学青年(少年?)でもない。
 が、父のこの言葉。この言葉を全きまでに思い出す、あるいは知ることが出来たなら、それは今後の己の人生にとっての、大いなる指標となるだろうと、ピッコロは思っていた。半ば確信に似た思いだった。
 …というワケで、春爛漫の花の下、数日前からピッコロは「己の行く末」「父の言葉」について思索をめぐらしているのである。それがいっかな実を結ばずにいるのは、その精悍に整った顔が、この上ない不機嫌さで曇っていることから、一目瞭然なのだが。

「くそったれ………」
 にっちもさっちもいかなくなった際の、半ば口癖と化している言葉を再び口にし―――ピッコロはかすかな身じろぎをした。土手の彼方からこちらに近付いてくる、小さないきものの気を感じたので。
 案にたがわず、程なくしてその「いきもの」はピッコロの視野に現れた。
「……人間のガキか」
 件の「いきもの」の正体を認め、ピッコロはさして興味もなさげに呟いた。
 ピッコロにとって当人言うところの「人間のガキ」は、別段珍しいものではない。何の因果か知らないし、また知る気もないのだが、物心ついて以来ピッコロは――大人たちからはその異形、気性を忌避され、恐れられ続けてきたのだが――子どもに声をかけられ、遊んでくれとねだられることが少なくなかった。しかもいよいよワケがわからないことなのだが、天下一武道会の敗北以来、その傾向は強まっているように思われる。
 世界征服の野望を抱く大魔王の後継者としては至極当然の思考パターンと言えるが、ピッコロは「人間のガキ」が嫌いであった。嫌いというよりは、冷ややかに無関心であったと言った方が、正しいかもしれない。
 が、ピッコロが「遊んでくれ」という要請をにべもなくはねのけると、子どもたちは決まって悲しそうな、淋しそうな顔をした。中には泣きだす子もいた。
 …ピッコロは「人間のガキ」が嫌いであったが、その「人間のガキ」が自分のせいで泣いたり悲しい顔をしたりするのは、どうしたワケか、もっと嫌いであった。心の奥がじわりと、だが確実に抉られるような痛みを、そんな時ピッコロは必ず感じていた。
 というワケで「己の行く末」がさっぱりわからず、「父の言葉」が思い出せないピッコロではあったが、「人間のガキ」の扱い方、また彼らが喜ぶ、あるいは好む遊びの類(たぐい)については、客観的に見たなら相当通暁していた。…無論本人はこの矛盾に、全く気付いていないのだが。
 そうした苦い(?)経験のなせるわざであろうか、無関心を装いつつも、ピッコロの真紅の双眸は半ば無意識に、件の子どもの姿を追っていた。
年の頃は四つか五つ(つまりピッコロより年上)の男の子で、手には籐編みの籠を持っている。何やら急いで土手を下りようとしている風なのだが、その斜面の急勾配に足をとられ、どうにも動きが危なっかしい。それでもどうにか、ピッコロが寝そべる川べりに近付いてきたのだが―――。
「わっ」
 ちいさな悲鳴とともに降って来た薄紅色の物体によって、ピッコロの視野は束の間閉ざされたのだった。

 それからのピッコロは、ライバルの悟空が見ていたなら一瞬の驚愕の後、「へー、おめえって、顔はおっかねえけど、根はいいヤツだったんだなー」と、朗らかに笑いながら言うであろうことをしてのけた。
すなわち、己の顔面に降り注いだ薄紅色の物体――造花の桜だということが判明した――を文字通り、一つ残らず拾い集めたのである。川べりに散らばったものは無論のこと、衣服が膝下まで濡れるのも厭わずに川の中へ入り、水面(みなも)を漂うものまで回収した。
 そのようにして集めた薄紅の造花を両手で抱えると、泣いている男の子の眼前に、無言でそれらを突き出したのだった。
 こうした時、ピッコロは言葉をかけない。「子どもの機嫌は秋の空、猫の瞳よりも目まぐるしく変わる」―――ピッコロがその苦い(?)経験から体得した教訓である。
 案の定というか何と言うか、その薄紅の花々を見るや否や、男の子は涙の跡のくっきり残る顔を、小さな満月のように輝かせた。
「えっ、これ全部拾ってきてくれたの?!」
「…見てわからんのか」
「ありがとう!本当にありがとう、おじさん!」
 ピッコロにとってはなんとも不本意な呼称「おじさん」を連呼しつつ、花々を受け取る男の子。
「…おじさんと言うな。年は恐らくキサマの方が上なのだぞ」
「おじさん、『サナ姫様のお祭り』って知ってる?」
「…何かわからんが、キサマにオレの話を聞く気がないことだけはわかった」
「知らないんだったら教えてあげるよ。
それで、ぼくと一緒にサナ姫様にお祈りしようよ、ねっ」
 男の子のきらきら輝く、黒目勝ちの瞳にまともに見つめられ、やれやれという思いのピッコロは、それでも大人しく、相手の傍らに腰を下ろした。
 ピッコロが話を聞く構えを取ったと見るや否や、男の子は口を開いた。
「あのね、サナ姫様っていうのはね、春の女神様のことなんだよ」
「…フン」
「それでね、サナ姫様は桜の花が好きなの。
 だから今日―――『サナ姫様のお祭り』の日にね、この桜の造花を川に流して願い事をするとね、サナ姫様が願いを叶えてくださるんだ!」
「…それで、キサマはこの造花を持ってここに来たのか」
「うん!
 …でもぼく、急いでたからうっかり転んじゃって……それでお祭りのお花も落っことしちゃって……どうしようって困ってる時に、おじさんが助けてくれたんだよ。
 だからおじさん、一緒にサナ姫様に願い事しようよ。お礼にお祭りのお花、わけてあげるからさ。ねっ!」
 言い、男の子は一掴みの造花を、ピッコロに手渡してきた。ピッコロは少なからず困惑したが、ここで申し出を拒否したところで、己に何の利益もないことを悟ったのか。あるいはここ数日来の憂鬱な物思いを、束の間でも忘れることが出来たらと思ったのか、素直に薄紅色の花を受け取った。
 男の子が微笑した。

 それから二人は川べりにしゃがみ、『サナ姫様のお祭り』なるものを始めた。
 とは言い条、薄紅の小さな花を一つ一つ川に浮かべ、その度に両の掌を合わせ、祈りの姿勢をとる男の子を、ピッコロが黙って見つめていただけなのだが。
 …ややあって、男の子が造花のあらかたを川に流し終えた。その様を見やり、ピッコロは――珍しく自分の方から――口を開いた。
「願い事とやらが、出来たのか」
「うん!」
 男の子が力強くうなずいた。
「…何を祈ったんだ」
「えとね…。
 ―――駆けっこが早くなりますように。
 ―――夜、一人で寝れますように。
 ―――友達と喧嘩をしませんように。
 ―――好き嫌いがなくなりますように」
 ピッコロが苦笑した。
「サナ姫とやらも大変だな」
「まだあるよ。
 えとね。
―――家族みんなが元気でいられますように。
 ―――家族がそろってご飯を食べられますように。
 ―――お父さんの病気が治りますように」
 …ピッコロの顔色が明らかに変わった。
「…キサマ、父親が病気なのか」
 うん、と男の子は屈託なくうなずいた。
「西の都の病院に入院してるんだ。
今、お母さんと弟はそのお見舞いに行ってて、家にはおばあちゃんとぼくしかいないの。おばあちゃんは年とってるから、ぼくみたいに土手を上ったり下りたりできないでしょ。だからぼく、一人で『サナ姫様のお祭り』に来たの。
でもこのお花はね、ぼくとお母さん、おばあちゃん、弟と、みんなで作ったんだよ」
「…父親はなんの病気なんだ」
「前にお医者さんが教えてくれたんだけど、なんだかむずかしい名前だったから、ぼく覚えてない。お父さん、一年の半分くらいは家にいるんだけど、残り半分は病院にいるの。……ここ二年くらいはずっと、そんな感じ」
「………………」
 だからね、と男の子は言った。
「ぼく、お医者さんに聞いたの。―――お父さんの病気はいつ治りますか、って。
 そしたらお医者さんね、君のお父さんは今、一生懸命病気と戦ってるんだよって。だから君がその応援をしてあげたら、きっとお父さんもよくなるだろうって。
 だからぼくね、今日お祭りのお花をほとんど、お父さんの病気がよくなりますようにって、そうお祈りするのに使ったの。
 …ねえ、おじさん」
「……なんだ」
「これだけお花使ったんだから、お父さんの病気、きっと良くなるよね?」
「………………」
 ピッコロは無言のまま、手つかずにしておいた造花を、男の子に手渡した。
「…おじさん?」
「キサマの気持ちはありがたいが…。オレはこれを受け取るワケにはいかん。
 キサマの父親の病気が治るよう祈るのに、この花も使ってやれ」
 言い、ピッコロは立ち上がった。
「そんな!
 それじゃおじさん、願い事出来なくなっちゃうよ。せっかくのお祭りなのに!それにぼくのこと助けてくれたお礼も―――」
「オレにはこの花に託せるような願いはない。―――その資格もない」
 踵を返しかけたピッコロの腕を、男の子が掴んだ。
「…なんだ」
「待ってよ、おじさん!
おじさんの気持ちはすごい嬉しいけど……でも、このままじゃぼく、お母さんやおばあちゃんに怒られちゃうよ。おばあちゃんたち、いつもぼくに言うもん。―――助けてもらった人には、必ずお礼をしなさいって」
「キサマはオレを祭りに誘ってくれただろう。それだけで充分だ」
「で、でも…」
 男の子は言いよどんだ。が、それも束の間のことで、すぐにそのあどけない顔を上げた。
「だったらさ、このお祭りのお花、一つでいいから持っていってよ。
 それなら願い事することも出来るし、何よりこのお花、一つだけ持ってると、お守りになるんだって。おばあちゃんが言ってた。
 ぼくにはおじさんからもらったお花が、まだこんなにたくさんあるんだし」
 言い、ほんの一掴みの造花を示して、屈託なく笑う。
「だからおじさん、これ持っていって。ね?」
「………………」
 差し出された、掌のくぼみに収まってしまう程の、小さな、小さな薄紅色の造花を、ピッコロは無言のまま受け取った。その手がかすかだが震えているのが、自分でもわかった。
 ややあって、
「…色々、世話になったな」
 ピッコロは言った。その声も少しく震えていた。
 男の子が無邪気に応じた。
「ううん。ぼくの方こそ、お礼言わなきゃ。
 今日はぼく一人で『サナ姫様のお祭り』しなきゃならなかったんだけど、おじさんのおかげで一人じゃなくてすんだし、すごく楽しかったし!
 …ねえ、おじさん」
「…なんだ」
「ぼくたちまた会えるかな?それで、一緒にお祭り出来るかな?」
 ピッコロの精悍に美しい顔に差す翳りが、一段と濃くなった。
「…それはわからん。
 が、キサマの父親の病(やまい)が癒えるよう、オレは祈っている」
 ありがとう、と男の子が言い終えるか終えぬうち、ピッコロは踵を返し、歩を進めた。その歩みは次第次第に早くなり、しまいには疾駆になった。春風を孕んだ純白のマントが、ばたばたとはためいた。

「ちくしょう…………」
 どれほど走ったろう。人跡の稀な、森閑たる森の中。その木々の間に、ピッコロはうつ伏していた。
 先刻の子どもの父親の病状―――それが楽観出来ぬものであるということは、ピッコロにも見当がついた。
 何もかもが腹立たしかった。
 他愛のない「サナ姫様の祭り」とやらに父親の病の平癒を祈り、それを信じて疑わぬ、少年の一途さ、無邪気さが。
 その少年に近々下されるであろう、過酷な運命が。
 そしてその少年に、ひいてはその父親に対して、何もすることが出来ぬ、己の無力さが。
 ―――なにが世界征服の野望だ!なにが大魔王の後継者だ!
「ちくしょう……ちくしょう!」
 拳が闇雲に、下草を打ちすえた。柔らかな緑色の欠片が、ひらひらと宙を舞った。
 ピッコロの胸中を狂い回っていたのは、腹立たしさだけではなかった。―――ピッコロは明らかに嫉妬していた。
 先刻の男の子が、決して恵まれているとは言えない状況下にありながらも、その父親をはじめとする家族から、溢れんばかりの愛情を、信頼を手向けられていること。それが為、純粋さと共に強さを兼ね備えていることは、容易に察しられた。
 あの少年ならばと、ピッコロは思った。
 近々運命が彼に強いるであろう過酷な別離の為、悲しみ、苦しむことがあったとしても。
その心底(しんてい)の強靭さ、そして周囲から手向けられ、彼自身もまた周囲に与えるであろう情愛故に、きっとそれらの負の感情を乗り越えてゆくことが出来るだろう。ただ一度の敗北で、己の行く末を見失うという―――そんな無様な真似はしないだろう。
 家族に愛され、信頼され、必要とされているあの少年ならば。
 ……父親に愛され、信頼され、必要とされた子どもならば。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう…ッ!」
 拳が地を打つたび、木漏れ日の中を下草が舞う。その緑の欠片が滲んで見えるのは、金色の縦縞さながらの陽光の為だけではないだろう。
 ピッコロの拳から、不意に力が抜けた。
 ―――異形の己に心底からの感謝を手向けてくれ、無邪気に慕ってくれた、あの少年。
 その少年に故のない、理不尽な妬心を抱き、駄々っ子のように振舞っている今の己の姿は、腹立たしいを通り越し、いっそ惨めですらあった。
 常の彼に似ぬ、のろのろとした仕草で、ピッコロは身を起こした。そのまま下草に胡坐し、両腕を組む。
「…………………」
 当初の激情と混乱が収まるにつれ、それ故いっそう冷ややかになり、そして鋭さを増したピッコロの怒りの矛先は、ある一人の人物に向けられた。
 ……己の手前勝手な理由で、ピッコロの父たる半身を切り捨て。のみならず、その半身が苦悶と怨念に充ちた死を遂げるその様を、天界の神殿から平然と見下ろしていた、「神」に。
 考えれば考える程、今の己の境遇の惨めさの元凶は「神」であると、ピッコロにはそう思われてならなかった。
それが為、ここ数日来胸にわだかまる重苦しい鬱積、そこに先刻加わった理不尽な、自分でもどうしようもない激情―――こういった諸々の負の感情を晴らす為、今から神殿に乗り込み、「神」のヤロウに拳をぶち込んでやろうかと、かなり真剣に考えたのだが、止めにした。
 たかだか数発の殴打で、己の――父の代からの――怨念が少しでも晴れたと、「神」のヤロウに思われるのは癪だったし、よくよく考えればあんなヤロウには、拳で以て触れることさえ不愉快である。さりとてこのまま泣き疲れた子どもさながらに、こうして森の奥に一人うずくまっているのも、いよいよ癪である。
 さて何とかして、今の己の抱える鬱積、そしてその一端があのヤロウにあることを知らしめてやりたい。どうしたものか……と首をかしげかけたところに、ある考えが浮かんだ。否、「浮かんだ」というよりは、「思い出した」と言った方が適切であろうか。
 己の半身の死に様を、その一部始終を、神殿から見下ろしていた「神」である。ここ数日来自分を悩ませていた、「父の言葉」を、ひょっとすると覚えているかも知れない。
「父の言葉」―――これが、行く末を見失った己にとって、大いなる指標になるだろうということを、ピッコロはほぼ確信していた。―――これを「神」のヤロウから聞き出し、ついでに悪口雑言の一つや二つも投げつけてやれば、この鬱積も晴れようし、何よりあのヤロウも、自分の手前勝手な独断が、一組の父子の運命を大きく狂わせてしまったことを、少しは反省するか知らん。
そう結論づけたピッコロは、下草から立ち上がった。そのまま地を蹴り、蒼天の彼方にある神殿を目指す。―――常の彼の、俊敏さと力強さを宿した仕草であった。

請われも招かれもせぬのに、その精悍な美貌にあらん限りの敵意を浮かべ、神殿に乗り込んできた―――と見えるピッコロに対し、ミスター・ポポはあからさまな警戒の色を浮かべた。神殿の前庭で下界の様子を判じていた神の許へと駆け寄り、己が身を挺して、主をかばおうとする。
しかしながらピッコロの胸中は、ミスター・ポポが判じたより、遥かに複雑であった。
今から神殿で果たそうとする目的を、無論忘れたワケではない。だがその目的のうちの一つ――「神」のヤロウに痛罵を投げつけ、鬱積を晴らす――を遂行する意図は、下界を飛び出した頃と比し、確実に弱まっていた。
理由は明白だった。
神の顔を一目見るや否や、ピッコロは忘れかけていた父の顔を思い出したのだ。否、神の威厳溢れる荘重な面差し、仕草、声音、その一つ一つの中に、父の面影を見た―――と言った方が正しいのかも知れない。
―――「神」のヤロウが忌避し、切り離したとはいえ、半身は半身。オレの父と似ていて当たり前だ。オレは何を動揺しているんだ。
―――「神」のヤロウが取り澄ました聖者じみた表情をしてやがるのに対し、オレの父親が浮かべていた表情は、もっと寧悪なものだった筈だ。こんなヤツの中に、父親の面影なぞある筈がない。
―――それより何より、コイツはオレの父親を切り捨てた張本人なんだぞ……。
と、必死で己に言い聞かせはしたものの。胸中に清らな白光のように溢れた思い、それと共に口をついて出そうになる一言を抑え込むことは、ピッコロにとって決して容易なことではなかった。

『おとうさん』と。

 そんな己の弱さ――少なくともピッコロはそれを「弱さ」と判じた――を、彼は必死ではねのけようとした。自然、その態度は威圧的、そして攻撃的なものになる。
「おい」
 常より幾分か低い声で言い、ピッコロは神の許に歩を進めた。
 主を守ろうとする姿勢をいよいよ強めたミスター・ポポを、だが神は穏やかに制した。
「お前がここに来るとは珍しいな。
 どういう風の吹き回しだ、ピッコロ」
「誰が好き好んでこんな所に来るか。
 オレが今日ここに来たのは他でもない、この世界においてはキサマ以外知っている筈のない言葉―――それを聞きにきただけだ」
「…どういうことだ?」
 ピッコロの両腕が、神の胸元を荒々しくつかんだ。
「ピッコロ!
 神様に乱暴すること、ミスター・ポポ許さない」
「…良いのだ、ミスター・ポポ。
 ピッコロにはわしをこのように遇するだけの、十分な理由がある」
「でも、神様…」
 ピッコロが鼻で嗤った。
「フン…。キサマも少しは物わかりが良くなったじゃないか。
 が、安心しろ。今のオレにはキサマの身を害する気はない。第一そんなことをしても、父から受け継いだキサマへの怨嗟は晴れんしな」
「…………その言葉、というのは何のことだ」
「いい覚悟だ。
 今からオレ様が言うことを、よく聞いておけよ」
 ピッコロが不敵に嗤った……と思いきや、その語調が変貌した。
「キサマが『神』になるという手前勝手な理由で切り捨てた半身。その半身の断末魔の苦悶の一部始終を、キサマはここで、のうのうと見物していたんだよなあ!?
 キサマの半身―――オレの父が最期に遺した言葉を、オレ様に教えろ。半身の死に様を他人事のように、何の感慨もなく見下ろしていたキサマのことだ。知らんとは言わせんぞ!父親がオレに遺した言葉を、一語一句正確に言え!今すぐだ!!」
 …常人が聞いていたなら震えあがり、どころか腰をぬかしてへたり込みかねない程の、怒気、威嚇、憎しみを孕んだその言葉を、だが神は表情を変えることなく、静かに受け止めた。その様を己への侮蔑と受け取ったピッコロは、いよいよ声を張り上げた。
「どうした?!知らんとは言わせんぞ!!
 さっさと言いやがれ!!」
「……あれは、わしの半身は最期にこう言っておった」
 唐突に言われ、ピッコロの語調が明らかに揺らいだ。
「…なに…?」

「―――わが子よ、いつの日にか父の怨念を晴らしてくれ、悪念を晴らすな、と」

「…………もう一度、言ってくれ」
 しばしの沈黙の後、ピッコロが言った。その両腕はいつしか、神の胸元を離れていた。
 神がうなずいた。
「―――わが子よ、いつの日にか父の怨念を晴らしてくれ、悪念を晴らすな、と」
「……それで、全てか」
「うむ」
「……確かなのか、それは」
「うむ」
「わが子と、父は確かにオレをそう呼んだのか。………わが子、と。
 オレを、自分の子だと」
「そうだ」
「…悪念を晴らすなと、言ったのか。
 ……父はオレがその復讐を果たすことを望みこそすれ、オレが悪念に駆られて一生を費やすることまでは望んでいなかったと、こういうことなのか…?」
「その通りだ」
「………オレは」
「………………」
「…ならばオレは、父の悪念の実現の為の手駒……じゃなかった…のか?」
 神がうなずいた。深く。
「その通りだ」
「………オレは」
「………………」
「…たとえそれがほんの一握りであっても、父から情愛を手向けられていたと…………そう思っていい…のか?」
 神がその威厳に充ちた老顔に、穏やかな笑みを浮かべた。己が肩にかけられたその手を、ピッコロは払いのけようとはしなかった。
「ピッコロよ」
「……………」
「我が半身がお前に、親としての情愛を抱いていなかったならば、『わが子』との呼びかけをする筈はない。
 また、我が半身がお前の幸せを望んでいなかったならば、『悪念を晴らすな』の言葉も、かけはしなかっただろう」
「……………」
 唐突な仕草で、ピッコロが背を向けた。
 だがその刹那、名状しがたい激情にピッコロの精悍な顔が歪んでいたのを、神は確かに認めた。白いマントに覆われた広い背が、小刻みに震えていることも、無論。
 一陣の清風が、神殿の前庭を吹き抜けた。
 …ややあって、ピッコロが口を開いた。その口ぶりは常の傲岸な、皮肉な色合いを帯びたものであったが、神殿を訪なった当初の、刺すような敵意は消えていた。
「…つくづくオレは、厄介な運命を負って生まれてきちまったもんだぜ。
 腹の立つこと、忌々しいことは次から次へと降ってきやがるのに、わずかばかりの幸せは、一番最後にようやっと来るんだからな」
 そのままゆったりと、神殿のへりに歩を進める。
「…おい」
「なんだ」
 穏やかに、神が応じた。
「今しがたオレは、キサマから父の最期の言葉を聞いた。それで一つ貸しが出来たと思われたら癪だからな、その借りを返してやる」
 言い、懐中にあった薄紅の造花を、無造作に後ろに放った。ピッコロは知る由もないのだが、件の花を受け取った神は、その顔を明らかにほころばせた。
 …ピッコロが言葉を続けた。
「キサマも『神』を名乗る身ならば知っているだろう。
 人間が今日この日の祭りに用いる、あるいは守りにもする花だそうだ。大した価値のあるものでもないが、キサマが切り捨てた半身の『子』から借りを返されるだけ、ありがたく思え」
「うむ。
 お前のその思い、確かに受け取ったぞ」
「…フン」
 神殿のへりまで進めた歩を、ピッコロはやにわに止めた。
「おいキサマ」
「なんだ」
「キサマはどうせ今日も、いつもの伝で下界をのぞいていやがったんだろう。
 ならばオレが人間のガキに、何とか言う『祭り』に誘われたことも知っているだろう」
「…うむ」
「そのガキの父親の病気を治せ。
 そうすれば、オレが父から受け継いだキサマへの怨みを帳消しにしてやる……とまでは言わんが、いくらかは軽くしてやる。ありがたく思え」
 …なんとも滅茶苦茶な取引もあればあったものだが、神はそれに肯定の返事をした。
「そうか。それなら今日のところは引き上げてやる。
 ただ、キサマが今の話を反故にしてみろ、この忌々しい神殿をすぐさま廃墟に変えてやるからな」
 殊更に高飛車な台詞を吐き、ピッコロの足が前庭の敷石を、力強く蹴った。
 …その姿が遥か下方の、小さな黒い点になってから、ミスター・ポポが口を開いた。
「神様」
「どうした、ミスター・ポポよ」
「ミスター・ポポ、わからない。
 ピッコロは、神様が切り捨てた邪悪な心の化身の筈…。そのピッコロに、どうして人間の子どもが、慕い寄ってくるのか」
 神が小さく笑った。
「ミスター・ポポ、鴎という鳥を知っているか?」
「ミスター・ポポ、鴎知ってる。
 海辺にたくさんいる、真白な鳥」
「そう、その鴎だ。
 …神殿の書物で読んだことなのだがな、この鳥には邪心のある者とそうでない者を見分ける力があり、心清らかな者のところにのみ、寄ってくるのだそうだ」
「……………」
「ふふ…。
 その鴎と同じで、幼い子どもというのは、わしのような者がとうの昔に失ってしまった、清らな心の持ち主を見抜く力を有しているのだろう。それ故、子どもらはピッコロを慕うのではあるまいか」
「…いくら神様の言葉でも、それだけはミスター・ポポ信じられない。
 あのピッコロが清らかな心の持ち主だなんて」
「お前が何と言おうと」
 言い、神は掌の上の、薄紅の花を見つめた。常は威厳と英知を宿すその目が、穏やかに和んでいる。
「あいつがこの花をわしに寄越した―――それだけは、疑いようのない事実だ」

 …己の身上について、そうした会話が交わされていることを知ってか知らずか。
神殿を訪れた時とはうって変わった、晴れやかなその心を映し出したかのような蒼天を、ピッコロは突っ切っていた。形の良い唇が、優しい笑みの曲線を描いている。
春の燦然たる陽光を宿した純白のマントは、白い大きな鳥の翼にも似た。

  おわり。


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