【愛しい人】
4



ギラギラと街を照らしていた太陽が、ビルの谷間に消えかけてもなお蒸し暑い空気を漂わせる夏の夕暮れ。
人間を蒸し殺す気なんじゃないかと思うような空気に、着ていたTシャツの袖を肩まで無理やり捲り上げ、暑いと眉を顰め空を見上げながら何度目かの悪態を新宿コマ劇場前の広場で零した。


「おい、坊主。お前か?スズカんとこに転がり込んだって言うのは」


昼から夜へと街の顔が変化し始める中、その景色に似合わない生花運搬に使用するどデカイバケツをいくつかまとめて両腕で抱え込む。
邪魔クセぇ、と大荷物を抱えた姿を往来に邪険にされつつ歌舞伎町から退却しようとしたところで、声を掛けられた。
その声は、煙草と酒に焼かれたようにしゃがれていて、ただ話しかけられたくらいだったら恐らくそれが自分へ向けられたものだとは気付かなかっただろう、今までの知り合いには少なくとも居なかった声。


”スズカ”という、覚えのある言葉がそこに無ければ振り向かない。


俺は、バケツを抱えたままそのしゃがれた声がする方へ視線を向ける。

右斜め後ろ、コマ劇を背にそこに立つ男は、蒸し熱い夏の日だというのに黒地に細く白いストライプが入ったダブルのスーツ、白いYシャツに深い臙脂色のネクタイ、金のタイピンといったどこぞの『ヤ』の付く職業を映画化した中に出てくる役者を模したような出で立ちで煙草を吹かしこちらを見ていた。


「…えっと…あの、何か?」

「何か?じゃねぇだろ、坊主。俺は聞いてんだ、お前がスズカんとこのか、ってよ」

「…誰?」

「誰?って、先に聞いてるのは俺だろうが。答えろよ」

「スズカは…俺の伯母ですけど。伯母をご存知なんですか?」

「ご存知ってなぁ、そういうレベルじゃねぇよ…って、坊主、お前なんなんだ。そのここらのガキみてぇな面しやがって」


ここらのガキ、と言いながらヤっさんの装いをした男は渋い顔をして煙草の煙を溜息のように吐き出し、周囲で女性に手当たり次第ビラやティッシュを配ったり、声を掛ける若い男連中へ視線を向けた。
その視線に倣うように、俺も何気なく彼らへ目を向ける。
誰かれ構わず、女性という外見の判断で声を掛けて行くのはどうなんだ、効率悪くないか?などと考える俺は、いつしか彼らに向けられている視線が自分に向けられていたことに気付く。
ビクリと一瞬驚いた俺は、バケツを抱えながら驚きを誤魔化すように緩慢に身体ごと男の方を向いた。
その様を、男は鼻で笑って煙草のフィルターを噛んだ口の端から煙を零した。
瞬間の男の表情は、何か悪巧みでもするような顔つきで、俺は思い切り不信感を顔に出す。


「良いか坊主、あいつらに声かけられてもホイホイ付いてくんじゃねぇぞ。あいつら、いっつもここらで油売りやがって暇人ばっかりでロクなもんじゃねぇ」

「…はぁ」

「はぁ、じゃねぇだろ。はい!だろうが」


アンタ何?と思い切り訝しむ顔をする俺のことなどお構いなしで、男は賑わしい街角の一角で突如説教めいた口調で話し続ける。


「……。…はい…」

「なんだ、シャキっとしねぇ野郎だな。いいか、スズカの迷惑になるようなことしてみろ、俺が黙って…」

「あっれー!椿屋さんじゃないっすか、何してんスか??」

「…あ?何してるって、お仕事に決まってんだろうが!」


説教めいた話をしていた男に、いかにもホストやってますという風体の男が往来の中からこちらの様子を窺って割って入って来た。
その男に、ツバキヤと呼ばれた見た目ヤクザ男は面倒臭そうに舌打ちをして、厳つい顔でガンを飛ばすように悪い顔をして口調荒く返事をする。


「なんだ、これから仕事か。そういや、お前、ちゃんと今月は払ってるか?!」

「そ、これから一人寂しく出勤〜。あ、やだなー、開口一番それ?もう、いい加減マトモにやってますって〜。心配しないしなーい」


ホスト風情の男は、やはりホストらしく、どうやら同伴出来ずに出勤するのを嘆いている様子だった。
そんな男を睨みつけるようにしながら煙草を口から外し、煙を吐くと同時にツバキヤさんは金の話をし始める。

”ツバキヤ”とホスト風男に呼ばれた、名前までどことなくヤっさん風の男が顔見知りを見るや否や金の話をし始める様は、夏休みを迎えて家の手伝いをする世間知らずな高校生の俺には、どう転がっても目の前の男が『ヤ』の付く職業の人間に思えてならない。

両者が何者なのか何なのかもわからず、バケツを抱えたまま目の前で突然始まった会話を聞いて瞬いているとホスト風の男がこちらに気付いて俺の顔をバケツの横から覗きこんできた。


「ナニ、君。椿屋さんの知り合い??」

「おい、そいつに構うな」

「構うなってことは、やっぱそうなんだ。へぇ、なかなか稼ぎそうな顔じゃん。何、あ…そのバケツ、○丁目の花屋で働いてんの?時給幾ら?ホストに興味とかない??」

「幾らっていうか、家の手伝いなんで…」

「えぇ?!家の手伝いって、今時珍しー…っていうか、あの人の息子とか?へぇ、あの人、子持ちだったのか〜」

「や、あの…」

「あー!ごちゃごちゃ煩ぇな、どうでも良いだろうが!!さっさと仕事しに行け、暇人が!!!」

「えー、せっかくイイ人材見つけたと思ったのになぁ。残念。今度、また会ったら話ししようや、少年!んじゃ、また〜」


ツバキヤさんのしゃがれ声にせっつかれたホスト男は、去り際に派手なスーツの胸ポケットから名刺らしきものを取り出すとバケツで両手の塞がる俺のジーンズの尻ポケットにそれを押し込んで、背中を数度叩いてツバキヤさんに浅く礼をし歌舞伎町の雑踏へ消えて行った。

ホスト男が去っていく様子を、ツバキヤさんは苦々しい顔をしながら無言で見送り、視線を俺へと戻す。
風体だけでもヤっさん臭い雰囲気が、先ほどの男との会話の内容で更にその空気を増した”ツバキヤさん”は新宿の歓楽街・歌舞伎町には似合わないラフなTシャツとジーンズ姿の俺の恰好をチラチラと眺め、その視線を顔に上げてから舌打ちをした。


人の顔を見て、なんて失礼な。
つか、オッサン、誰だ。


「いいか、また声掛けられても、さっきみたいのには絶対付いていくんじゃねぇぞ」

「付いてくって、そんなガキみたいなことを。それより、オジサンはどこの誰なんですか」

「オジサンだ?!おいコラ、坊主、俺はオジサンじゃねぇ。社長だ、社長!社長って呼べ」

「社長?!え、嘘、ヤク…ッ、痛ッ!!!」


ヤクザじゃないのか!と言おうとした俺の後頭部に、スパンと平手が入る。
その衝撃に、思わず手にしていたバケツが道路へ落ち、ガゴン!という大きな落下の物音に周囲の視線がこちらへ集まった。
慌てて落下したバケツが倒れそうになるのを抱えて阻止しつつ、平手の入った頭をさすり、隣で悪人めいた表情をしてこちらを睨みつけてくるような目をするツバキヤさんを負けじと見返した。


「ちょッ、何するんですか!ていうか、オジサン誰!!伯母さんとどういう関係だよ?!」

「社長って呼べって言っただろうが!脳ミソ腐ってんのか、ああ?いいか坊主、絶対にスズカに迷惑かけるなよ。もし、これから何かあったらここへ来い。タダじゃ何もしてやらねぇが、出世払いで不動産以外の相談にも乗ってやる」

「は?不動産??」


訳が解らず眉間に皺を寄せ首を捻る俺に、面倒くさそうにツバキヤさんは上着のポケットから何か取り出し俺の額にベシリとそれを掌で押しつける。

早く取れ、と言わんばかりに押し付けられるそれを掌と額の間から指で摘んで抜き取り、前髪が潰れると頭を振って目にしたそれは、名刺だった。


「しんじゅくつばきやふどうさん?」

「…何だ、その小学生みたいな棒読みは。坊主、お前…頭悪ぃだろ」

「ふざけんな、これでも有名私立校の高等部学生だ」

「はッ、そいつは驚きだな。まあいい、とにかく何かあったら来い。歌舞伎町ん中だ」


ツバキヤさんは悪そうな顔を少し可笑しそうに緩め、随分と短くなった煙草を上着の内ポケットから取り出したジッポの外装に擦りつけ火を消し、地面に置いてあった生花運搬のバケツに放りこむ。


「あっ!!ちょッ、何して…!!」


放物線を描いてバケツに落ちて行く煙草の姿に慌てた俺が、慌てて中を覗きこむ。
頭の上の方でクツクツと厭らしい笑い方をする、新宿椿屋不動産・社長 椿屋 十郎−ツバキヤ ジュウロウ−の声がしていた。

クソ!と舌打ちをして顔を上げ、ヤクザ風情の男を不機嫌を全面に顔に出した俺の視線が捉える。


なんつーオヤジだ、コイツ!!


「灰皿に捨てといてくれ」

「自分で捨てろ、最低オヤジ!」

「シャチョウだつってんだろうが。それじゃあ、スズカによろしくな。……あ、そうだ…ヒビキにもよろしく伝えてくれや」

「…え?…」


…ヒビキ?


それは、俺の母親の名前だった。

伯母を”スズカ”と呼び捨てにし、母親の名前をも呼び捨てにする、ツバキヤという男に訳がわからず沈黙する。
男はそんな俺を見て、悪そうな顔をニヤリとした表情に変えた。
新宿の繁華街のど真ん中、俺の母親の名前なんて耳にする筈もない場所でその名を耳にして、一瞬、思考の波が途切れた俺の目の前に彼の節くれだった掌が突如現れ、ハッと俺は肩をビクつかせる。
男は、悪そうな顔のまま驚きを隠せない俺を気にせず、その手を頭に落とした。
ワシャっと指先が力強く髪を掻き混ぜ、頭の上を滑る。

ヤクザな風体の男が、腕まくりしたTシャツにジーンズといった、ネオンの色が華を添えだした街にそぐわない姿をした少年の頭を撫でている。
その様は周囲からはもちろん、この街からも浮いていて、チラチラと様子を気にする視線が刺さる。


「真っ直ぐに育てよ」


悪そうな顔をしてるくせに、顔を合わせてから何回目かの正しい道を示して笑うツバキヤさんは、短く言っうと周囲の視線を気にする様子も無く手を離す。
じゃあな坊主、とネオンの灯り始めた歌舞伎町の中心へ向かい歩き始めた。

歩き始めた彼の背中を、俺の視線は追っている。

強面というより、悪そうな顔のヤクザな男に、気安く声を掛けては笑顔で頭を下げたり手を振る連中が後を絶たない。
手にしたままの不動産屋の名刺が表す身分が真実なのかがわからなくなって、俺は首を傾げた。


「…何者だよ、あのオッサン…」

















…………

椿屋のとっつぁん(現職場の社長)とユゲの出会い。





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あきゅろす。
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