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醜態を晒した五月の雨

つやや、と梅雨に入る一歩手前の五月雨は優しい音を奏でる。
つやや、つや、つやや。
小さい小さい雨粒が幾重にも重なって小さく小さく降り注ぐ。風はしっとりと湿りやや冷たいから身にも心にも涼しげで一護はこの雨が一等に好きだった。
風情がある、彼はたった一言そう告げて、ずぞぞと麺汁に浸したそうめんを啜った。
母屋の縁側、整えられた庭を一望できるのはここだけで、彼は天気が良い悪いに限らず縁側に出ては何をするでもなく庭をただ眺めて過ごす。彼のお気に入りの場所なのだ。
早く食べなきゃ麺が伸びちまうよ、彼が小さく笑いながらそう告げる。思考回路が一旦彼に集中しきっていたから、はたと気付いて手の中のつゆ入れを見た。
ガラスで出来た小ぶりの容器はこの季節にピッタリの涼しげな器だ。小さく飾り彫りが施されていて、器の中に入る氷がカランカランとつゆ入れの中で鳴るのもまた一興と彼は笑う。
ずぞぞ、浦原も一護に習いつゆに浸した麺を啜る。途端に口内へ広がる風味豊かな麺つゆの味と冷たい素麺の食感が絶妙なバランスを保ち舌先に甘さを乗っけた。うん、美味い。少しだけ山葵を入れすぎてしまったと、後から鼻にくる山葵の刺激に指で眉間を押さえ込めば再び一護が笑った。

「入れすぎだ、と最初に思ったんだよ」
「…なら、言って下さいよ…」
「おや、自分で入れた癖に何を仰る」

くふり、彼は柔和に笑んで美味しいだろうと小首を傾げてみせた。
この目の前の男は浦原より十も上であるにも関わらず、十九の浦原よりも大層子供らしく上手に笑う事が出来る。それが少なからず不思議であったし、いつも台所を占拠している大男との関係性も、そして時々出入りする無口な少女(見た目は九か十の児童だ)との関係性もまた不思議ではあったが、一護は全てを語らない。それでも浦原は、このみょうちくりんで浮世離れした男になぜだか興味を持ってしまい、足げなく彼の元を訪れている。
浦原は記者でもなければ編集者でも彼の担当でもない、文学を勉強する為に大学へと通う一学生である。
彼と直接的な接点はない、チラリと一護を見る。
冬仕様の重苦しい色使いの着物から、夏仕様の着物に袖を通した彼は一層涼しげで、自身が着込んだ洋装のシャツがとても窮屈に感じられた。
彼は、文を描く人だ。
ロマンス小説から評論文まで手がける彼が得意とするのは宗教じみたオカルト噺。柔らかい文字でロマンスを描いたかと思えば堅苦しくも辛辣な言葉で正論を描く。こうして描かれた文字たちが脳に直接絵を植えつけるから彼が出す本は全て賞を獲得する。最も有名なのが妖怪を題材にした小説であり、生々しい描写がリアル過ぎてまるで本物が目の前にいるかの様な錯覚をもたらすと評判だ。
浦原は一護が描く文の全てに目を通している、謂わば彼の一ファンであり、憧れの大先生と共に蕎麦を食べる仲にまで発展した事が一番の不思議でもあった。
編集者でも担当でも記者でもない一ファンの自身を、彼がどう思ってここまで距離を縮めてくれているのかが未だに計り知れない。
気付けば、彼が傍に居る。
今日だって長居する気はなかったが、玄関先で靴を履いて辞そうと腰を浮かした後で冷やし麺を食べないかと誘われたのだ。
彼はいつだって突拍子も無い。とんでもなく調子外れだから呆気に取られる事が暫しあるがそれも彼の柔和な笑みを見てしまえば肩からガクリと力が抜けてしまい、いつの間にか彼のペースに乗せられてしまう始末。
今日だってそうだったが、今日の所は助かったと浦原は未だに止まない五月雨を見ながら思った。
"晴れてたのになあ"
生憎と傘を持ち歩いていなかった為(雨が降るだなんて露程も疑う余地がない晴れ模様だったからだ)丁度良い雨宿りだと胸を撫で下ろし、ずるずると素麺を啜っては空かしても居ない腹を満たす。

「もう少しだから」
「…何がっスか?」

時々、彼は本当に見えているのではないか、そう思う時がある。
見えてる、そう形容するには少しばかりファンタジックじみているかもしれないが彼の描く文達のあのリアルさは表現し難い。
浦原はつるんと素麺を口内へ流し込んで一護の琥珀色を見る。
相変らずどこを見ているのか分からない甘い琥珀色がフと笑みを象り、浦原を見た。

「あと少しで止むんじゃないかな。ホラ、さっきよりも降り方が疎らだ」

空を仰いで告げる彼の視線を追う様に、浦原も上を見上げた。
成る程、確かに。先程の降りっぷりに対して今は大分弱い。チラホラと雨粒が目に見えるだけでこれなら傘が無くとも大した被害にはならないだろう。
涼しいね〜、一護の発言の後で窓に吊るされた時期外れの風鈴がリリンと浦原の代わりに返答した。
雨の香りを含む風がどこからか優しく吹いては浦原の金色を揺らし、シャツの中に隠された皮膚を撫でた。少しだけ、肌寒さを感じて身が震える。
そろそろ夏が来る、と浮き足立っても季節はまだ梅雨入りも果たしていない時期で明け方と夜はまだ寒い。今日はお天道様がでしゃばっているからシャツ一枚で充分だろうと油断していたら五月雨に見舞われた、ついでに冷やし素麺をご馳走されているから体が一気に冷えたのだろう。無意識の内に浦原の左腕は右の二の腕を擦った。
徐々に徐々に体温を奪われてしまう。春の通り雨は危険だ。

「浦原、今日は泊まっていけ」
「は…?…まあた先生は…突拍子も無いですね…今日は用事があるんです。夜にねサークルの連中と呑みの約束がある」
「行っても楽しくないと思うなあ、なんせお前はザルなんだ、下戸の連中と呑んだってなんら楽しくないだろう?なら俺と呑んだ方が存分に楽しめると思うぞ。よし決めた、今決めたぞ。今日は鰻を取ろう、そして二人でゆっくり酒を飲もうじゃないか。」

今日はやけに饒舌だと思ったらこれだ。浦原は開いた口が塞がらないと言った状態で深く溜息を吐いた。

「先生…」
「先生って言うのはよせといつも言ってるだろう。嫌なんだよそう呼ばれるの。小ばかにされてるみてえだ」

眉間にグっと皺を寄せて睨まれた。

「…はあ、じゃあまあ…黒崎さん。アタシね時々思うんスよ…実はせんせ……黒崎さんは見えてるんじゃないかってね」
「ほう」

今度はニンマリと悪童そのものの笑みを象り、彼の琥珀色は好奇心旺盛と言った具合に光った。

「と、言うと?」
「…ですから。なんていうか…あなたが忠告した事とかなんとなしに呟いた独り言とも取れぬ呟きとかがね…ひとつの鍵になったりする時が多いから…黒崎さんはのらりくらり交わすが、実はちゃあんと全てが見えていてそれを伝えているだけなんじゃないかって…そう思うわけですアタシは」
「つまり、預言者だと?」
「…大きく言いすぎですよ先生」
「お前こそ買いかぶり過ぎだ、それに事ある毎に先生って呼ぶのやめろよ恥ずかしい。なんつーかなあ、俺はただ言葉巧みにお前を俺の傍に引きとめているだけにすぎん」

そうめんをすくっていた箸で指されて行儀が悪いと注意をすればニカリと童子らしく笑う。

「引きとめるって?なんでまた…アタシは編集者でもなければ記者でも…況して担当でもないただの学生っスよ?」
「お前…皆まで言わせる気かよ?」

浦原が調子外れに溜息を吐き出しながらそう告げれば、今度は不機嫌そうに唇を尖らせ(彼はコロコロと表情が変わる)残りのそうめんをつるりと飲み込んだ。

「皆までと言うと?」
「阿呆か、…だから、俺が、この大先生黒崎一護様が、お前に傍に居て欲しいが為に毎度毎度言葉巧みに四苦八苦してるって話しだ馬鹿めっ」
「馬鹿とか阿呆とか…相変らず口が悪いですよ…。要は話し相手が居なくて退屈って話しでしょう?」
「お前がそれで納得すんならそう思ってもらっても良いぜ」
「…なあにを偉そうに……分かりました今日は断りましょう。一寸電話借りますね?」

降参だ、浦原は両手を挙げて態度に示す。今日の予定は呆気なく崩れてしまった。目の前の一護はニンマリとやや悪そうに笑っては満足げに麺汁を全て飲み干しては傍に置いてあった煙管を手に取って葉煙草にゆっくり火を点けている。
少し、面白くはないが一護が言った事の大半は当たっている。
浦原は酒に強い、きっと大酒豪だった祖父の血を引いてしまっているのだろう。どんなに飲んでもちっとも酔わないのだ。だから酒は好きではない。酔わないのに飲んでも楽しくないし金もかかる、味は美味しいとは思うが一杯呑めたら満足。一護の言う通りかもな、行っても楽しくなさそうだ。最終的には一護の言葉通りに行動してしまう自分が居るから少し面白くないと形容してしまう。
ハア、小さく溜息を吐きながらその場を後にした。

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