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一番旧い記憶は一番苦いものとして胸の内に残った。
血族全員が集ったその時、血を分けた遠い兄弟姉妹から浴びせられた嘲笑は、そっくりそのままこの顔に張り付いて馴染んだ。
痛い位歯を食いしばった、あの日の事を忘れない。







空は日本晴れ小春日和で、空気は乾燥している。時折谷から吹き上げる風は湿っているが適度に心地良く、絶好の虫干し日和だ。
「欽十朗、ありがとう!」
紅子が鈴を転がすような声で笑った。ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。
「毎日着替えられる何て、夢みたい…」
にっこりと、少女らしい顔で綺麗に笑う。しかし其処には幾らか老成したような雰囲気が垣間見えて、矢張り人ではないのだと実感する。
紅子は、長年に渡り妹として傍で暮らしてきた。
三つある倉の内、一番左側にある北東のが部屋となっていて、中は造りの良い家具で整えられている。見れば解るが、女の部屋だ。鏡台があるし、何より、衣装箪笥が三つもあるのだ。
その衣装箪笥の中はといえば、まるで博物館か美術展でもやっているかのように、ずらりと鍔や目貫が並んでいる。何故衣装箪笥にそのようなものを仕舞っているのかといえば、その鍔がまさしく、この倉の主、紅子の衣装であるからだ。
紅子はその銘を禊紅梅、名を鍔鬼。正体は代々谷を治める椿の家を護る破邪刀で、怪異に通じ妖を制し穢れを祓う力を持った鬼である。
「鍔を替える位なら、俺でも出来るからな」
鞘に収めた鍔鬼自身を手渡すと、その化身たる少女は刀を抱き締め、再度嬉しそうに飛び跳ねた。
今着ている鍔鬼の着物は、ごく薄い黄色の地に金を織り交ぜた山吹色の破扇の柄で、帯は黒、帯留めは秋草に蟋蟀だ。
鍔は着物に、柄巻きは帯に、目貫は帯留めとなって、鍔鬼の姿を彩る。その刀身は肌や髪、身体そのもので、錆び曇れば皮膚は爛れると云う。
「ああ嬉しい。もう数十年も同じ着物で、このまま一生着たきり雀かと思った。流石に柄巻きは時々替えて貰ったけれど、それだけでは、ね…」
「誰かに直接、替えてくれと言えば良かったんじゃないか?」
「欽一朗はよく替えてくれた。欽二朗は恐ろしく不器用で、欽三朗は趣味が悪くて、欽四朗はどじで指を落としそうになって、欽五朗は途中から鍔を集めるのに夢中になって、欽六朗が乱暴なものだから、そこで漸く、諦めた」
「…すまなかった」
自分の先祖達の事とはいえ、聞いていると何やら申し訳ない気がしてくるから不思議なものだ。代々皆、錆びないよう手入れは怠らなかったのだろうが、女心には配慮が足りなかったらしい。鍔鬼も苦労をしているようだ。
「いいの。欽十朗は器用で丁寧、趣味も悪くない。おまけに、とても優しいので、わたしは運が良い」
時々、鍔鬼が目を細める様が、会った事もない祖母のように思えてならない。刀だというのに表情が豊かで、感情が深い。
鍔を替える為の道具を桐の箱に収める。開け放したままの倉の入り口から風が吹き込んできた。
そろそろ良いだろう、と扉を閉めようと手を伸ばせば、鍔鬼が叫んだ。
「離れろ欽十朗!」
取っ手に触れかけた指先を脇に引き寄せると同時、何か黒い影が目の前を通り過ぎた。どしゃ、と生々しく濡れた音がして、敷いてあった畳の上に落ちたのが、目を向けるより先に分かった。
よくよく見てみれば、それは一匹の、痩せ細った狐だった。さぞ見事だったろう毛皮は無惨にも汚れていて、黒く染まっている。近寄るとむっとした、実に厭な悪臭がして、思わず眉を潜める。狐の息は荒く、瞳孔は大きく開いていた。
「まさか…丘山か…?」
手を伸ばせば、ぎろりと狐が此方を睨め付けた。間違いない。丘山だ。
姿は違えど、直ぐに判った。目が同じだ。黒いというのに、何処か青みを帯びた、人間ではないものの目。
「穢術(えじゅつ)だ。欽十朗、下がって。触れれば触れただけ穢れが移る」
す、と鍔鬼が刀を抜く。
ああ、そうか、成る程、穢れには禊ぎを。禊紅梅の本領発揮という訳だ。
鍔鬼の刀身は鞘を抜き姿を現す、ただそれだけで魔を祓う。今までに二度程目にしてきた。
「痛みに耐えて毒を吐け」
しかし、今回は勝手が違ったらしい。
欽十朗が声を上げる間もなく、鍔鬼がその刃を狐の尾に突き刺した。すとん、と、まるで穴に棒を通すかのように、鉄が貫通した。
濡れた重みを無視して、毛が逆立つ。断末魔にも似た絶叫が鼓膜を突き破ろうとする。
「其の身悉く清め白刃の下悉く澱みの血流せ。汝が魂捉え繋ぎ、定めと成す」
何やら鍔鬼が早口で言葉を紡ぐが、丘山の絶叫に遮られてしまい、聞き取れない。
「依って、禊紅梅鍔鬼を以て証とする」
刀身が抜かれ、丘山が気を失った。張り詰めていた背骨が弛緩し、畳に倒れ臥す。溢れた黒い血は未だ悪臭を放っていたが、背筋の凍るようなおぞましさは消え去っていた。
「…一体、誰がこんな真似を……」
手近にあった手拭いで刃を清め、鍔鬼が沈痛な面持ちで呟いた。
幸いも、今は未だ春期休暇だ。欽十朗が一日中倉に居ようと、気にする者は居ない。奉公人には部屋に食事を運ぶように頼み、夜半過ぎまで丘山の看病に勤しんだ。
尾の傷は不思議と小さく、直ぐに塞がりそうであったのだが、全身には何か、大きな獣の牙や爪の跡があった。毛皮に隠れてはいたが、治る際には皮膚が引き釣れて痛むだろう。傷口から指を差し込めば、そのまま皮が剥げそうな程だった。
「…鍔鬼、穢術というのは」
「文字通り、穢れた術と読む。最も忌むべき種類の呪いを差す」
呪いとは、世に溢れている。例えば、永き時を経た動植物や器物に宿る何か。生まれた赤子を呼ぶ声。呪いとは、言葉によって何者かを定められ、己が何者であるかを知る事、それ自体なのだと云う。音により眠った何かが揺り起こされ、文字により形が括られる。昔はつばきという音だけであったものが、鍔鬼と椿という双つの形を取ったように。
欽十朗も、あの夜、鈴村が雀群へと回帰し、己が体に傷を刻んだ際に、その事は鍔鬼から聞き及んでいた。妖としても強い力を持つ鍔鬼は、鍔鬼、という文字を欽十朗から消し去る事で、怪異に纏わる記憶を塞いだ。しかし、欽十朗はそれを拒んだ。心あるものは皆、忘れられるのが哀しい。だから、涙を流す程嬉しかったのだと、鍔鬼は語った。
それ位、名は強い力を持つ。目にははっきりと見て取れないそれらの総称を、呪い、と、そう呼ぶのだ。
「呪いは様々にある。中には何者かを害する為に編み出されたものも…けれど、ただ一つ、忌むべき呪いがある。それは、名を奪う事だ」
名を奪う、というのは、一体どういう事なのか。怪異や呪いに馴染みのない欽十朗には分からない。
しかし、鍔鬼の口調からして、丘山の流した黒い血からして、あってはならない事なのだというのは実感していた。
「蟲毒だ」
乾き、掠れた声が唸った。
「奴ら…わざわざ蟲毒の術を狼を使ってやりやがった。畜生、畜生…殺してやる…!」
「丘山…」
「絶対に、幾年掛けても追い詰めて、喉笛を食い千切ってやる…!」
狐の口から、激しい怨嗟の言葉を紡ぐ。正に啼血の、壮絶な苦味を伴った叫びだった。欽十朗は掛ける言葉もなく、絶句する。
「欽十朗、退きなさい」
鞘を捨て、抜き身の刀を手に、鍔鬼が構える。間違い無く本気の構えだ。
「何を…!?」
「このままではどの道、自身の怨みに飲み込まれて蟲毒と同じ穢れの塊になる。今殺してやった方が良い」
迷いのない鍔鬼の顔と、狐とを見比べる。考えるよりも先に、怒鳴るように叫んでいた。
「まだ間に合う!待ってくれ!」
倒れ臥す狐の傍に駆け寄り、覗き込む。狐は細い面を怒りと屈辱に歪め、血を流しながらも、目からは涙を溢れさせていた。
「丘山、丘山わかるか」
本当の名が丘山であるかどうかはわからないが、一番、自分の中に馴染みのある、同輩の名を呼ぶ。
「何故泣くんだ。お前は、自分をそんなにした奴が憎いのか。憎いと、本当にそう思っているのか」
唸るばかりで、狐は答えない。
「違うだろう、丘山。お前の憎しみは本当かも知れないが、憎いだけなら誰も泣いたりはしない。自分の無力が悔しいのか、それとも、悲しいのか。答えろ、丘山」
狐の体が、痛みとは違う理由から、小刻みに震える。益々大きく開いた目から、とめどなく涙が流れて止まらなくなる。
「答えろ!」
倉をも揺らしてしまいそうな位の声を張り上げる。全身全霊を以て叱咤する。裂けたような型を成す狐の口が、はくはくと頼りなく開閉する。
「ぐっ、や、じぃっ…」
回らない口からやっと、ぐずぐずと崩れた声を吐き出す。これが精一杯、とでも言うように。眉間に皺を寄せ、声を殺して、丘山青という名の狐は、泣き始めた。
痛む体を丸めて泣き続けるその姿に、呆気に取られた鍔鬼が我に還るのは、やっと欽十朗に視線を向けられた後だった。






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あきゅろす。
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