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鈴村家は昔から続く、この町で二番目に旧い家で、私は今から十七年前、そこに生まれた。




昔から、私の家には不思議な物や事柄が多くあった。
まず、毎年三月三日の雛祭りには屋根裏に膳を用意せねばならず、翌日にはその膳が空になっている。普通なら鼠かと思う所だろうが、箸には使った形跡があるし、碗は行儀良く並んでいるのだ。
それだけではない。家の女主人に昔から伝わるという手鏡を覗くと、失せ物の在処がすっと頭に浮かぶ。
数え上げてゆけばそれこそ両手で収まる数ではないが、私はそれをさも当然の事のように受け止めてきた。多くの奇っ怪な物事を見る内、怪異を起こすのは、決まって本家から授かった物や、本家から命じられた儀式ばかりだと気が付いた。
そして、今日はその本家、梅花皮町一の旧家、椿家の若様が私の家にやって来る。
私、鈴村沙紀子(すずむらさきこ)は内心、それを楽しみにしているのだ。件の、椿欽十朗という人が我が家に来る事で、何かが起こるのではないかと期待して。
「ごめんください」
から、と玄関の引き戸が開いたのがはっきりと聞こえた。私の部屋は家の一番奥にあって、そんな微かな音が聞こえる筈がない。だから、ああ、来たのだな、と思った。
そそくさと玄関に向かうと、既に母が応対を始めていた。
椿家の若様は、背の高い、髪の短い、二重の、無表情で、無口そうな人だった。話す声が低く、落ち着いている。武道を嗜む人の其れだ。黒い学生服がよく似合っている。
あんまり母が勢い良くまくし立てるものだから、相手方は乏しい表情ながらに困り顔だ。私が話し掛ける機会を逃して、ぼうっと立っていると、若様の方が私に気付いて、視線を向けた。表情を僅かに和ませる。きっと、話し易そうな人間が居たので、ほっとしたのだろう。無表情なのに感情が分かり易いのが不思議だ。
「ああ、沙紀子。居たんならこっちに来なさい!」
母からきつい口調で呼ばれ、私ものろのろと若様の傍に行った。
「それで、あの、今回は庭を見て欲しいとのお話だったでしょうか」
「ええ、ええ。いや、この子がですね、庭の木の様子が近頃おかしいと言うものですから…ね、こういった事は、本家の方にご相談しろと、私も義母から口を酸っぱくして言われていたものですから。でも、欽九朗様はお忙しくていらっしゃるでしょう?いえね、欽十朗さんだって学業が大変でしょうとは思ったのですけどね」
「はい。父の代理で申し訳ないですが」
「いいえ!わざわざおいで下さって有り難い事ですわ。今お茶をお持ちしますわね。沙紀子、客間にご案内して!」
母が慌ただしく厨房へと、半ば駆けるようにして去ってゆくと、急に家の中が静かになった。
「…此方です」
家で一番上等な、中庭に面した客間に案内し、上座を勧める。席に着いたのを見計らって、本題へと移る。
「今回、お呼びしたのは、庭に異変が起きたからです」
障子を開け、丸窓から苔蒸した庭が見えるようにする。
「彼処にある木は、すずむらぎと呼ばれています。昔からこの家にあったそうで、不思議と、一年を通して月に数度は激しく、鳥の群れが囀るかのように鳴くのです。どうしてだかは分かりません。祖母に相談した所、本家の方を呼ぶように言われたから、相談したのですが…」
未だ恐ろしい程庭は静かだ。
「ですが、ふた月程前から、木が全く鳴かなくなりました。其れだけなら、気にする必要もないとは思いますが…それ以来、日に四匹も頭が双つある蜥蜴が捕まったり、大きな百足が米櫃に現れたりするようになったのです」
「虫除けの煙を焚いては…」
「三度試みましたが、駄目でした」
煙を焚いたその日、夥しい数の蠅が風呂場の壁を黒く染め、大黒柱は蛞蝓の通る跡で滑り、燃え盛る竈からは生きた蝦蟇蛙が生まれ出でた。あの恐ろしさとおぞましさは、簡単に忘れられるものではない。
「…申し訳ありません」
ぽつり、呟くように口を開き、考える素振りを見せる。
「俺に、これをどうにか出来るとは、思いませんが…木を、見せて貰っても、良いでしょうか」
庭に出て、じっくりと鳴かなくなった木を見聞する。
「只の木のように見えますね」
「ええ」
「中を確かめてみた事はありますか?」
「いえ…ありません」
答えながら、はたと気付いた。異常が起きていると言いながら、私は何故、枝葉の中を確かめてみなかったのだろう。あんなに気にしていたのに。
剣胼胝の付いた、皮の厚い指が、袖を捲って、枝を掻き分ける。木の中は予測よりも遥かに閑散としていた。木葉がびっしりと付いているのは外側だけで、中には細かな枝が張り巡らされているだけだった。がらんとして見える。
「ん?」
「どうか、しましたか?」
「いや、何だか、上の方が…」
眉根を寄せて、上を見た。
その途端、何か、濃い赤と翠色に彩られた物が、欽十朗の目を突いた。
欽十朗も素早く身を引いてかわそうとするが、今一歩遅かった。素早く目を抉った何かは直ぐに枝の中へと消え、気配すらも掴めない。
「っ…!」
「椿さん!」
抑えた右目から、血が溢れる。殆ど表情を崩さず、眉根を寄せて痛みを堪え両手で覆う。
すると、学生服の胸元から、何かがするりと抜け落ちた。白い砂利に着地し、かしゃん、と乾いた音を立てる。
「鍔…」
それは、一個の美しい、刀の鍔だった。
恐らくは赤銅製で、透かし彫りの図案は流麗な柳だ。滑らかな線だけで構成された、とても古いものだった。
はたと気付き、顔を上げ、折り曲げていた膝を伸ばす。直ぐ傍で人の目が損なわれたというのに、しゃがんでまで鍔を確認してしまった自分を恥じた。
しかし、それは椿さんも同様だったようで、じっと、懐から落ちた鍔を見詰めていた。私と目が合ってやっと、抉れた目を思い出した。
ゆっくりと両手を外すと、目は、何事も無かったかのように、傷一つない儘の状態であった。
「今、確かに…」
本人が、誰よりも驚いていた。お茶を用意したらしい母が私達を呼ぶのが聞こえて、何を口に出すでもなく、客間へと戻った。
椿さんは刀の鍔を手に、首を捻りながら帰っていった。
矢張りこの日も、木は鳴かなかった。
しかしその夜、私は夢現に不思議な声を聞いた。目は覚めなかった。内容はどうあれ、眠っている間耳元で声がするのには慣れている。
「若のお耳に入ったようだな」
「ああ、今日の一件を見たか?お祓え様も気付いておられる」
「彼奴め、とうとう年貢の収め時だぞ…」
聞くな、聞くなと念じても、どうしても頭に入ってきてしまう。祖母は昔から、あらゆるものを聞いてしまう私に対して、繰り返しそう教えた。聞こえない振りをしなくては。人ならざるものの会話を盗み聞けば、必ず其れは不要なものを招き入れる。
祈るようにして、深く、私は眠りに落ちた。
「御免下さい」
翌日の夕方になって、椿さんはやって来た。
矢張り私は自室に居たのだが、椿さんの声がはっきりと聞こえた。話し声がしないので、玄関へ向かう。母は少し出遅れたらしく、椿さんは矢張り昨日と同じ学生服姿で、今度は藍染めの袋に入った竹刀を携え立っていた。
「夜まで此方にお邪魔しても、宜しいですか」
言葉通り、椿さんはじっと、客間に座っていた。母は一体何処へ行ってしまったのか、誰の気配もしない。
私は何となく、落ち着かない気分になって、椿さんと共に息を殺していた。この部屋の外に出てはならない。そんな気がしたのだ。
じりじりと張り詰めた空気と向き合っていると、何もしていないというのに、直ぐに夜になった。
丸窓の障子が、まるで螢に照らされたかのようにぼう、と一時光ったので、やっと分かったのだった。
「もし…」
障子の外、庭の方から、低く嗄れた声がした。直ぐに分かった。これは人間の喉から出せる音ではない。
「何だ」
椿さんが怖い声で答えた。姿勢はそのままに、瞑想するように目を閉じている。
「もし…其方に居られるのは、つばきの若様でしょうか」
「そうだ」
「どうかこのような場所から語り掛けるご無礼をお許し下さい。我らは故あって住処を追われ、力を失っておるのです。姿を現す事も出来ぬ由、御前に罷り通れぬのです」
「分かった。訳を聞こう」
「はい…」
昨夜聞いた声と同じだった。弱々しく哀れな語り口で、其れは続ける。
「我らはその昔、欽一朗様のご恩を受け眷属となった雀で御座います。ある日、欽一朗様の妹君、冴(さえ)様が村に嫁ぎ分家された由、この家の守護として、あの木を与えられました。一体どんな来歴があるのか、我々も詳しくは存じませんが、ある寺社から枝分けされた霊木であると聞き及んでおります。我らは住処としてその木を与えられ、木に宿る霊力を使い、村に溜まる邪気を祓い、家人を護る事をお役目としておりました」
「鳴く事で邪気を祓うのか」
「はい、はい。その通りで御座います。我らの囀りは淀みを寄せ付けぬ千鳥網と成りてこの谷に張り巡らされ、木はやがて雀群木という名を賜りました。故に、其処から取って、家の名も雀群(すずめむら)となったのです」
耳慣れない名前を、幾度も頭の中で繰り返す。すずむら、すずめむら、鈴村、雀群。雀群、沙紀子。
何故だか、何年も耳にしていた名前よりも、こちらの方がすとん、と私の中で落ち着いた。
「しかし、月日と共に我らの力は衰え、つい先日、山より降りてきたものに住処を奪われました。故に、長年に渡り谷中に張り巡らせた網に綻びが生じ、穢れが蟲と共に現れました。今はこの家の内に留まっておりますが、もう限界で御座います。数日の後には網の全てが崩れるでしょう」
「その、山から降りてきた奴っていうのは何だ」
声の主、雀群木の古妖は少し口籠もり、答えた。
「…雉で御座います」




私は椿さんについて、庭に出た。
椿さんと一緒に居なくてはならない、と思ったのだ。そうしなくてはならない。これが今の、私の家にある掟なのだ。
矢張り、庭は怖い位静まり返っていた。人の住処でありながら、人の場所ではないような、そんな気がした。
「おい」
とても低い声だった。
「昨日はよくもやってくれたな。その木は俺が、昔雀にやったものだ。だから、俺がその木の主人だ。出て来い」
返事はない。だが、木の中から息を呑む気配がした。
「出て来い」
不意に手を握られ、椿さんを見ると、庭の出口に目配せをしている。低い声は崩さず、悟られないように。大した演技力だった。
「…もしもお前が俺の目玉を抉れたら、その木をお前のものにしてやろう!」
叫ぶなり、振り返らずに走った。叫ぶと同時、何かが木から躍り出た。
私は椿さんに追い付くのが精一杯で、息を切らしながら必死に走った。喉が肺が痛くて、焦れば焦る程足はもつれた。
家の門を出て町の道をひた走り、幾つもの坂を駆け上がった。夜道は暗いというのに、何故だか道ははっきりと見て取れた。千切れそうな位に強く、手を引かれる。途中で片方草履が脱げたが、私は全力で走り続けた。
とうとう足が上がらなくなってきた時、門が見えた。門には見覚えがあった。けれど、そこに立つ少女には全く、見覚えがなかった。しかし其れは酷く嵌っていて、見事だった。
「上出来よ、欽十朗」
煌びやかな着物を着た少女が、可愛らしい顔に不敵な笑みを浮かべ、手にした一振りの刀を抜く。清廉な刀身が露わになると同時、そこで全てが途絶えた。






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