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椿欽十朗の体がぐらり、糸の切れた人形のように倒れようとした瞬間、爪だけを原型に戻した手で目の前に居る鬼に挑もうとする自分を自覚した。何故こんな事をしているのだという至極真っ当な自問に対する回答を出すよりも前に、振り上げた腕が止まった。
幾重にも渡って、蜘蛛の巣にも似た長い女の髪が、その動きを止めたのだ。
本数にして僅か十、普通の髪ならば何も問題ではないだろうが、これは鬼の操る髪だ。鎖のような強さで以て、腕を締め上げる。
「下がれ狐」
気圧され、腕を下げると、髪が緩んで床に落ち、櫛神の髪と同じく、闇に溶けた。
皮膚が断ち切られるような痛みに、眉根を寄せる。
同時に、ふ、と冷たい視線を向けてきていた櫛神の表情が綻ぶ。しずしずと、しかし隙なく近寄ってきて、白雪の手を伸ばす。
何を、と口にする前に、滑らかな指が頬に触れてきた。
「ふふ、可愛い事…」
「なっ」
まるでからかうように一撫で。櫛神の仕草はあくまでも優美でいて、余裕がある。
主であるという人間の少女も、眉一つ動かさず事の成り行きを見守っている。
「安心せい。お前の主は眠っているだけ…三途より深き深淵に沈み、鍔鬼を探しておるのよ」
「仮死の術か…」
「違う。三途とは人の渡る川。深淵とはその三途の底にあって、鬼の御霊が沈む場所。本来、人の力の及ぶ場所ではない。例え妖だとして同じ事。ゆめ手を出そうなぞ思うな」
考えを全て見透かされ、歯噛みするしかない。流石は歳月を経た鬼だ。老獪な化け物だ。
あの鍔鬼が勝てないと断言する相手、更に弱い己が何をすべきか。賢しい狐は直ぐに答えを出した。
「なら、何故そんな鬼の浄土にたかだか人間を入れてやったんだ」
単刀直入に切り込む。恐らくは何も知らされていなかったのだろう、櫛神の主たる少女も、己が守護を注視する。
「知れた事。対話をさせる為よ」
櫛神が袖口で口元を隠す。また冷たい瞳を向ける。
「あの者が鍔鬼を見付け、新たに契約を交わせば吉。鍔鬼の魂は汲み上げられ、禊紅梅は鬼として此に帰る」
「なら、何故谷に髪を張ったんだ」
「土地と刀、刀と椿を繋ぐものが必要だった」
人は陽、鬼は陰。男は陽、女は陰。刀は男。櫛は女…本来、鍔鬼は鍔鬼たるべきではなかった。
しかし、元来陽の気が強い椿家の者を守り、谷の穢れを祓うには、男の腕と成り得る刀でなくてはならなかった。だから、刀を使うしかなかった。無理をしてでも。
元より、鍔鬼の目的は主人と同調し困難に立ち向かう事ではない。主人と調和して調停するのが役目。致し方ない事だったとはいえ、強い陽の気を持つ椿の者とでは、何時か契約に綻びが出来るのは目に見えていた。




そのままにしておけば、鍔鬼は消えてなくなる。




今の繋がりを、呪による縁を切らせぬ内に、また結び直すしかない。
「並みの術者では出来ぬ事だが、わたくしの髪ならば、彼奴らの対話が終わるまで保たせられる」
ぴん。白魚の指が爪の先で一本の髪を弾く。暗闇から真っ直ぐに伸びるそれは鍔鬼、否、禊紅梅に繋がっている。
「櫛神…どうして、そうまでして…」
少女の瞳が揺れる。真意を探っているのだろう。
「簡単な話ですわ、和祢さん。わたくし、貴女が大好きなの」
「櫛神…?」
「いいえ、貴女だけでなく、今までの主は皆そう。でも、皆、わたくしを置いていってしまう…」
決して、老いず死なず裏切らず。鬼は主と共にある。その名に銘に掛けて魂を掛けて。愛してしまう。




「私が死ねぬというのに、先に死なせてやるものか」




ああ、羨ましい妬ましい。
主を看取るばかりの鬼が、華咲くような場所で此岸の浄土のような土地で、主に看取られ逝こうとは。
きっとそれは、蓮台に昇るような心地がするに違いない。
妹の身でありながら、ただ残されるばかりの私を置いて、一人逝くなど、許さない。許さない。






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あきゅろす。
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