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仏頂面にしては珍しく、元学友であり現在青の―――不本意ながらも主である欽十朗が、腕を組み眉を寄せ、首を捻っていた。
「どうしたんだい?」
「いや…」
少し口籠もり、言葉を選ぶ。
「何故か、何時もと景色が違うように見えるんだが…気のせいだろうな」
広い廊下にぽっかりと空いた、丸窓からは梅花皮の谷が一望出来る。先程から降り続く雪が、早い冬の訪れを告げている。
様子がおかしく見えるのは、きっと雪のせいだろう、と結論付けて自室へ戻ろうとする欽十朗を尻目に、目を凝らす。
「いや…気のせいではないよ」
「何だって?」
「精巧な呪が、谷中に張り巡らされている。力こそ弱いけれど、ね。誰だかは知らないが、術の造り方が上手い」
この僕でも言われなければ気付かない程、巧妙に張り巡らせてある。谷全体を覆っているという事は、力が弱くともどうとでもなる。微弱な力であっても、連鎖的に行動を起こせば充分だ。
「嫌な手だ」
思わず吐き捨てるように言ってしまったのは、同族嫌悪というやつだろう。気に食わない。
「鍔鬼に言った方が良いな」
苦虫を噛み潰したかのような表情を見て事態を察したのだろう。欽十朗が呟いた。
「女の髪が見える」
目を凝らした先には、網の目に張り巡らされた、黒く、艶やかで細い糸があった。




何故、今頃になって、と、鍔鬼は唇を噛んだ。
まるで粗を探すかのように執拗に、長い髪が谷を這い回っている。僅かな穴も見逃さず、鍔鬼と椿が編んだ谷の綻びを、見付けては髪が塞ぐ。
まるで己が体に虫が集るような嫌悪を覚えると共に、燃え立つような怒りが鍔鬼の心を苛んだ。
よくも、人の領域に土足で。
舌打ちをしたい位だったが、そんな行動に意味はない。何の仕業かは既に分かっている。けれど、目的が解らない。相手から此方に関わろうとしているのなら尚更。
魂の姉妹として定められた鬼の一人、三番目の櫛神…女を護る為に造られた、女の鬼だ。
「一体、何を考えているっ…!」
ぎり、と頬の肉を噛むが、器物たる鍔鬼に血などない。鉄の味のしない痛みは、彼女の怒りを鎮めてはくれなかった。
「鍔鬼」
慣れた仕草で、欽十朗が倉の扉を開けた。少しの風と共に雪が入り込む。
鍔鬼は咄嗟に感情を鎮め、表情を取り繕った。
「谷に、誰かの髪が張り巡らされている」
「ええ、もう分かっているわ」
駄目だ。怒りを鎮めなければ。でなければ、梅花皮を、欽十朗を守れない。考えて。あの名前で繋がれた姉妹の手の内を。
「目的は分からないけれど、あれは私の姉妹の仕業よ」
「姉妹?刀か?」
「いいえ、櫛よ。櫛を使って作られた、主人を護る鬼。わたしたちは、同じ呪術師によって鬼にされた。名前によって鬼になるわたしたちは、全部で十人。十人とも、名前で繋がれているの。わたしはその十番目で、あちらはその三番目」
三、という数字は、呪に於いて特別な意味を持つ。一から十の数字の中で、最も力の強い数だ。一は始まり、二は分岐、三で物事は漸く流動する。世界の動作を表す数字。
特別なのは、一、三、八、そして九。
わたしはそのどれでもない。末席の十番。
「普段、わたしたちは各々自分の主人を守っているから、普通に考えて対立するとは思えない。でも、もしも相手の主人の生死に関わる事柄がわたしたちに深く関係する事だとしたら…わたしたちは主人を救う為に手段は選ばない。そのように出来ている。喩え、魂で繋がれた姉妹に仇なす事で、自分の魂に疵が付いたとしても」
「鍔鬼」
「櫛神は決まった土地を持たない。嫁して住処を変える女に憑くと決まっているから。土地と繋がらずとも力を発揮出来るように三という数字を与えられた。その櫛神が、わたしが数百年を掛けて編んできた谷の呪に潜り込んでいる。もしも、櫛神が地の力を必要としているなら―――」
「鍔鬼!」
欽十朗が声を張り上げた。
澄んだ、漆黒の瞳でこちらを見ている。真っ直ぐに此方を。嗚呼、嗚呼、何て高潔で美しい、我が十番目の主。凛々しく静謐な、その心その魂。わたしが磨き上げた。数百年の時を掛けて、この土地で。
「欽十朗、無理だ。わたしでは櫛神に勝てない」
既に、殆ど全ての綻びを占拠されてしまった。後はその隙間から、鍔鬼の張り巡らせた呪を剥がして、新たに呪を敷けば良い。
肩に、欽十朗の手が降りてきた。大きな、皮の厚い手だ。刀を扱う為の手だ。
「鍔鬼…」
まるで兄のような声だ。それは半分、間違ってはいないのだけれど。
苦しそうにまるで我が事のように眉を寄せ、たかだか一振りの刀に心を砕く。何時もなら誇らしく思うその優しさを、今だけは少し、怨みたかった。
「ごめんください」
ふと、玄関から涼やかな女の声がした。倉とは正反対の場所の、離れた所からの声はつまり、何かの幕が切って落とされた事を示唆していた。
「ごめんください」
もう一度、此方の様子を窺うように声を掛けてくる。
欽十朗は座った鍔鬼に合わせていた視線を外して、来客の元へと向かった。
倉を出て母屋の縁側から廊下を歩く。幼い頃から散々歩いてきた古い木の床が、何故だか果てしなく長く続いているように感じられた。雪の放つものだけでない冷気が冴え冴えとして、欽十朗の体を包んだ。
ゆっくりと一歩一歩進んで、広い玄関の正面に置かれた衝立の向こう側へ行くと、黒い外套を着た少女が居た。
「こんばんは」
長く、青みすら帯びた艶やかな黒髪は、腰の辺りまで真っ直ぐに伸びている。体躯は、この年頃の少女にしては驚く程細い。風が吹けば折れてしまうのではないだろうかと、見る者に思わせるが、しかしその黒檀のような双眸には、強い光があった。明確な意志を持って進む者の目だった。
「…失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「はじめまして、才木和禰と申します。この度は私の、その…守護がこちらにお邪魔したい、というもので…」
「ああ…」
この少女が、鍔鬼の姉、櫛神という鬼の主なのか。
「どうぞ、上がって下さい」
姿は見えないが、人とも妖とも違う気配がする。その名の通り本体が櫛ならば、外套の内ポケットにでも仕舞っているのかも知れない。
敵意も悪意も感じられはしなかった。だが、倉に向かう道を案内する間、無性に息が詰まった。
これから、今まで出逢ってきた怪異とは全く違った、自らの持ち得る全てを揺るがすような事が起こる、という勘よりも確かな確信があったからだ。






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あきゅろす。
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