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「さぁ、行くわよ欽十朗、狐!今日こそあの女を黙らせてやるわ!」
翌日、昼間に着替えを済ませた鍔鬼が、腰に手を当てて言い放った。しかしその表情は自信満々、というよりは、怒りに満ち満ちた笑顔だ。
今日は着物の図案構成に気を遣って、御所車に桔梗の図を選んだ。紫と白を基調とした落ち着いた柄で、帯は濃い蓬、帯留めは銀で造った三日月に群雲という凝りようだ。
その隣では丘山が思い出し笑いをしているが、最早鍔鬼は淡雪姫に対する再挑戦の事しか頭にないらしく、闘志を燃やしている。未だ状況説明を受けていない欽十朗は思考が追い付いていないが、場の空気に凡そ緊張感がないのを見て、大丈夫だろうなとは思っている。
しかし、少々予想外な事が起きた。
「あら、此は良い柄よの。普段よりこのようにせい。目を養う」
「はい、ありがとうございます」
昨夜と同じく、橘灯籠の所へ行って、装いも新たにお褒めの言葉を授かった迄は良かった。鍔鬼も再戦を果たして誇らしげだ。
だが、あからさまに面白くなさそうな顔をしながら、徐に笙を手に取った、丘山こそが問題だった。
「のう鍔鬼、あれはお主の所の楽士か?何故にあのようなみすぼらしい刈り上げ髪の、粗末な麻衣など着せておるのじゃ。けだもの故山出しなのは仕方がないが、あれでは見苦しゅうてかなわん。下がれ。それとも、あのけだものの楽しか芸がないとは申すまい?ん?」
「……ッ!?」
ぱき。と、丘山の持った笙が嫌な音を立てた。




「あの女ッ…!この僕を捕まえてっ…」
普段からつり上がっている眦を更に上げて、まさしく悪鬼のような表情を浮かべている丘山を見て、鍔鬼がうんざりしたように溜め息を吐いた。
結局、丘山が音楽を演奏する所ではない心理状態に陥ってしまい、蔵にすごすごと退散してきた、という次第だった。その丘山は今、怒りに任せて何の罪もない行李に拳を叩き付けている。
「ふっ…やっぱり一筋縄じゃいかないわね。解った?狐…あの女を納得させて宴会に参加するのも一苦労なのよ…」
「宴会?」
やっと質問が出来る状態になったので、質問を試みる。
「ああ、そういえば話してなかったわね。あのおん…淡雪姫と松露の君は…土地神なのよ。あのお二人は数年に渡り蓄積された恨みつらみや憂いを濯ぐ事が出来る。先数年のものまでもね。そしてその程度は橘灯籠の前で催される宴会の成功に関わっている。宴は七日七晩続けられ、その間にこの土地を治める椿の者が芸を披露して成功を収めねばならない」
「それは…凄いな」
生まれてこの方、梅花皮町の土地神の話など聞いた試しはないが、古い土地だ。居てもおかしくはないだろう。
「何だって?土地神?土地神が土地を離れる何て有り得るのかい?」
「普通はないわね。正確に言えば、お二人は梅花皮の土地神ではない。その昔欽一朗が宴に招かれてお褒めに預かったご縁で、定期的に土地の改善をして頂いているのよ。橘灯籠は、その最初の場所。つまり立ち寄り所なのよ」
「じゃあ、宴に参加して、芸を成功させれば良いんだな」
「そうよ」
「なら、少し考えがあるんだが…」




寒造り貴醸酒の瓶を左手に、右手に鍔鬼を携えて、欽十朗は淡雪姫の前に進み出た。後ろでは修復を終えた笙を構えた丘山が、絵巻物の貴人のように物静かに座っている。長く伸ばした髪を結い上げ烏帽子で隠し、目尻には紅を差している。
対して、欽十朗はといえば、白い着物に黒い袴を履き、額にはこれもまた白い鉢巻きを巻いている。袖が邪魔にならぬよう綾襷をしっかりと締めて、精悍な顔立ちに更に洗練された眼差しを備え、深々と頭を垂れた。
すかさず小間使いと思しき子鬼が、酒を受け取って松露の君の元へと運ぶ。穏やかに微笑む松露の君は、矢張り無口なままだ。
「そうかそうか、昨日、一昨日と来るだけで何もせなんだが、鍔鬼が出るとなれば話は別よの」
携えた鍔鬼の姿を見て、淡雪姫はもう上機嫌だ。以前からしつこく鍔鬼に芸をやれと言っていたらしいとは聞いていたので、これも計算の内だ。
「して、そなたは何をしてくれるのじゃ?」
「はっ、鍔鬼が主、椿欽十朗、僭越ながら舞を奉じさせて頂きます」
言って、欽十朗は鞘から鍔鬼を抜き、その鞘を裸足の足元近くへと置いた。適度に湿った土の感触を足の裏が指で掴む。
幼少の頃より幾度も繰り返した動きを、なぞる。持っている剣が鍔鬼のせいか、軽い。腕の一部のように、馴染む。丘山が笙を狂いなく吹いてくれるお陰で、動き易い。
「待てぃ!」
高く、鍔鬼を掲げた時だった。淡雪姫が声を張り上げた。
「お主…何じゃその腕は!?忌まわしい…そのような不浄の手で、神に奉ずる舞を舞ったと申すか!」
ああ―――…
鍔鬼は人には聞こえぬ、金物の声で悲鳴を上げた。
黒く、煤けたようなあの腕。黒く染まったあの、呪の力を受けた、跡。欽十朗は知らない。知らなかったのに。もし、欽十朗が、欽十朗が、私との縁を、絆を否定したら……
「…申し訳ありません。洗っても、落ちないもので」
「もう良いわ!下がれ!穢らわしい!目に入れるのも…」
「淡雪」
それまで事の成り行きを見ていた松露の君が立ち上がり、激昂する淡雪姫の肩に手を置いた。
「止めなさい」
「ですがっ…」
「彼の剣舞が宴に相応しいものかどうかは、私が決めるべき事だ」
松露の君の口調は柔らかく、しかし厳かであった。何か言いたげに口を開いた淡雪姫も、不満気な顔で言葉を飲み込んだ。
少しの間を置いて、丘山が再び笙を吹き始める。欽十朗に取って、鍔鬼に取って勝手の良い旋律から。
中断されたにも拘わらず、音に迷いがない。丘山らしい、と笑いたくなる一方で、この迷いのなさが、あの誇り高い狐が産まれ持った強みかも知れなかった。
「……」
ああ、来る。
波に乗る。流れが来る。霧のように溜まった何かが、流動し始める。
体が軽い。刀の重さを感じない。
伸び、泳ぎ、煌めく。水を得た魚のように、鍛え上げられた清い鋼が。






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あきゅろす。
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