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簾の隣にぶら下げられた、南部鉄器の風鈴がよく鳴った。風の気持ち良い、夏にしては暑さがそう鬱陶しくもない日だった。
「ごめん下さい」
一人の、若い大柄な男が旦那を訪ねてきた。
丁度その頃旦那は夏風邪の引き始めで、熱で赤い顔もそのままに、布団からよろよろと起き上がった。
「無理しないで」
吾はそう言ったけど、旦那は聞いちゃいなくて、さっさと玄関まで出て行ってしまった。咳を交えつつ応対する。
「すみません、夜野田隆信(よのだりゅうしん)さんは御在宅でしょうか?」
「ああ、僕が隆信です」
「突然の訪問、失礼かとは思いますが、伺わせて頂きました。あなたの書いた“河伯の名残”を拝見したのですが――…」
そのまま少し話し込んで、来客の背中を見送った時には、旦那はいたく上機嫌だった。
どうやら、途中で書くのを止めてしまった話の続きが是非読みたいとの話らしい。熱心な読者の登場が余程嬉しかったのか、鼻歌混じりに机の奥から粗末な装丁の本と、新しい原稿用紙の束を取り出して、また書きものを始めた。題名は河伯の名残、下だった。
それから、旦那は以前にも増して文字に傾倒し出した。食事の時以外、吾には目も呉れない。一心不乱にそれこそ魂も命も削るように書き続けた。
「やぁ、やっと一話分、出来たよ」
「恐縮です」
一週間して、また例の男が訪ねてきた。簡潔に礼を述べた男に対し、旦那は満足気に微笑んだ。吾が一度も見た事がないような笑みだった。
風邪はまだ治っていなかった。熱は引いたようだったけれど、未だに咳が続いていた。日に何度も背中を丸め、激しく咳き込む。旦那の肺が悲鳴を上げる。旦那は省みずに机に向かう。段々と、旦那は食事すら忘れるようになった。
「先日は、どうもありがとうございます。とても面白かったです」
「ありがとう。前編が三話後編だったから、後編も三話構成にする予定でね、あと一話で完結だ。はい、これが五話。次は…そうだな、三日したら来てくれないか。その頃には書き上がっている筈だ」
「わかりました。三日後にまた、伺います」
す、と紐で封をされた茶封筒を、旦那は受け取らずに、慌てて手で制した。
「ああ、原稿は君が持っていてくれないか?」
「良いんですか?」
「僕が持っていても、どうにもならないからね。今更自費出版するつもりも無いし…どうだろうか?」
「いえ、頂けるなら、有り難く頂戴しますが…すみません。いきなり押し掛けた奴に、わざわざこんな…」
表情が乏しいながらも恐縮し切った様子で頭を下げる青年が、頭を上げた際に、ちらと部屋の隅に居る吾を見た。目が合った。少しぎょっとしたような顔をするのを見ると、今まで吾に気付かなかったのかも知れない。それでも、直ぐに気を取り直して、旦那の方に視線を戻した。
「それこそこっちの台詞だよ。まさか、こんな所まで訪ねてきてくれる熱心な読者が居る何て、全然、夢にも思わなかった。ありがとう」
来客が返って行ってからも、旦那は不眠不休で書き続けた。咳はそんなに激しいものではなくなっていたけれど、顔はもう土色で、唇の血色も悪かった。普段より細められた瞳は眠たそうというよりは疲労の色が濃い。長く骨ばった均整な手は、まるで指が枯れ枝のようになって、最早吾が泣こうが喚こうが、この声が届かないのを知った。
朱水、と宝物のように名を呼ばれたのは何時だったのか、もう、思い出せない。








不世出の文学者、夜野田隆信氏を訪ねた時、彼は実に幸せそうな、穏やかな表情で以て出迎えてくれた。
最後の一話分はどうにも短く収まらなかったのか、先だっての二話と比べて、原稿は分厚かった。確かに、上巻を書いてから時間が経って久しいだろうに話の継ぎ目や内容はしっかりと一本の芯を持っていたし、完結に量を割くのは無理からぬ話だろう。
氏は突然の訪問にも拘わらず、件の小説“河伯の名残”の続編を書く事を快諾してくれた他、実に暖かい感謝の念すら示し、原稿すら譲ると申し出てくれた。そして、下巻と成る四、五、六話を三回に分けて受け取りに来た次第だったのだが、目に見えて氏の体は衰弱していた。
最初は只の夏風邪であろうと断ずる事が出来る程度であったが、二度目の訪問で、在る筈のないものを目にしてしまった。透けるように、それでいて鮮やかな赤を発する着物を身に纏った、美しい女の姿だ。
どうやら氏が紹介しない所を見ると、全く気付いてはいないようだった。然し、女の方はといえば、じっと人形のように座って、唇を固く閉ざして氏を注視している。
これは、どうにも出来ない。
瞬時にそう思った。
力こそ大した事のない妖のようだったが、氏以外に何かする風でもなければ、動こうという気もなさそうだった。あるのは強い執着というか、執念だけで、これでは俺の入る余地はない。
何故なら俺は只の無力な人間でしかない上に、俺の家とこの町を護る鍔鬼であっても、椿家に仇成すものしか祓えないからだ。そうでなければ鍔鬼の居る倉まであの女を誘き出すしかないが、それすらも出来ない。
どうするべきかと悩みつつ、夕暮れの道を歩いていると、えも言えぬ香の薫りがふわりと漂ってきた。これは、蓮だろうか。水を連想させる類であるのは間違いがない。
「ねぇ…」
腰に近い背中の部分、服のそこを掴んだ。さして力は強くない。否寧ろ殆ど力など込めてはいないだろう。そこが厄介だ。そう思う。
「ねぇ、あんた…吾の旦那になっちゃくれない?あの人はもう沢山なの。本と紙ばかりに構って、吾の事など見向きもしない。薄情な男よ、あの人は…」
「愛していたんじゃないのか」
「ええ、愛していたわ。だから余計に憎いんじゃない。愛しくて憎くて…もう堪らないから吾、彼処を出てきたのよ。ねぇ、あんた、吾を連れて行ってよ…」
「俺はお前を愛していない」
「それでも良いのよ。何処かに連れて行って。あんたの部屋の窓辺にも、机にも、何処へなりと」
歩いても歩いても、女はしつこく付いて来る。欽十朗は振り返らなかった。引っ張られ服の裾にある種ひやりとしたおぞましさを感じながら、これは長丁場になりそうだと見当を付けていた。歩きながら、何か良い手を考えねばならない。
「ねぇったら、いいでしょ?一緒に居ても。吾、あんたが好きなのよ」
しかし、しつこい女、まして妖の妓など、どう振り切るべきなのか、欽十朗にはさっぱり見当が付かない。ほとほと困り果てていると、足元も暗くなってきた時分、ふと柔らかく滑らかな、それでいて何処か覚えのある感触がするり、足を撫ぜた。
「それは無理な相談だな。欽十朗には妾が居るのだから、ね」
すいと現れたのは、氷の紗に藍染めの縁取りの貴妃服を身に纏い、目尻の紅も蠱惑的な、正しく気品漂う、天女もかくやという程の、絶世の美女だった。貞淑を絵に描いたような、しかしそれでいて婀娜な仕草で、白魚の指を欽十朗の肩に掛け、絶妙に美しいが何処か高慢な笑みを美貌に貼り付け、赤い衣のお女郎を見据えていた。
これには欽十朗も驚いて歩を止めた。そしてその一瞬で、綺麗に片は付いていた。
「お前のような醜女、一口で終わりさ」
ぐぱぁ、と一気に美女の姿が捻曲がり、巨大な化け狐の姿へと変じた。大きく開いた口で赤い衣の女郎を一呑みにし、軽く二、三度咀嚼しながら伸ばした首を元に戻した。
首を体に引き寄せると、今度はその首が若く精悍な男の顔となる。体も体で、何時の間にやら何食わぬ様子で、痩せた男のものへと変じている。着るものにしてもそうだ。繊細な貴妃服は消えて失せ、粋な縦縞の着物を難無く着こなしている。
「丘山」
虚を突かれたまま、反射的に欽十朗は答えを口にした。
「遅いと思ったら、あんな小物に手間取っていたのか」
「本当か?随分しつこかったが…」
「小物さ。腹の足しにもなりやしないよ」
「そうか…しかし、何にせよ助かった」
食い足りぬとばかりに舌なめずりする丘山を見て、苦笑した。随分雑な解決法だが、結局どうにかなったのだから、ここは感謝して然るべきだろう。あの悪趣味な演出は何とも形容し難いが、狐の性とでも思っておこうか。
こうして、さっさと歩き出した丘山の影を踏みながら、欽十朗は漸く帰路に着いたのだった。




翌日欽十朗が訪ねると夜野田隆信は飼っていた金魚が死んでしまったと嘆いて、古い硝子の金魚鉢を見せた。
中には一匹、驚く程大きな赤い流金が浮いていた。






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