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吾(あたし)の旦那を独り占めにして、それで漸く納得したっていうのに、この胸はまだ足りないって欲しがっている。








旦那は、春の花祭で吾を買った。
吾はその時店の親父に売られている商品で、四角い硝子の中に閉じ込められていた。親父は吾を忌々しいとばかりに腕組みをしながら見下ろしていて、それでも吾は、吾を欲しいと言ってその人が優しそうなのを見て、溜飲が下がるのを感じた。
旦那はぽんと、まるで普通にそう安くもない値段だった吾を買って、直ぐに家へと連れて行った。そして吾は無味乾燥な本ばかりが積み重なり降り積もった旦那の書斎で暮らす事になって、少し埃っぽいわと文句を言いながらも嬉しかった。
毎日、旦那は本に埋もれながら、書き物をしている。つまらない原稿用紙に向かって、熱心に筆を滑らせている。少し神経質そうな癖のある字が、性格そのものだと思った。
「…ねぇ、楽しい?」
時々、少し疲れた目で私を見る旦那の顔が好きだった。
ほんの少し微笑むようにして吾に視線を遣ると、すぐにまた原稿用紙に向かって、一心不乱に文字を書き綴る。時々分厚い広辞苑を捲ったり、吾には全く意味のわからない独逸や英国の本を探す。
捲って捲って煮詰まって、そうすると吾はどきどきする。余り体温のない心臓が拍動して、そうして旦那が吾に構ってくれる。口元までその骨ばった、ペン胼胝だけが目立つ指で、吾の口に食べ物を放り込んでくれる。それか、黙って外に出て、帰ってきた時には緑の葉も豊かな花を吾にくれる。
吾は旦那に愛されてる。
だから幸せ。
これで満足。
その筈なのに、吾はまだまだ欲しくて堪らない。
「ねぇ、吾とそれ、どっちが楽しいの?」
だって、原稿用紙や、本に向ける程、吾には視線をくれない。紙切れよりも、吾は無価値で退屈な生き物なの?
吾、そんな紙よりもずっと綺麗よ。真っ赤な着物翻して、誰より軽やかに優雅に踊れるわ。もう子供じゃないもの。
旦那と子供だって作れる。沢山、沢山、男の子も女の子も吾、育てるわ。二人の子供ならきっと可愛い。でも頭は吾じゃなくて旦那に似れば良い。末は学者かお医者様よ。女の子なら、吾の真似をして芸者になったって良い。吾何度もその子の前で舞って、しっかり教えるわ。
「旦那、文字何かじゃなくて吾を見て。ねぇ、ねぇ、無視しないでよ。お願いだから吾を見て!ねぇったら!吾此処に居るわ!答えてよ!吾と紙切れとどっちが大事なのよ!?」
吾が体全体で怒鳴って叫んでも、本の虫に取り憑かれた旦那の耳には届かない。吾は生温い涙を流しながら、体を壁に叩き付けた。そうするとやっと旦那が吾の方を見る。
びっくりした、無垢な子供みたいな顔。
「…あんまり暴れるなよ、朱水(あけみず)」
半分魂の抜けたような声でそう言った。
悔しくて悲しくて吾はもうどうしようもなくなって、何も出来なかった。文字に引き擦られて心ごと彼岸に行こうとする旦那の背中が酷く寂しくて、でもそれ以上に吾も寂しくて。いっそ本に埋もれて死んじまえ、何て悪態すら吐けない吾は何処まで馬鹿なんだろうと思った。
気の早い蝉が煩く鳴く初夏の昼下がり、二人の部屋は旦那のペンが走る鬱陶しい音だけが木霊している。






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あきゅろす。
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