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谷を夜が覆うのは早い。
日が落ちれば、外を歩き回る人影は極端に少なくなる。しかしそれなりの規模を誇る町では、一昔前のようにはいかない。夜警の警察官が時折巡回していたり、呑み屋から帰路に着く者が居たりと、夜は最早無人ではない。
しかし、この夜は違った。
まるで滑るような空気が肌を撫で、纏わりついた。どこからともなく生臭い風が吹き、不快であった。近年になって増え始めた街灯の光も見えず、ただ細い月明かりがあるばかりだ。
欽十朗は、怪異の起きる時というのが分かるようになってきた。人の身には理解が難しいだろうが、恐らくはある程度の規則に則って、起きるのだろう。怪異の起きる時は決まって不気味な程人気がなくなり、その場で必要なものだけが残される。
怪しげな呪い師などは大概、場が云々と語り出すが、成る程、世間の呪い師がどれだけ信用出来るかは別として、場、とはこのようなものを差すのかも知れない。
「…丘山?」
ふと、町を歩く内に後ろを歩いていた丘山が居ないのに気が付いた。まさか既に仕留められてしまったか、と思った時、近くの生け垣が揺れた。
「ここだ」
「何だ、脅かすな」
「本来の姿の方が、鼻が効くのでね」
家を出た時は人に化けていたが、何時の間にやら、狐に戻っていたらしい。背中に幾枚か木の葉を付けている。
「近いぞ」
血を腐らせ煮詰めたような臭いが、歩を進める度に濃くなってゆく。件の、どす黒い血の臭いだ。小道から町一番の大通りに近付くにつれて、気配もしてくる。
理性や意識とは関係なく、生理的な嫌悪、嘔吐感すら巻き起こすその気配は、忌むべきもの、以外に形容すべき言葉が、果たしてこの世にあるだろうか。
「来た」
ゆったりとした丘山の声に、神経質な恐怖が混じる。濃厚な帳の中からのそりと現れたのは、件の黒く濁った体液に塗れた、一匹の巨大な狼だった。黒に近い灰色の瞳と、自然の中にあっては威風堂々と風に靡いていただろう誇り高い毛皮が濡れ、土へと汚辱が滴っている。
狼であったものが、唸る。黄色く変じた牙と、生きながら朽ち始めた歯肉が覗く。赤い鞘から、刀を抜く。鋭い程に無垢な刀身。
欽十朗は、自分が生き物を殺す際に、背徳に満ちた高揚か、己が殺意に対する恐怖に身が竦むのではと考えていた。しかし、実際、何かを殺すという時になり、刃を抜くと、諸々、ありとあらゆる感情は即座に消えて失せた。心は静かだ。余計な気持ちは、何もない。淀みも、動揺もない。濾過されたかのように。
「行く」
唐突に、理解する。
「椿欽十朗」
名乗れ。名を、名乗らねば。礼儀云々ではなく、もっと根本的な、他でもない、自らの魂に賭けて。
「穢術の古狼、お前を斬る」
思考よりも、言葉よりも先に、存在それ自体が結論に到達する。
血の混じる涎を散らしながら、崩れた牙の列が向かう。人では決して真似出来ない、見事な跳躍。どんな険しい岩々の聳える山野までも高く、跳べるだろう。
かつ、と鈍った歯と刀身が交錯する僅かな音だけが耳に届いた。一瞬の間に、体の一部と成った柄から総て、感覚が伝わる。どの皮と骨と肉が、どの刃面に触れているのか。


切れ。


断ち斬れ。ある筈のないものを、あってはならないものを。物事には何事にも、終わるべき時が、あるのだ。
やっと、わかった。刀とは、破邪刀とは斯くあるべきなのだ。それこそが清めであり、禊ぎだ。純化へと向かう殺意と、それを乗せる磨き抜かれた鉄の塊。
それが総て。
一歩、刀を振り、血を振り払い、下がる。
未だ痙攣を止めない狼が、朦朧とした、穏やかな瞳をぐるりと回していた。臭いと悪寒が空気に溶けて消えてゆく。
「…名を返そう」
お前が、祖国の山野に還れるように。お前を縛った、誇りを奪い、汚辱に沈めた者達の魂の端をせめて、削れるように。
「ハイブチ」
ふと浮かんだ、笑ってしまう程情緒のない名を、口走る。
「灰斑。異国の名で済まないが、どうか受けてくれ」
一度、灰色の瞳は目を細め、承諾したかのように、ゆっくりと瞼を閉じた。








欽十朗がこちらを向き、手にした刀の切っ先を鞘に収めるまで、不覚にもその無骨な一連の動作に目を奪われた。
優美さの欠片もないだろう、その身のこなしが、まるで、虎と対峙したかのような錯覚を起こしたのは何故なのか。あの忌々しい破邪刀から授かった虎の鍔、それだけが原因であると断ずるには余りにも強く、生気に満ち満ちた、姿。苛立ちを感じずにはいられない、その。
「丘山」
呼ぶな。止めろ。名を、もう、呼ぶな。おれの名を。止めろ。止めろ。止めろ。
「丘山青というのは、良い名だな」
お前如きが、此の、名を、喚ぶな。
食い縛り、舌に溢れる血の味を、忘れない。忘れない。決して。
それは人間如きに認められた事に対する、屈辱であったのか、それとも、泣き叫んでしまいたいような数百年来の歓喜であったのか。わからない。わからない。わからない。只、あの夜は、煌めく白刃と、愚かしい人間と、噛み締めた牙の痛みを、軋む奥歯の耳障りなのを、忘れない。
黒い血に汚れた蒼白い頬に気付いたのは、醜く流れる涙の一筋があってからで、馬鹿な刀使いは呑気な声で今度は長髪に化けたのかなどとのたまっていたが、詳しくは覚えていない。覚えては、いられなかった。








二つの記憶は、一番苦いものとして胸の内に残った。
痛い位歯を食いしばった、あの日の事を忘れない。










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