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二の姫





 二の姫は兄王に弓を引いた。
 類い希なる豪弓によって、かの部族長、大ハーンたる者の首は裂かれて地に落ちた。一羽の鷹が、羽を一枚零していったので、人々はそれに目を奪われた。乾いた音と共に、姫が自らの長い、生まれてよりただの一度も鋏を入れていない黒髪を切って、天に掲げた。草原の女は生涯、髪を切らない。
 先だっての族長には、娘が三人と息子が一人居るだけだった。三の姫は不幸にも他部族の者に嬲られて幼い内に死に、一の姫は容姿が美しかったので早くに嫁した。二の姫は、兄と共に育った。
 遊び相手と言えるような相手は、身分故に誰も居なかった。もっぱら、兄とその取り巻きに連れ回され、野を駆けて馬を走らせた。兄は豪気な上に、気まぐれで、少年ながら残酷だった。寡黙な二の姫を「何故口を利かないのか」と怒って、口の端が切れて血を流すほど殴った日も、幾つかある。それでいて、遠慮もなかった。幼い姫に弓と矢を持たせて、少しでも指の位置を誤れば、頬を張った。指導ではなく、暴力に近い。しかし、姫は一粒の涙も流さず、作り笑顔で機嫌を取ろうともせず、まるで能面のような無表情のままにやり遂げた。二の姫はいつしか、神の弓と呼ばれるようになった。
 少年期の終わりに、兄は父の跡目を継いだ。猛々しくも兄王は他部族の領地への侵略を開始した。即位してより、わずかひと月の事だった。
 兄王は血に酔う虎であった。また、大地を縦横に渡る狼でもあった。先頭に立って剣を奮い弓を引き、身に纏った衣を深紅に染めた。昔、奪われたもの全てを奪い尽くそうとするように殺し、搾取し、蹂躙した。多く死と、泥に塗れた生が新たに人心を支配した。
 戦火の中にあって、二の姫は常に兄王の左後ろに置かれた。普通なら女は戦場に出ない所を、弓の腕と、血縁である信用を以て重用された。全ての戦で、姫は戦士であり、狙いを外す事のない武器だった。反抗など、しようと思った試しがない。
 ではどうして、神の弓が兄を射るに至ったのか。
 耳を擘いたのは、子供の悲鳴だった。兄の背に剣を突き立ててぶら下がっていた子供が胴ぶるいで振り払われて、病床に着いていた老人が、鶏のような首を掴まれた、悲惨さに対する悲鳴だった。ぬらぬらと白い犬歯を血にぬめらせて、兄王の手は凶暴な迄に強く筋を浮かせていた。
 哀れな老人の首に刃が当てられて、二の姫は矢をつがえた。
 明らかな負け戦だった。無謀な兄が招き、妹はそれに従った。最早、退くより他はなかった。兄は執念から退かなかった。前進した。そういえば、彼が前進する理由を知る人が居ただろうか。腹心の同朋も、亡き父も、母達も、兄が召した側室達も、誰が知っていただろうか。己は、知ろうとはしていなかった。矢を放つ際になって、姫は兄の孤独を想った。僅かに胸が痛んだが、侮辱でしかないと悟って、すぐに消した。
 弦がしなる。楽器のように響く。楽器に触れた事はない。弓と矢は決して友でも、腕でもなかった。武器でしかない。兄を恨んだ時も、憎んだ時もない。不安も喜びも、遠く、地平線の向こうにしかない。焼けた肌、鋭い風も、身の内には届かない。ぎらつく双眸が瞳を射た。そして、首が、落ちた。
 煽られて、乾いた赤土が霧のように舞い上がる。
 姫は馬上に立って、髪の束を掲げた。唯一、彼女の身体で美しい部位が切り離されて、死骸となったのだ。彼女の持っているものは自分しかなかった。だから、一番価値のあるものを差し出した。
「部族の長に連なる血縁として、申し上げる。我が兄、我が王、我が大ハーンの誇りは彼の者と共に地に落ちた。詫びとしては心許ないが、私の持てる最も佳き物を差し上げる」
 奇妙にかすれた、潰れかけた声を聞いて、全ての人々は始め、誰が喋っているのかわからなかった。寡黙な姫の声を知る者がなかったのだ。増して、東西に名を轟かせる侵略王が死んだなど、俄には信じ難かった。
「異論は、あるか」
 吼えるような音に、人々は弾かれたように我に返った。王の首を仕留めた人物こそが、王の武器、神の弓、二の姫であると知ったのだ。異論のある筈もない。彼女こそが強者で、王者だった。今日まで細い身の内に秘められていた王道が、一個の首が持つ光を受けて、漸く指針を示していたのだ。
 二の姫は程なくして王となったが、死ぬまで二度と、弓を取る事はなかった。
 それが兄への追悼であったのか、それとも嫌悪からであったのか、当人以外には分からないままである。









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