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平成帝都事件録







―――平成二十四年。
日本は江戸幕府崩壊後、怒涛の明治維新を迎えた。更に後、大正に移行すると同時に第二次鎖国維新を開始。今年で丁度、閉ざされたまほろばは漸く百年を迎える。






「これは、矢張り盗賊の仕業でしょうか」
ある部下が言った。年若い子爵家の五男。未だ十七歳。まだ若い。鳶色の髪と瞳は澄んでいる。だがそんな事は問題ではない。少し疲労の色が濃いのが問題だ。
「聞いておられますか、國武義燕(くにたけぎえん)大佐!」
「ああ、聞いてる聞いてる。それで?何か考えでもあるのか?綾橋左近(あやばしさこん)兵長」
「ですから!私は、この一連の事件の犯人がこの界隈を根城にする盗賊の仕業ではないかと、そう申し上げているのです!」
はいはい、と聞いているのかいないのかといった様子で、國武義燕は黒い軍服の肩に積もった桜の花弁を払い落とす。はらりはらりと爛漫の春である。赤く塗られた橋の欄干の漆が剥げかけているのを見て、かりかりと爪で二度三度引っ掻いてから手を離す。嗚呼、麗らかな春よ。樹上で囀る不如帰やら目白やらが、蜜を吸ってはまだ若い花を悪戯に河水へと淪落させる。
「聞けば、姦賊めらはこの帝都をも縄張りなどと嘯いているそうではありませんか!このままでは日本軍人の名折れ!何としても、奴らを捕らえ、市民の安全を守るべきです!」
「あー、うん、そうだねー」
「聞いているのですか!國武義燕大佐ッ!」
橋を小走りに、恥じらいながら駆けてゆく二人組の女学生にひらひらと手を振って、さざめくような乙女の笑い声に思わず口元を綻ばせる。
「あー、嫁が欲しい」
はぁ。物憂げに吐き出した息も、花と一緒に流れてゆけば良かったものを。然しこの世は総じて、そうそう上手くは行かないものだ。
「全くもう、あなたという方は…一々女子になど現を抜かさず、ご自分が責任ある立場であるとご自覚下さい!」
「うん、わかった、わかった。例の連続子女殺人事件でしょ?勿論、解決するよ。僕の花嫁となる可能性を持った娘が減るのは頂けないからねぇ」
男だったら、幾ら殺してくれても構わないんだけどねぇ。うっかり本音を漏らしてしまったら、益々綾橋左近がギャンギャン吼え立ててきたので、良い加減事件の現場に向かう事にした。




【帝都連続子女殺人事件】
新聞の見出しを席巻するこの事件の概要はこうだ。
今年に入って後、良家の子女が何者かによって殺害される事件が相次いで起こっている。何れも被害者は水城伯爵令嬢まきゑ、榛男爵令嬢みすゞ、苑囲侯爵令嬢小枝子…等々、何れも名実共に優れた淑女ばかりである。どの事件に於いても短刀によって胸を刺されて死亡しており、犯人の目処は付かず、今日まで被害者を増やし続けている。
この大事件の捜査を軍より命じられたのは、齢三十二にして武勇名高き國武義燕大佐であり、自分――つい先日兵長となったばかりの綾橋左近は、その補佐に任じられたのだ。
「遅れて申し訳ありません!私、今回の事件に当たらせて頂きます、綾橋左近と申します!」
重ねた仮漆によって飴色に照る重厚な扉を勢い良く開き、綾橋左近は事件現場となった苑囲侯爵邸へと乗り込んだ。観音開きの扉を労るようにして、後からのろのろと入ってきた國武義燕は、死んだ魚のような目をしている。
「ああ、お、お待ちしておりました…!」
立派な洋装に身を包んだ恰幅の良い紳士が、その豊満な腹を揺らして二人に駆け寄ってきた。その縋り付くような様子に、綾橋左近は益々使命感を強めたようで、きりりと気を引き締めた。
「ご息女を亡くされた事、心からお悔やみ申し上げます。ですが、必ずや私どもが犯人を―」
「國武様っ…こっ、後悔しております!も、もしも…もしも娘を貴方様に預けていたらと思うと…あ、あのような事をした私共の所にお越し頂けるとはっ…!」
「いや、過ぎた事です。小枝子さんは奥の間ですか?」
熱く語ろうとする綾橋左近を無視して、苑囲侯爵は涙ながらに國武義燕に駆け寄った。どういう事かと綾橋左近が首を捻ると、彼の上司はさらりと答えた。
「以前、こちらの小枝子さんとは見合いをした事があってね。ま、結論からすると僕が袖にされたんだけど…まさかこんな事になるとはねぇ」
しみじみ語る國武義燕に、益々苑囲侯爵は嗚咽を深くする。
「いいえ!そんな公正なものではありません!あれは私の過ちでした…貴方様の出自を理由に、わざわざお越し頂いたのを、酷い侮辱をして邸から追い出したのです!」
とうとう声を上げて号泣し始めた男の肩に手を置いて宥めながら、國武義燕は使用人の少女に目配せをする。殺人事件が起きたにも関わらず、行き届いた振る舞いを見せる女中だった。彼女がしっかりと心を保っているのを見抜いたのだろう、適当な所で話を切って、案内される儘に奥へと進んだ。かつこつと軍靴が床を叩くのを聞いて我に帰った綾橋左近は、急いで上官の後を追った。




結論からすると、現場検証ではこれといった手掛かりを見付ける事は適わなかった。
胸を刃物で一突き。部屋の真ん中に美しい少女が青ざめた顔で倒れ伏し、どす黒い血で白い洋服を汚している以外には、他に何の異常も見当たらなかった。
部屋の鍵は事件当時掛かっていなかったそうだし、家財を物色された痕跡もない。
「うーん、見事に手掛かりがないねぇ」
昼下がりの下町をえっちらおっちら歩きながら、店の軒先を見て回る。時々やる気のない金物屋の主人がこちらをじろりと見てくるが、他には視線というものを感じない。辺りは全く、静閑な場所だ。
「く、國武義燕大佐っ」
「なに?」
「その…被害者が大佐に縁のある方とは知らず…先程は、失礼しました!」
「えー、ああ。まあ、縁があったっていうか、なかったっていうかねぇ…気にする事でもないだろうよ。と、いうか…綾橋左近兵長、君、僕の出自知ってるよねぇ?」
「は、はいっ…」
ふぅ。退屈そうにふらふらと歩く國武義燕が、足を止めて振り向いた。常に物憂げな色を含む閑麗な顔にはうんざりとした表情が浮かぶ。
國武義燕は、賤民出である。
これは軍内部では知らぬ者の居ない、所謂公然の秘密だ。この大日本帝国が誇る国学権威たる國武義真、彼が何処からか拾ってきたのが、当時つばめと呼ばれていた少年、即ち後の義燕であった。何故、権威ある高名な学者が親戚から養子を貰うのではなく、何処の馬の骨かも判らない賤民の子を息子としたのかは本人以外に誰も知らない。だが、更に謎なのは義真が息子を学者ではなく軍人にしたという点で、専属弁護士に預けておいた遺書ですら「家督を息子たる國武義燕に譲る」としか明かさず、真相は故人と共に墓の中である。
通常、軍将校ともなれば良家の子女を娶るのが慣例だが、國武義燕が齢三十二にして未だ独身であるのは、華族諸氏がその出自を嫌っているのが大きいだろう。
「ま、そういう訳で、ね。僕には嫁が来ないんだよ」
わかったかな?ぽりぽりと頭を掻きながら、またのらりくらりと歩き出す。厳めしい軍服を身に纏い、軍刀すら腰から下げているというのに遊び人のように見えるとは、此如何なる事か。
常人であれば眉を顰めるだろうが、ここでの綾橋左近は違った。
「でっ…ですが!私はっ!生まれや身分によって人を分ける事には納得が行きません!そのような事は些事であり、非論理的であると考えています!私は先年、夏に起きた軍内部反逆事件を鎮圧した國武義燕大佐の雄姿を拝見し、貴殿の下で働きたいと思い、そして…それがあったればこそ、こうしてここに立っているのです…!」
昨年の夏、【八月事変】と呼ばれる大規模な反逆事件が起きた際、いち早く事態を察知して行動を起こしたのは、謂われなき誹りを一身に受ける忌み子、他ならぬ國武義燕その人であった。誰より早く戦乱の渦中に身を投じ、先陣切って多勢に無勢の反逆者の群れに立ち向かうその姿を、遠く離れた一個師団の中で埋もれながら、綾橋左近はただ見ていた。
――獅子だ。獅子が居る。
全身が総毛立つようだった。子爵家の五男、末子に生まれた左近は、両親や兄達の厚い庇護の下に育った。何も考えず言われるが儘に軍人になり言われるが儘に職務をこなした。そして下った、初めての大仕事で、彼は軍人として目覚めた。
故に、綾橋左近に取って、國武義燕という存在は唯一無二の特別なものとなったのだ。
「ああ、そう。ちょっと煩いから黙っていようか、綾橋左近兵長」
「なっ…!」
意を決して言ったというのに、いとも容易くかわされてしまい、肩透かしを食ったような気分になる。あの時、あの戦場ではこの上なく勇ましく誰よりも凛々しい戦士であった男が、何故こうも昼行灯であるのか。
「なんとなーく、君が僕の下に配属された理由はわかったよ。それで、話は変わるんだけど、どうやって僕があの事件の情報を得たのか知りたい?」
「えっ、は、はいっ!」
「じゃ、ちょっと黙ってようか」
にっこり。有無を言わせぬ上官の笑顔に、流石の綾橋左近も口を閉じた。
少しばかり入り組んだ道を歩いてゆく。幾つもの角を曲がると、板塀に囲まれた迷路のように複雑で細い通り道の突き当たりに、良い意味で年季の入った茅門があった。國武義燕は無言のままにそこを開けると、これまた古びた石の階段を登ってゆく。どうやら庭園であるらしく、階段の両脇には濃い緑を湛える苔の隙間に、虎杖や落ちた椿が差し色となって景色を彩る。向かう先には樹齢数百年といった所か、見事な桜が太い幹に数多の枝を付けて、煙るように咲き乱れている。
「よぉ、義燕」
不意に声が聞こえてきて、綾橋左近は耳を疑った。まだ若輩ではあるが、彼とて軍人の端くれ。気配を感じ取れぬ程の達人が近くに居るとなれば、これは由々しき事態だ。
「遅かったな」
「あー、ちょっと苑囲侯爵邸で手間取ってな」
「だろうと思ったぜ。娘をさっさとお前に呉れてやれば死なずに済んだだろうによ」
尚も話し掛けてくるのは誰だろうかと、体を右にずらして見上げてみると、長い黒髪を顔に垂らした、派手な風体の男が桜を背もたれに酒を煽っていた。既に大分呑んでいるようで、顔が赤い。
「あっ!お、お前は…!」
「義燕、なんだその餓鬼は」
「僕の部下らしい。で、まあ、それはそれとして、連続子女殺人事件の手懸かり、何かないかなぁ。あとついでに嫁のあても…」
「後者は無理だが、前者はお前の持ってるネタ次第だな」
まじまじと男を観察していた綾橋左近が声を上げ、そして絶句するが残りの二人はどこ吹く風とばかりに話に没頭している。
「って!國武義燕大佐!」
「なに?」
「なに、ではなく!何を呑気に話などしているのですか!その男は指名手配中の階平夜(きざはしへいや)ですよ!?」
帝都・東京には数年前から巷を騒がせている賊が居る。豪放磊落疾風迅雷。不正を働く政治家や役人を狙って盗みを働き、事が終わるや否や雲散霧消と行方を眩ますならず者共の将を、こう名付けたのはどの新聞記者だったのか。
【平成盗跖、階平夜】過去古代支那国で孔子すらも言い負かしたというかの大盗賊の名を二つ名に、長髪の姦賊は帝都を駆ける。幾ら追おうが捕らえられぬその者を、庶民が喝采の拍手と共に迎えるようになったのは一体何時からであったのか。
軍基地内部には本部と支部を問わずその似顔絵が配布され、特徴を箇条書きにした通達を暗記するまで見せられる。間違える筈がなかった。
「煩ぇ餓鬼だな。おい義燕、お前の部下だろ。黙らせろ」
「あー、うん。綾橋左近兵長」
とん。尚も噛みつこうとする綾橋左近の額を、堅い指先が小突いた。余りにも素早く滑らかな動きを目で全く捉えられず、息を呑む他ない。
「これは国家機密だ」
國武義燕は、獅子の瞳を以て厳かに告げた。




正義に燃える良家の子息に、世に蔓延る澱や膿を飲み込ませるのは難しい。
故に、賤民という出自故に世の辛酸を知り尽くしている國武義燕も、まだ年若い部下に事の次第を理解させようとゆっくりと、懇切丁寧に言葉を尽くしてやっていたのだが、綾橋左近は動揺するばかりでいよいよ混乱に陥ってゆく。かの大盗賊、平成盗跖と名高い階平夜も後半は大丈夫かよと不安になって、説明と解説に協力する有り様だった。
よって、たっぷり約二時間を掛けて青年将校は現状を、詰まりは国家機密とやらを理解した。
「つ、つまり、階平夜率いる盗賊団は、国家認定の義賊であるという事ですか?」
「ああ、そこはちょっと違うかなぁ。あくまでも階と軍は対等な立場で、同盟を結んでいるっていう形」
「要は、お前ら軍人が帝都の表を、俺達春魯(しゅんろ)が帝都の裏を担ってるってぇ話だ」
戸籍ある一般人が起こす事件は国軍が、戸籍なき闇の人間が起こす事件は春魯が引き受け、各々の裁断で処理する。だが、事件によっては闇の人間が一般人を害し、またその逆も然りだ。どうしようと接点は必要になる。
「まあ、あれだよ。戸籍なき住人の数は未知数だからねぇ…一斉検挙出来ないなら、手を組んだ方が早いという事さ」
欠伸混じりに言葉尻を濁す國武義燕には、罪悪感や緊迫感は微塵もない。驚くと同時に呆れつつ、平素と変わらない上官の態度に、これが全て真実であると受け止めた。
「じゃあ、義燕、こんな所で管巻いてようと仕方ねぇ。良い加減、互いの手札を切ろうぜ。なぁ?」




高い位置で左右に作った三つ編みをくるりと輪にして結った髪が、一本歩く度に微かに揺れる。
小豆色に小紋を染めた着物に西洋風の前掛けをして、袖が邪魔にならないように、白い襷で捲っている。凍るように冷たい井戸水と共に冬を越えたのだろう華奢な手は、洗濯によって酷く皹てしまっている。
「針屋静(はりやしず)さん、だね?」
「軍人さん…?」
「うん、この間捜査に来た時、君が案内をしてくれただろう?ああ、改めて名乗ろう。國武義燕です。宜しく」
突然、しかも邸の裏庭にある井戸に現れた軍人の姿に、針屋静は不信感を持ったらしい。形良い眉を寄せて、警戒している。
「ちょっと気になる事があってね。こういうのは、家人に聞くよりも、君のような使用人に聞いた方が早い場合も多いから、ねぇ」
「あ…すみません。そういう事でしたら、まず旦那様か奥様に聞かないと…」
それとなく立ち去ろうとする針屋静の腕を、國武義燕が掴む。
「いや、聞いた方が早いんだ。針屋静さん、君が事件の犯人なんだから」
針屋静が息を詰めた。男の手を振り払い、大きな団栗眼を更に見開く。
「なっ、なにを…」
「根拠ならある。君は眉一つ動かさず、僕を案内していた。普通、奉公先の家のお嬢さんが殺害されたのなら、もっと取り乱すか怯えるかする筈だ。だが君は、余りにも場馴れし過ぎていたからねぇ。嫌でも気になるさ。そして、何よりも…実は僕は半年程前に小枝子さんとお見合いをしているんだ。女中頭に聞いてみたんだけど、確か、君はここに勤めて一ヶ月だから、知らないのも当然だ。ここまで言えばもーわかるよね?」
最後の一言を耳にした途端、針屋静の腕から力が抜けた。物言いたげに開いたままだった桜花の唇も真一文字に引き結ばれる。少し俯いているせいで、目は見えない。
「…小枝子お嬢様は、一体何と仰ったのですか?」
「想っている方が居るので申し訳ありません、だって」
「そう、ですか…そんな事を…」
そして、針屋静は沈黙した。万一の事があれば援護に回れと命じられていた綾橋左近が、野外に取り付けられたボイラー機の影から現れる。
「國武義燕大佐、これで――」
「来るな左近!」
吼えるような怒声の内容を把握するよりも前に、綾橋左近の頬に一本、赤い線が付いた。細く小さい円錐形をした針が地面に落ちる。吹き矢だ。
「毒が塗ってあるわ。動かない方が賢明よ」凜とした少女の忠告よりも先に、膝からくず折れるように地に這い蹲る。辛うじて両腕を着いて俯せに倒れ伏してはいないものの、不吉な震えが止まらない。
「全く、小枝子お嬢様も、余計な事を…これだから、自分の都合しか考えない依頼人は厭なのよ」
「矢張り、被害者の協力あっての事だったのか」
連続子女殺人事件の共通点は、被害者が殺されている以外には部外者が侵入した形跡が見当たらない所だ。おまけに、被害者の遺体に抵抗した後もない。幾ら警戒する必要のない顔見知りだったとして、正面から刺されているのだから、着衣の乱れすらないのはおかしい。
「ええ、勿論。依頼を受けたなら、必ず仕事は遂行するわ。改めてご挨拶します。わたしは〈心中屋〉針屋静。どうぞご贔屓に」
「うーん、こんなに可憐な娘さんが、まさか殺し屋とはね…所で、僕の部下に使った毒の詳細を聞きたいんだけど、教えてくれないかなぁ?」
部下を無駄遣いするなって上が煩そうだからねぇ、と独り言のように零すが、針屋静は対峙したこの軍人が並ではないと看破していた。間延びした喋り方とは裏腹に、慎重に間合いを測っている。
「勘違いしないで下さる?殺し屋など、あんな無骨で野卑な人種と一緒にされては困ります。わたしはあくまでも心中屋」
「これは失礼。じゃあ、別な場所で相手の男は死んでいるんだね」
「ええ、表向きは失踪という事になっているけれど、書生の一人二人消す位は訳ないわ。因みに、何れもお二方の合意を得た上ですので、ご心配なく」
「って、言ってもねぇ…法律上、殺人罪は殺人罪なんだけど…な!」
ぱらり。花が散るように、針屋静の袖が落ちた。襷もほどけて、肘から垂れ下がっている。
國武義燕が居合いで軍刀を抜いたのだ。
「任務中の軍人以外はね、殺人は許可されていないんだよ。残念ながらね」
「軍人なんて、浪漫がないにも程があります」
針屋静はうんざりしたように嘆息すると、懐から出した小瓶を遠くに投げ捨てた。陽光を受けて、孤を描きながら中空で硝子と、中に入った液体が乱反射する。恐らくは、解毒剤。嘘かも知れぬ。中に入っているのが水であったなら、下手人と部下の両方を見逃す事になる。なるが、何の前振りもなく針屋静が瓶を投げた事、そして彼女にも自分にも、実際的に機動力を持った味方が居ない事から、國武義燕は煌めく小さな塊に向かって走った。
「…あー、そうだ」
心底面倒臭いといった様子で呟く。
「これ、服用するのか注射するのかわからないなぁ」
蓋を開けた瓶を鼻先に近付けると、確かに薬品の臭いがした。
まだ年若い、女中であった筈の少女の姿は消え去っていて、死にかけた部下しか落ちていない。




【心中屋、針屋静】
数日後、新聞の一面を飾り、少女暗殺者が華々しくその名を世に知らしめた。軍内部も事件の重要性を認識し、本格的な捜査を開始した所、溝川の中から若い男の死体が上がった。他にも下水道から別な男の腕やら足やらが上がり、針屋静の凶行が明らかとなった。彼女は巧妙に依頼人の邸に出入り出来る立場を獲得し、己の仕事を成し遂げていたのだ。
ふぅ。畳んだ新聞を花台の上に置き、國武義燕はわざとらしい溜め息を吐いた。
「合図があるまで出てくるなって、言わなかったっけ?」
「申し訳ありません!私の油断が原因です!如何様にも処罰を!」
「うーん、面倒臭いから却下。それより、さっさと退院するか、可愛い看護婦との仲を取り持つかしてくれない?」
すぐ傍で甲斐甲斐しく老人の食事を手伝っている白衣の天使にひらひらと手を振りつつも、部下に対する無理難題の手、いや口を緩めない。ここは流石というべきか。看護婦の方は軽くいなすようにしてはいはい、と微笑みを向けてから、また職務へと戻ってゆく。
「畏まりました!不肖、綾橋左近、医師との直接交渉にて退院許可を勝ち取って参ります!今暫くお待ち下さい!」
「いや、後でいいから。それと綾橋左近兵長、お前僕の扱いに慣れてきてない?」
さり気なく嫁獲得を拒否してるよね、と零して、窓から外をぼんやりと眺める。矢張りここからも桜の木が見えて、うむ、上から見下ろす桜もまた乙だなと納得する。長い年月に剥げかけた、窓枠の白い塗料を爪でかりかりと引っ掻くと、ぱらぱらと散らばって粉になってゆく。ああ剥がれたなと思った所で、國武義燕は再び話題に戻った。
「階に聞いてみても手掛かりらしい手掛かりはないっていうし…立派な玄人だねぇ、あの娘。まだ十六歳らしい。元はただのお針子で、一般人。きっと秀才でもあるだろうが、天才だ。あ、左近、今お前幾つだっけ?」
「十七です!申し訳ありません!」
寝台の上に正座をし、頭をシーツに擦り付ける綾橋左近に一瞥もせず、上官は外の景色ばかりを見ている。この病院の出入り口から門の間を、ありとあらゆる人間が行き来している。中には入院患者の見舞いと思しき、袴と長靴姿の女学生達が手に手を取り合って、紋白蝶のように振袖を翻しながら歩いている。
「別に責めてないんだけど…まあいいや。兎に角、彼女は全てから逃げ切るつもりらしい。帝都の表からも、裏からも。狭間の住人、って言えば分かりやすいか」
「つ、つまりそれは…針屋静が未だこの帝都に潜んでいるという事ですか!?」
「そうだろう。彼女が言う所の浪漫の宝庫など、この帝都を於いて他にはない。針屋静は帝都と心中するつもりなんだと思うよ。それも無理心中だ」
綾橋左近は、告げられた話の、余りの内容に絶句した。そんな危険人物が、尻尾も掴ませず影さえ見せずに、この帝都に潜んでいる――
愚かにもあっさりと毒に倒れた自分が、この先針屋静を捕らえられるのかと、悔しさと恐怖に奥歯を噛み締めた。
「…しかし」
國武義燕が、真剣な眼差しでだらりと下に向けていた顔を上げ、背筋を伸ばした。
「看護婦も良いけど、やっぱり女学生が一番だねぇ」
「結局それですか!?」
「可愛いじゃない、女学生」
看護婦の注意を無視してギャンギャンと吼える若造を余所に、國武義燕は女学生達に向けてひらひらと手を振る。際立って背が高く、おまけに軍服だからだろう。女学生達も、さざめくように笑いながら、しかし年相応の恥じらいの入り混じった表情で手を振り返してくる。
だが、淡い桜色と白の市松柄の着物に臙脂の袴を履き、左右それぞれに高い位置で作った三つ編みを輪にしている少女だけは、ゆっくりと口角を持ち上げるだけだった。目が合って、彼女は再び門外へと向かった。
白い壁の向こうに流れる雑踏に紛れ、忽ちその小さな姿は埋没していった。







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