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「はっ、はっ、はぁっ…!」
息を切らして倉に駆け込んできたその姿を見て、誇らしくなった。喜びに、泣けない筈なのにけれど、泣きたくなった。
ああ、この子は矢張り椿なのだと。




「どうしたの?鉦継」
水を浴びたかのように全身に汗を掻いて、十三人目の椿がその清廉な鋼の瞳で真っ直ぐに私を射抜いた。私はにっこりと笑って出迎える。何が起きたか知っているというのに、不謹慎にも。
「丘山が…骸骨に連れて行かれたっ…」
息を整えながら、菓子の入った袋を投げ出して、こちらにやって来る。
「どうすりゃ良いんだ…知ってんだろっ…?」
言葉使いや態度は粗野だが、心根に卑しさはない。確固たる意志を持って戦うべく、私を、刀を握るべくして生まれてきた子。
矢張り、欽十朗がこの子に名を与えたのは間違いではなかった。
「行こう、椿欽十朗鉦継、我が主よ。お前の名を、私の銘を、魂に刻み込む為に」
数十年振りに、谷の綻びを、歪みを正しに行こう。連綿と続く半身の子孫と共に。




世は絶えず移り変わる。
人も物も形を変えてゆく。有り様も名前も変化する。そしてそれは、怪異も妖も同じ事。或るものは住処を追われ、また或るものは人に溶け込んだ。
一方で、新たな妖新たな怪異も生まれている。激動の時代に人の欲望と感情は尽きず古いものとの軋轢は悲鳴を上げている。
数百年にも渡って椿家当主と鍔鬼が作り上げてきた谷の守護でも、拭い切れぬ程には、時代の奔流は強固であった。
「あの狐を拐かしたのは、私も知らぬ新しい妖。私は古きもの。鉦継、あれを理解出来るのはお前しか居ないわ」
「理解っ…て、一体どうすりゃ良いんだよ…」
「場があるのだから、対処する機会があるという事よ」
「場?」
「ええ。場は相手を選ぶ。必要な時間、必要なものだけがその場に残される」
鉦継の曾祖父、欽十朗は説明せずとも理解していた。だけれど、この子には全てを一つ一つ教えて行かねばならない。圧倒的に経験が足りないのだ。怪異に対しては勿論、人生経験が足りない。
そういえば、谷の調停の任に着くのは鉦継が最年少だ。椿の血が生んだ最高の主、欽十朗でさえ、鍔鬼の名を知ったのは十九の時だった。
「相手の妖と交渉するか倒すか、祓うか…」
「祓うって、そんな事出来んのかよ…」
「出来る。鉦継、お前と、私なら」
私は禊紅梅、鍔鬼。刀を握る椿の者の手を汚さぬよう血を留める鍔の名を冠した、白刃の鬼。この谷にあるもので、私と、椿の力の及ばぬものはない。
「例え時代が進み、古きものが朽ち行こうとも…椿欽十朗、お前が私の名を、銘を、魂の形を覚えているのなら」
堅い感触の、黒い石で固められた地面。夜の闇を煌々と照らす灯り。走る鉄の車に、濁った空気。乱立する高く四角い建物。死の匂いの薄い街並み…
疾うに朽ち果てていてもおかしくない私が、刀が、はっきりと未だ存在している。鉦継が椿と鍔鬼とを繋いでいる。
「んな事言っても…」




「私が居る」




鍔鬼は言い切るが、鉦継はどうしても信じ切れないでいる。
隣に話し相手が居るから「場」の持つ静寂と威圧感には慣れてきたが、この少女の姿をした鬼が、本当に強い力を持った存在だとは思えない。父親よりも気迫があるのは認めるが、正直、本当に人外なのかと疑ってすらいる。
それに、オレにやれとか無理だろ…
「ここね」
鍔鬼が足を止めたのは、問題の交差点の前だった。夕暮れの道に信号が緑色の光を落とす。
「…線香臭ぇ」
「抹香ね。葬儀に関係のあるものだわ」
「分かんのか」
「ええ」
五感がないからこそ、魂で。
「…来たわね」
鍔鬼が言うなり、背後に気配を感じて鉦継は素早く身構えた。振り向くと、昨日と同じように、骸骨が濁った目玉で此方を見ている。
こちらに向かってくるのではなく、ただ佇んでいるだけのようで、動く気配はない。てらてらと光る髪が滑るようで気味が悪い。
湧き上がる生理的な恐怖と嫌悪を必死に宥めながら、鉦継は頭の中で同じ単語を繰り返す。
葬儀、道路、交差点、青信号、葬儀、道路、交差点、青信号…
ふと、道路の先に骸骨と同じ、しかし微かな気配を感じて目を遣ると、ひしゃげたガードレールの下に空の牛乳瓶が見えた。隣には枯れたらしき花の残骸と、小さなテディベアが見える。
交通事故だ。
「…あそこで、轢かれて死んだのか?」
濁った水を溜めるばかりの薄汚れた瓶を指差した。睨むように目を合わせる。なんとなく、だけど、分かる。本能っていうのか?絶対に目を逸らしちゃいけない。
「青信号で渡ってる時に跳ねられたのか?だから、悲しくて別な奴にちょっかい出すのか?もしそうだったら…止めろよ、そういうの…」
骸骨は答えない。テディベアが供えられていて、髪が長い。きっと女だ。よく見れば骨格も華奢な気がする。
「おま…いや、あんたが連れてったの、オレの身内なんだよ。まだ付き合いとか殆どねーけど、でも、返してくれよ」
絞り出すような言葉が、自分自身の肌に痛い。全然纏まってない。ダメだ。オレが弱いって、全然ダメだってストレートに分かる。多分「場」のせいだ。




「チガウ」




「鉦継っ!」
一瞬だった。声が耳に届くよりも前に、抹香臭い骸骨の顔が、目の前にあった。
違う。違う。違った。この、濁り切った目は、悲しいとか寂しいとかそういうんじゃない。
絶望して何もかも恨んでる目だ。
「車ヲ運転シテタラ子供ガ飛ビ出シテ来タ。慰謝料ガ払エナクテ婚約モ破棄サレテ、ダカラ首ヲ吊ッタ。ワタシハ悪クナイアノ子供ガ急ニ飛ビ出シテ来ルカラ。ダカラアノ子サエ…」
ぎりぎりと、食い込んで痣になりそうな位、強く肩を掴まれる。掴まれた場所から、炎が上がる。燃える。熱い。
「アノコサエ、イナケレバ」
腐った息が鼻に掛かる。肉の焦げる臭いがする。指を外そうとしても、外せない。
「罪人を喰らう火車を…人間が食ったのね…」
鍔鬼が嫌悪を滲ませる。
「火車ってなんだ!?」
「罪人の死体を攫って喰う妖よ。その女は怨みが強くて、逆に火車を食った」
火車は苛烈な妖だ。間違って子供を跳ねた悪意なき罪人の肉を喰おうとするなどと、本来なら考えられない。業の深いものの肉を好むのだから。食物が不足して、元々力が衰えていたという事だろうか。それにしても、人間が妖を食べるなど、信じられない。
「なんだよ…だったら、何でそんな事すんだよ、あんた…」
人を轢いて、恋人に捨てられて、金がなくなって、人生台無しになって辛かったのは確かだと思う。でも、だったらなんでだよ。
「ワタシヲ人殺シッテ言ッタ人達モ皆人殺シニナレバ良イト思ッテ自殺シタノニ、皆マダ人殺シジャナイノ。ダカラ誰カヲ殺サセテアイツラモ人殺シニシテヤル」
「そしたらあんたほんとに人殺しじゃねぇか!止めろよ!ほんとに誰か殺したらもうお仕舞いだろ!」
「鉦継っ…」
止めようとしてTシャツの裾を引く鍔鬼に気付くよりも前に、叫んでた。




「なんでもかんでも、事故のせいにしてんなよっ…!」




しん。また、音がなくなった。服が燃えて爆ぜる音も聞こえない。炎がただ静かに揺らめいているだけだ。
「…ワタシハ、マダ、人殺シジャナイノ?」
「あんたの運転してた車が原因で、人が死んだのは確かだよ。でも、全部が全部あんたのせいじゃないだろ…」
子供から目を離した母親、車の前に飛び出してきた子供、恋人が事故を起こしたという理由で婚約を破棄した男、不意に起こしてしまった事故に対して「人殺しだ」と言った誰かの声。なにが悪かったのかなんてわからない。
「そうよ。証拠に、事故で死んだ子の魂はこの場にない。元からもう、お前は解放されている」
「デモ、ワタシハ、アノ妖怪ヲ…」
「人を喰う妖は人に狩られるもの。人に喰われるのも仕方がない事。喰うも喰われるも、妖に取って穢れではない」
言い切った鍔鬼の表情が和らぐ。
「お前の名を斬って捨てよう。鉦継」
何時の間に抱えていたのか、黒く艶やかな鞘の刀を鍔鬼が差し出してくる。
「抜きなさい」
禊紅梅。鍔鬼の本体だ。
「ちょっ…え、ま、オレこんなん持った事ねぇんだけど…」
「つべこべ言わずやりなさい」
「お、おう…」
ずっしりとした重さのある刃を、鞘から抜く。白く光る刀身が月みたいだ。なのに強い。鍔鬼の意志を感じる。真っ直ぐに抜くと、空気が研ぎ澄まされてゆく。
「き、斬るってマジかよ…」
「いいからさっさとやりなさい」
柄を握って、構えて、骸骨と対峙する。鍔鬼の姿は消えて、握った禊紅梅から何をすべきかが伝わってくる。
気取っているようで絶対に使いたくないと思っていた作法の文句を口にする。




「…――椿欽十朗鉦継、参る」




白刃は無用だった筈の言葉を斬って、骸骨の姿は夕日の朱に霧散した。
刀身を鞘に収めて袋に仕舞うと、鍔鬼と日常の喧騒と、そして、消えた時のままの姿で、丘山が戻ってきた。
「ふぅ、やれやれ、牛乳瓶の中に閉じ込められるとは思ってもみなかったよ。それで、僕の菓子は無事かい?」
余裕綽々に言いやがったから、とりあえず一発殴っておいた。






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あきゅろす。
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