肆 あれは一体何時だったか。 冬だったように思う。確か雪が降っていて、己れはまだ餓鬼だった。寒さのせいか、ヌイさんが一度、己れを抱えて眠ったのを覚えている。低い体温もすべらかな肌も。硬い骨ばかりの体だった。ヌイさんは年中胸を開けていたから、さぞ冷たかったろうが、眠れないでただ驚いてばかりだったせいで、余り気にはならなかった。随分時が過ぎてみたけれど、そういえばヌイさんから己れに触ってきたのはあの一度きりだ。 「起きましたか」 「…手前か」 「おや、結構な物言いですね。看病していた人間に対して」 これだから野卑な狩人は。厚い面の皮で愚痴る破戒僧が嘆息して軽く首を振る。溜め息を吐きたいのはこっちだ。折角気持ちの良い夢を見ていたというのに。 「どうなった」 「どうしたもこうしたも…あなたが一条さんの札を墨染めにしたせいで効果が切れて、一条さんがあなたを昏倒させて手近な建物の屋根に投げて、最後に全部斬って一件落着です。住民の皆さんは午前中一杯通りの掃除に費やしていましたよ」 不本意ながら私も手伝う事になってしまいました、とほざく坊主を殴りたいが、頭がズキズキと痛んで仕方ない。どうにかこうにか頭を起こす。 「そうか…己れの頭が痛いのはヌイさんが」「いえ、一条さんがわたしにあなたを投げて寄越しましたが、わたしが受け止めなかったので鬼瓦にぶつけたのですよ。一条さんはきちんと綺麗に手刀を極めていました」「くたばれ生臭坊主」起き上がり胸倉掴んで殴り掛かるが「嫌ですね信心のない方は」ぱし、受け止められてしまい両者の力が拮抗し膠着する。 「それで、ヌイさんは」 「全て斬り捨てた後、丁度日暮れを迎えましてね、どこぞの女人に手を引かれて行きましたよ?」 「くそっ!庄屋のおキヨか…!?」 色好みの若後家を思い出して、エムシは歯噛みした。 不味い。ヌイさんが食われる。いや寧ろもう食われている可能性が高いが。 「お養父様は何か女人と問題を抱えておいでで?」 「ヌイさんは油断すると際限なく貢がされるんだよっ…!」 「ああ、成る程…」 だからこの長家暮らしですか。利天はどうにも腑に落ちなかった事の答えを悟った。 アヤカシを仕留めて役所に届け出ると、仕留めた獲物の大きさに応じて賞金が支払われる。お尋ね者を捕まえるよりもずっと高い金額でだ。人と同じ目方のアヤカシでさえ二両は貰えるのだから、ヌイが仕留めた二階建て程もあるアヤカシならば、二十両は下らないだろう。あれだけの大物を何時も屠っているのなら、今頃御殿が建っていてもおかしくない。それなのにこんな長家で貧乏暮らしをしている所を見ると、ヌイが金銭に無頓着なのを良い事に、あちらこちらから毟り取られているのだろう。否、それ以前にきちんと仕留めたアヤカシの数と大きさを役所に申請しているのかどうかすら怪しい。エムシの苦労も分かるというものだ。 「…息子さんならあなたを探しに血相変えて出て行きましたよ?」 一条青年の労苦に軽く合掌してから、利天が呟いた。呼ばれて、ヌイが入ってくる。 「良かった。綺麗に剥がれたようですね」 体を洗ったのだろう。ヌイの腹には墨の汚れも、トリモチの欠片もなかった。鮮烈に件の、的を模した刺青があるばかり。 「…――どうか、この度起こした数々のご無礼、お許し下さい」 姿勢を正し、畳に指を着き、静かに頭を下げて、また上げる。 「この地を識る為にはどうしても、一条さんか街、どちらかに新しく術を張らねばなりませんでした。未熟ながら思索した結果、街よりもあなた様に術を施した方が被害が少ないと判断し、あのような行動に出ました。無礼は承知の上です。斬りたくば私をお斬り下さい」 再度即頭して沙汰を待つが、ヌイは利天の前に座っただけで、何もしない。様子を窺うように顔を上げると、僅かに口角を上げた唇が目に入った。 「楽しかった…ありがとう」 恐ろしく甘く、そして冷たい声だ。微笑みはほんの一瞬だけで、また元の無表情へと戻ってしまう。驚くやら感心するやらで、利天は曖昧に笑ってみせた。 「…貴方は、明晰な方ですね」 適わない。認めて、利天が切り出す。 「聞こえて、いないのでしょう?」 「……」 沈黙が何よりの肯定だった。天下に轟く気狂いのヌイ、一条ヌイは、聾者なのだ。そして、恐らくは誰も気付いてはいない。 「街で、貴方に関する話を収集しました。聴覚を失ったのは…恐らく十年前。少なくともこの街に来た時、貴方は既に聴覚を失っていた。だが、並外れた経験と読唇術で聴覚を補った。最初に呼び留められる時は気配で、それ以降は振り向いて相手の唇を読めば良い。人々は貴方のその出で立ちにばかり目が行くようになり、よもや聾者だとは思わない。更に貴方は、素晴らしい記憶力の持ち主でもあって、十年以上前に失われた喉と耳の感覚を覚えていて、一言二言なら、集中して注意を払えば、普通に発音出来てしまう。その会話も、必要に迫られて、既に行動や発言を見切った相手としか手段として使わない。多少不自然な点があっても、普段から気ままに動く貴方の言動を相手は気にしない。違いますか?」 余程注意して、全ての先入観を取り払ってみなければわからない。一条ヌイの振る舞いは見事としか言いようがなかった。完璧だ。彼の五感の一つが欠けているなど、誰が思うだろう。エムシも、この事実は知らないに違いない。 「私は…今年で二十八を数えますが…生まれて初めて、賢者と称して良い人に出会いました」 「俺は、普通に、しゃべれて、いる、だろうか?」 ああ、此の人は、一体何処までうつくしいのか。 「…はい。とてもお上手ですよ。貴方に喋らせるのは酷というものです。私の方から質問致しますから、首を縦か横に降って頂けますか?」 肯定の縦。 「貴方に聴覚がないのは、他言無用ですか?」 縦。 「わかりました。では、あなたの腹の刺青は、術ですね?」 縦。 「それは、的、ですか?」 縦。「その術を施した人物の行方は分かりますか?」 横。 「その人物は、存命ですか?」 横。 「そうですか…では、この街と貴方に施された術の、術式は分かりますか?」 横。 「…ありがとうございます。充分です。的、というのが分かっても、私ではどんな術式なのか見当も付かない。悔しいが、次元が違う」 蛇の目ならば、朝鮮や清にも見られる紋様だ。だが矢の的となると、清よりも更に西の地、和蘭陀や葡萄牙にも共通だという。予測していたよりも、この因縁は遥かに根が深い。 「残念ですが、出直しのようです」 だが、諦めはしない。この術が解き明かせれば、恐らくは長年に渡り追い求めてきた疑問の答えに連なる何かが現れる。 突如として崩された日常、世界の理。それに対して、若き日の利天が抱いたのは「何故」その一言だった。アヤカシとは何者なのか。何故人だけを食らうのか。理不尽に昼から夜へと追いやられた時に感じたのは、途方もない怒りだった。 そして、これは勘でしかないが一条ヌイもまた、アヤカシと其れに連なる物に、何かを奪われている。 「何時か…貴方の体にあるその刺青と、この街、アヤカシに纏わる全てを解き明かした時には、真っ先に参上致します」 立ち上がり下駄を履いた利天に対しヌイは口を開きかけたが、閉じた。くすりと笑って利天は再びヌイに歩み寄ると、身を屈めて口付けた。 「矢張り、気狂い、との呼び名に反して…可愛らしい方ですね」 呆けたように一度だけ瞬きをしたヌイの顔立ちが整っているのを知って、利天は改めて賢者の顔を鑑賞した。隈が酷い上痩せ過ぎているが、丁寧に造られた顔だ。背丈の割に肩も細い。 「おっ、ま、え…!」 「おや、早かったですね」 振り向くと、わなわなと怒りに震えるエムシの姿があった。そういえばこの若造も大概養父を養父として見ていないが、一条ヌイは大丈夫なのだろうか。他人様の家の事とはいえ、心配になってくる。 「斬る」 「遠慮しておきます」 居合いで袈裟斬りにしようと挑んだエムシの剣撃を利天は柳のようなしなやかさでかわし、外へ逃げる。あっさりと脇を抜かれたエムシに、すれ違いざまこう囁いた。 「男の悋気は見苦しいですよ、息子殿」 それでは失礼。声にならないエムシの絶叫が途絶えるより前に、利天は素早く雑踏に紛れた。 その後は地団駄踏んで悔しがり、ヌイに口を濯がせようとむきになっていた所、最愛の養父に鬱陶しいとばかりに手を払われて落ち込む養子の姿があったとかなかったとか。 奇しくもこれがリテン…異民族の言葉に直すと「しなやか」との意味を持つ修行僧と一条ヌイ、一条エムシの奇縁の始まりであった。 [*前へ][次へ#] |