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拾壱




「もう、踊りたくない」
ヌイははっきりとそう言った。二ヶ月が経ったある日、人目を偲んで納屋に繋がれた俺の元にやって来た。あの後、奴がヌイに何をしたのかを俺は知らねぇ。だが、まあ、大方予想通りだろうよ。
化粧を落としたヌイの顔には、赤と紫に痣が咲いていた。少し腫れちゃいたが、それでも透明な肌に浮かぶような色が花火みたく綺麗だったのをよく覚えてる。細い膝はガクガクと踊ってた。格子窓を覆う竹の葉が、緑色の影を落として、益々ヌイを色鮮やかに染め上げていた。
「なぁ、ヌイ…」
今思えば、正気じゃなかった。その前の数日、水しか口にしていなかったせいかも知れない。だが、迷わなかった。他に手段があるとかいう考えが微塵も起こらなかった。
俺の提案にヌイは賛成した。そして、白い鶴と金糸が舞う真っ赤な着物の裾を捲って、足を差し出した。
犬歯が肌を突き破った時の感触を未だに覚えている。滴る血が口腔を満たした時の香りを覚えている。掠れた悲鳴が小さく葉音に紛れたのを覚えている。
「何をしている!」
戸が開けられて空間の恒久性が壊された。
健を、噛み切る事が出来なかった。胃に流れた込んだ血で吐き気がした。奴はまず煙草盆を投げた。ヌイを引き倒して、それからゆっくりと、俺の右目を拾ったやに塗れの煙管で貫いた。頭の中にまで達しようかという時だった。
不意に目から圧迫感が抜けた。
「ヌイ…」
奴が懐に忍ばせていた懐剣を抜き取って、ヌイはそれを獲物に、飼い主を仕留めた。泣きそうに潤んだ目だった。俺を助ける為に、人を殺した。
俺は、見ているだけだった。
血の跡を蝸牛のように引きずって、ヌイは幽霊のようにふらふらと、歩いてどこかに行ってしまった。果たして、泣いていたのか笑っていたのか。
瞬く間に、舞台も、楽屋も紅蓮の炎に包まれた。逃げ惑う人間の中で、燃える町を眺めていた。日が落ちても、火は消えなかった。
火の粉が天に落ちる雪のようだった。




「以来、ヌイの行方は知れなかった」
「それで、噂を聞いてわざわざやって来たって訳かい」
「ああ、そうだ」
昔を思い出してだろう。眉間に深い皺を刻んだ目無しは、絞り出すように言った。外見に似合わず純な想いを悟って、美奈はすこし、哀れになった。
「残念だけど、この街に居るのは別人だよぉ。親分、あんたは見たとこ四十も後半だけど、うっとこのヌイさんは精々二十の半ば。同姓同名ってやつさ」
美奈の頭の中で、不安が渦巻いていた。何故だかは判然としないが、あの一条ヌイと、目無しの語る一条ヌイを重ねてはいけないような気がしたのだ。成る程、気狂いと、火付けの罪人は似通った部分があるやも知れぬ。だが、この街にあって一条ヌイとは土地神が如き存在でなくてはならず、間違っても自らの境遇に涙を注ぎ、悲しみに火を使う少年であってはならない。そんな気がしたのだ。
だが、本能的にわかっていた。同一人物だ。あんなに珍しい名前で、しかも苗字持ちとなるとそうそう居ない。
老いを知らないかのようだ、と、誰かが話しているのを耳に挟んだ覚えがある。あれを言ったのは、エムシだったのかそれとも別な誰かだったのか。美奈はどうしても思い出せない。
「いや、そいつだ」
目無しは断言した。
「ヌイの気配がする」
指一本分だけ開けた雨戸の向こうは、最早夕焼け。尾を引く紅蓮の太陽が、藍に呑まれて悲鳴を上げる。
最早、山から降りてきた獣を部屋に留め置く理由は、何もなかった。






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