第四話「古書店街にて龍に逢う事」 今は空前絶後のストリート・ファイト・ブーム。 異種格闘技戦を更に野蛮に更に自由にそして手軽にした究極の娯楽格闘技。医学の飛躍的な進歩と環境、エネルギー問題の解決による精神的な飽食が生み出した時代の産物。退屈さで死にそうな人間は皆、老いも若きも夢中になって闘技に見入る。有料配信される試合映像を集める。 ルールは簡単だ。 まず、そこかしこにあるバトル・ゾーンの中から一カ所好きなものを選ぶ。次に、対戦人数、対戦方法を選ぶ。そして戦う。それだけだ。 試合の記録を管理するのは世界で知らぬ者が居ない超巨大サイト“Anima”だ。ブームの火付け役にして、現在もストリート・ファイトの市場を一手に引き受けている。この“Anima”に登録すると、公式なファイターになれる。 身元は明らかでなくても登録出来るのがネットならではという所だろうか。人体にICチップを埋め込む何て真似は、プライバシー保護という名の人権によって不可能だ。 バトル・ゾーンは地面に四角く区切られたエリアで、通しで番号が付いている。使用料は無料。その番号と個人のID、勝負方式の三つを“Anima”の試合登録画面に入力して初めて、それは正式なものとなる。 しかし、サイトに登録していない者でも、試合をする事が可能だ。だがしない者は殆ど居ない。何故なら、ファイトマネーが出るからだ。 ファイターにはもれなくAからEの五段階でランクが付けられている。ファイトマネーの金額が変わるのは勿論、“Anima”は算出方法も特殊だ。まず、一試合につき、Aが四百円Bが三百円Cが二百円Dが百円Eが零円、となっていて、試合参加者のランクに応じた合計金額を頭数で割ったものが、試合の販売金額になる。その二割が勝者のものになり、敗者はびた一文たりとも貰えない。 試合は各バトル・ゾーンに設置されたビデオカメラによって録画され、有料配信される。試合の販売金額というのはそういう事だ。だから当然、参加するファイターに人気があればある程動く金額は大きい。 「…嘘だろ…?」 と、野蛮な路上格闘技に興味のなかった僕は、寺の事務職用オンボロノートパソコン(パクッてきた)の画面に向かって呟いた。勿論散らかりまくった部屋で。 画面の中には、昨日出会った長い黒髪に紅蓮の眼をした、美少年にしか見えない美少女が――でかでかとしたAの文字と共に映っていた。 孫悟空――… 誰もが、初めて彼の存在を知った時には、何てふざけた名前で登録しているのだろう、と思っただろう。叉はその余りの傲岸不遜さに呆れ返ったに違いない。最早相棒と言って良いだろう紅孩児についても同様だ。 だが、蓋を開けてみればどうだ? 軽快でありながら力強く、鮮やかな試合を見せてくれるではないか。ストリート・ファイトのファンで、彼を好きにならない者は居ない。 孫悟空の名は最早一種のブランドだ。絶対の価値が約束されている。 本人の性格も良い。ノリが良く、試合前には勝利宣言を欠かさない。来る者は拒まず、去る者は追わず。かと思えば二対二の試合でコンビを組んでいる筈の紅孩児と乱闘に発展し、勝手にバトルロイヤルに変更…どこまでも面白い。ファンはそんなトラブルにも少なからず期待しているに違いない。(以下略) *そういや昨日の悟空の試合って何だったの?何かギャラリー拉致って放棄してたよな? *つか拉致ってww面白すぐるwww *悟空に拉致られたい私が居ますが何か。 *全力で拉致られたい。 *むしろ悟空拉致りたいww *死 ぬ 気 か (^-^) *知り合いだったとしても悟空が試合放棄する何て相当だよな。生き別れの兄弟…はないか。 *悟空が試合放棄とかがっかり〜(>_<) *生き別れじゃないにしても身内なのは間違いないだろ。 *紅孩児かわいそう *紅様苦労人。しかしあのもさメガネ羨ましい。 *もさメガネwwww *今から皆でもさメガネのメガネを砕きに行きましょう。 *おいメガネ…お前のそのポジション羨まし過ぎるだろ俺とかわれ。 *メガネ暗殺計画を本気で立てたい私が居る。 *つか、マジであのメガネ殺されそうじゃね?信者辺りに。 「……」 孫悟空、で検索して出てきた大量の関連サイトを見て、 「無理!」 考えるよりも先にそう叫んだ僕が居た。 「玄!何を騒いどるか!」 「いやそうじゃなくて無理!」 騒いでいるのを見咎めて、法事帰りの父親が怒鳴る。的外れな返事に、父親が首を傾げた。 「クラァ!玄!意味不明な事言っとらんでさっさとパソコン返さんかぁ!事務の山下さんが探しとったぞ!」 「うっさい!今それ所じゃないんだよ!」 と、親子で煩く小競り合いをしていたら、思わぬ闖入者があった。 ガラリ。 「よぉ、お師匠様(仮)朝から賑やかだな」 見慣れた部屋の見慣れた窓が勝手に開いて、見覚えのある顔がひょっこり現れた。因みに、僕の部屋の窓は崖に近い丘の丁度斜面に向いている。 「うわぁあああああ!」 「ギャアアアアアア!」 「そんなに騒ぐなよ煩ぇなぁ」 ひょいと散らかった部屋に降り立った悟空の存在は、土足のままというのを差し引いても、異質だった。散らかった部屋が似合わない。足場を確保しようとしてか、愛用の鉄パイプで床に溢れた物を掻き分けているが、余り意味を成していない。 「えっ、あ、何で僕の家…」 「あー何か今朝、観世音が…」 と、悟空が語り始める。 『ックショー、お師匠様(仮)の居場所が分かんねぇ』 『悟空…ではお前にこれを授けましょう』 『これは?』 『見ての通り、これは何の変哲もない携帯電話ですが、西光寺少年の居場所をGPSで教えてくれるとても便利な道具です。大切に使うのですよ?』 「って」 「何の変哲ない携帯電話な訳ないだろ!何時の間に僕の携帯のID登録したんだよ!」 ぞわっ、と背中に鳥肌が立った。昨日も何となく感じてはいたが、観世音は矢張りただ者ではないらしい。 「あー、何か昨夜、観世音が黒熊怪と一緒にこの携帯持ってパソコンに向かいながらクラックとかセキュリティがどうのとかって…」 「いいから!もういいから!聞きたくないって!」 携帯会社のメインシステムクラック出来るってどういう事だ。有り得ない。 「おい、んなこたどうでも良いが、ありゃお前の親父か?」 「え、あ、うん。そうだけど…」 しまった、父さんにどう説明しよう、と、思ったら…何だか父さんの様子がおかしい。 何時もなら、誰が相手だろうと土足で室内に入れば鼓膜が破れんばかりの勢いで怒鳴り付けるというのに、何故か変なポーズでべったりと壁に張り付いている。よく見たら、顔は蒼白、足はガタガタと震えている。 「ん?」 悟空が眉を寄せ、ずんずんと大股で父さんとの距離を詰める。 「ヒィッ…!」 「んん〜?」 至近距離まで顔を見合わせて、ぱっと離れる。どうやら、これは悟空が相手を観察する時の癖らしい。 「おい、こいつお前の親父じゃあねぇぞ」 「へ?」 髭面の、いかにも生臭坊主です、といった父親の風貌は、全く僕に似ていない。唯一耳の形が似ていると言われた事がある位だけど、幾ら何でも実の父親じゃない、何て断言された事は… 「もっ、申し訳ございません!」 いきなり、父さんが跪いて土下座を始めた。降り積もった雑貨の山にぶつかるのに構わず即頭する。 「え?」 「大聖のお越しとはつゆ知らず、ご無礼を致しました!平にご容赦下さい!だから殴らないで!」 ヒィイィィイ…と今にも死にそうな悲鳴を上げる父親の姿に、目が点になった。 「テメェ一体どこの土地神だ?正直に言わねぇとぶん殴るぞ」 「お許し下さい!私は駱駝山周辺を担当していた土地神が転生したものです!五年程前に覚醒し今日までこうして寺の和尚となり生きてきました…」 ちょっと待ってくれ。話に付いていけない。僕一応当事者のような気がするんだけど。 「え、ちょっ…じゃあもしかして、僕の父さんって…」 「おう、間違いなく三年前に消滅してんな。ご愁傷さん」 「五年前です大聖…」 アッサリと言われてしまい、もうどうすれば良いのか分からない。展開が音速を超えている。 唯一の身内である父さんが何時の間にか消滅していた上に、中身が他人と入れ替わっていた?しかも五年前から?…何それ。 しかし、世間は決まって無情なもので、僕の理解スピードをガン無視して勝手に話は進んでゆく。 「あぁん?っつう事は、だ。この孫様が覚醒したのが去年の年末…つまり約九ヶ月、テメェら土地神はこの俺に対して挨拶の一つもしに来なかった訳だ?」 「申し訳ございません!私は反対したのですが、全土地神連合の会議で“大聖には見付からぬよう隠遁する事”と定められてしまったのです!」 「ほぉ、それを提案したのは何処のどいつだ?正直に言えばぶん殴るのは勘弁してやる」 ニヤァ、と邪悪凶悪な笑みを浮かべた悟空の凄まじいオーラを目の当たりにして…悟った。 無理だもう諦めよう。と。これは僕の手に負えない。 幸か不幸か、西光寺玄という少年は人並み外れて諦めが良い人間だった。別名を根性無しと言う。 「おーい、どうしたんだよお師匠様(仮)」 「いや…もう、何か…色々と一杯一杯…」 あの後、父親in土地神から沈痛な面持ちで“生まれ変わって申し訳ありません”という重い一言を食らってしまった。 思わず現実逃避に走って悟空に連れられるまま、というか引きずられるまま…というか寧ろ荷物のように担がれ拉致られるまま知らない街に来てしまった。 「で、さ、あの…ここってどこ?」 見た所、古い街のようだが、綺麗に整っている。どことなく、落ち着いた雰囲気がある。何処を写真にして切り撮っても画になるだろう。 「知らんねぇのか。日本一有名な古書店街だぞ?」 「あ、うん、今聞いてわかった」 確かに先程から古本屋がそこかしこにあるのは目に入っていた。 だけど何だか、“Anima”のトップファイターにして確実に戦闘中毒だろう悟空にこんな所に連れて来られるのは予想外だった。多分、観世音の家か、でなければもっと派手で賑やかな若者の街に連れて行かれると思っていた。 「…お前、来た事なかったのか?」 「え?いや、昔、小さかった頃何回か母さんに連れられて来た事はある、けど…」 そう、七歳で母さんが死ぬまでは、よく連れて来て貰っていた。何軒か母の馴染みの店を回って、喫茶店でシャーベットを食べて帰った。母さんは読書家で、葬儀が終わった後も蔵書を片付けるのに半年も掛かったのを覚えている。そして今、本が行儀良く並んでいた部屋は、安っぽい雑貨の山と埃で埋もれてる。 「そうか。じゃあ道は知ってんだな?」 「少しだけね。今はもう変わってるかも知れないし…」 知っている場所だと思えば、朧気にだが道を思い出してきた。次のかどを右に曲がって、奥の細い道に入れば、母さんが一番贔屓にしていた店がある。 「行きてぇ店でもあんのか」 「いや…うん、そうだね。寄ってって良いかな?」 「おう。付き合うぜ」 気のせいだろうか。行きたい、と言ったら、悟空の目が僅か輝いた。 意外に、読書が趣味だったりもするんだろうか? 店に入って、本を物色しながら話す。 「本、読むの?」 「いや…普通は読まねぇな。精々が実用書位のもんで、それも大概は人に聞いちまう」 「それは?」 「解んねぇなら、いい」 悟空はそれだけ言うと、漢字が氾濫する本を閉じて、元あった棚へと戻した。その表紙に般若心経、と書いてあるのが見えて、ああ、失望させてしまったんだな、と思った。 「買うのか?」 「うん」 僕は二冊だけ流行遅れのベストセラーを買って、店を出た。悟空は何も買わなかった。そもそも、財布を持っているかどうかも怪しいので仕方ないだろう。 まだ暑い九月、平日の昼間は人影が少ない。 どうやら特にこれといった目的がある訳ではないらしく、ぶらぶらとダラダラと連れ立って歩く。 「ちょっと休憩しようよ」 「腹減ったしな」 耐えかねて、近くにあったレトロな喫茶店に入る。 僕は紅茶を、悟空はあんみつを頼んで食べた。 そういえば他人と出掛ける何て何年振りだろう、と思って、はたと気付いた。中身は猿とはいえ、よく考えてみれば悟空の体は女子だ。っていう事はつまり、即物的に捉えれば今正に僕は所謂デートというものをしてるんじゃないだろうか。初デートじゃないか。リア充じゃまいか。いや待て落ち付け。落ち着くんだ。寧ろ何ナチュラルに喫茶店に入ってるんだ僕。端から見れば野郎二人で居るようにしか見えない。というか、悟空と僕とじゃそもそも見た目のスペックが根本から違くないか?オマケに社会的地位所か魂のステージまで違いそうだ。 と、今日もまたキャパオーバーを迎えそうになる。美味しそうにガツガツとあんみつを食べる悟空の顔が…実はそんなに男っぽくないのが分かった。造りは、紛れもない美形。確かに少しだけ釣り目だけど、鼻や額、長い睫毛に、顎の輪郭などには僅かだが少女らしい要素を備えている。 …尤も、有り余る漢らしさがその全てを無効化していたが。 残り半分を胃に流し込む姿に、一気に現実へと引き戻された。 「そういえば、お金とかって…」 「ん」 悟空がポケットからズボンのチェーンに繋がれた定期入れを引っ張り出す。中には一枚のカードが収まっていた。コンビニだろうがファミレスだろうが、ありとあらゆる交通機関で使えるカード、の… 「世界共通モデル!?しかもゴールド!?」 「観世音がくれた」 「ほんとに何者!?あの人!」 泣く子も黙る最強の世界共通カード。これ一枚あれば、電気の来てる場所であればどんな施設でも買い物が可能っていう殆ど反則技が使える、本物のレアアイテム。確か世界にまだ千枚位しかないって聞いてるけど… 「黒熊怪が言うには、俺ァ金の管理が雑だから現金で買い物するのに向いてねぇんだとよ。それにこれなら口座とセットになってるから、ファイトマネーの管理も済んで一石二鳥って訳だ」 「ちょっ、ちょっ、ちょっ…待って。あのさ…悟空って、口座とか分かるの?」 「あぁ?分かるに決まってんだろうが。お前、俺を誰だと思ってやがる」 誰だと言われましても。だからこそ分からないんじゃないかと思っている訳でして。 「大体生きていくのに必要な事なんざ、目覚めて一週間で頭に叩き込んだ。孫様のおつむに掛かりゃ楽なもんだぜ」 「…お見それしました」 意外にも神話世界の住人は、現代にあっさり順応しているらしい。 結局、当初の心配と予想を裏切って、悟空に奢って貰う結果になった。何時もならここで、くそうリア充爆発しろ、とか考えるのに、何故か泣きたくなった。どうしてだろう。悟空が猿だからだろうか。それとも悟空の体が(一応)女の子だからだろうか。わぁ、僕にもまだプライドとかあったんだ…新発見だよははははは。 「おーい、お師匠様(仮)へばってんのか?熱中症か?」 「ちょっと精神的ダメージが…いや、やっぱり何でもない…」 「おぉーい、倒れんなよ?背負って帰るのは俺なんだからよ。背中にゲロ吐かれちゃ堪んねえ」 びっくりして、思わず顔を上げる。 もし倒れたら、背負って帰ってくれるのか。 そんな僕の様子に構わず、悟空はぶらぶらと歩き出した。まるで江戸時代の水売りのように鉄パイプを首の裏に当てて両腕を絡ませている姿が妙に道化ていて、この空気にそぐわないのが面白かった。 暫く歩いて、やっぱり手足が長いと歩いているだけでサマになるよな、何て後ろから眺めていたら、悟空が歩調を落とした。 隣に歩くようになって、呟く。零す、と言った方が正しいかも知れない。 「…今、もしもお師匠様が居たとすりゃあ、絶対ここに来る筈だと思ったんだがな」 無表情な悟空の顔に、圧倒された。ただ一点を見据えている生き物の顔だ。矢張り、真紅の目には黄金色に光が拡散している。 横顔が、素晴らしく美しかった。いっそ怖い位に。人間が持ち得ないものを持った生き物が、人間と同じ形をしている。 「あ」 耐えられなくなって、声を出してから無理矢理話題を探す。車線の反対側、アスファルトの上にある正方形を口実にする。「こういう街にも、バトル・ゾーンってあるんだね」 「あるに決まってんだろ。ない土地の方が珍しいぜ」 すると丁度、バトル・ゾーンに入る人が居た。今から試合の予定でもあるのだろうか?それにしても、ギャラリーが一人も居ないのは、エントリーしたばかりの新人だからなのか、こういう街だからなのか… 見た目は筋骨隆々、素人とは思えない貫禄と体格だ。身長も多分、二メートル近くある。シンプルな白いTシャツにジーンズ、髪は少し長めでゴワゴワしていて、毛先がライオンの鬣のように靡いている。 …あれ?ビミョーにフラグの気配がするよ? 「そこな少年!」 「やっぱりフラグだよチクショウ!」 「待ってろ。あの野郎生意気だからちょっくらシメてくらぁ」 「アッサリ喧嘩買わないで!頼むから!寧ろ僕を巻き込まないでくれよほんとに!」 もう嫌だ。この突発性トラブル吸引体質。これ絶対あれだ。西遊記関係者だ。時代錯誤な口調からして間違いない。 「ヒス起こすなよお師匠様(仮)。この孫様が二秒で片付けてやっからよ」 と、ブンブン鉄パイプを振り回しながら意気揚々とバトル・ゾーンに向かう悟空を止める事すら出来ず、流されるまま後に付いて行くしかなかった。引き籠もりは押しに弱い繊細な生き物ですそっとしておきマショウ。 「餓鬼!貴様斉天大聖孫悟空と名乗っておるらしいな!若いながらにその豪胆さは買ってやろう!だがしかし、その傲岸不遜な――」 「知ってるよなぁ、オッサン。“Anima”の基本理念」 後ろからでは見えないが、分かる。今、悟空は確実に、例の凶悪な笑みを浮かべ、赤い瞳を黄金にぎらつかせている。 今朝読んだ“Anima”の本ページに記載された言葉が脳裏に蘇る。 「テメェは今現在線の中に居る。だが俺は今外だ。そして、」 一歩一歩悠々と。きっと死刑執行人が壇上に登るのはこんな感じだ。 「バトル・ゾーンの中は戦場だ」 白線の内に足を踏み込んだ途端、跳躍。一気に距離を詰める。だが相手もただではやられない。宙にいる悟空を、右手に持った自らの獲物である黒い木刀で叩き落とそうとする。だが、その時、悟空は両手で持った鉄パイプの左端を使って弾き回転に任せて腰を捻り、右端で相手の首の付け根を打った。男の巨体が膝から崩れ落ちる。花びらが落ちるかのような軽やかな着地。 「チッ…んだよ、歯応えねぇなぁ…」 世界一有名なサイト、が掲げる理念を、僕は肌で理解した。僕は絶対・一生・何があっても、あんな場所には入らない。 「うっ…」 「あ、気が付きましたか?」 がはっ、と男がバネ仕掛けのオモチャのように起き上がった。 「こ、ここは…」 「暑かったんで、近くの喫茶店に移動させて貰いました。すみません…」 激しく首を左右に動かして辺りを確認する男の様子に、常連と思われる喫茶店の客や店主がクスクスと笑っている。 「そっ、そうだ!大聖っ…!」 「喚くな雑魚。煩ぇんだよ」 カウンター席に足を組んで座った悟空が、じるじるとストローでブラックのアイスコーヒーを啜りながら気怠そうな様子で言う。 「大聖ッ!」 男が素早く起き上がり、悟空の元に走り寄る。 再戦を挑むのか、と思いきや、 「申し訳ございません!某、凡胎俗眼の哀しさから、大聖ご本人とは分からず…この敖廣、一生の失態!如何様にもご裁断を!」 男は跪き頭を垂れた。放っておけば、悟空の靴の裏に頭を擦り付けそうな勢いだ。 「良い心構えだ敖廣。テメェのその物分かりは嫌いじゃねぇ。だが…この俺様を見抜けねぇたぁ、どういう了見だ?」 ガッ、痛そうな音がして、悟空が敖廣と名乗る男の頭を思いっ切り踏み付けたのが分かった。 「ちょっ…悟空…!」 「構うな少年!これは自らの愚かさが招いた事!介入する事は許さ…んんっ!?」 グリグリと踏まれるままになっていた男がいきなり立ち上がり、油断していた悟空が椅子から落ちてひっくり返る。 「この感触!貴様矢張り大聖ではないな!大聖の蹴りはもっと――」 ゴッ。 「黙れっつってんだろうが」 表出ろ、と悟空が敖廣の襟首を掴んで引き摺ってゆく。コーヒーの支払いは僕がしておいた。 「ハッ!しかし今の拳!あの威力は確かに大聖のもの…しかし足の感触は…」 引きずられながらぐるぐると思考の坩堝に嵌っているらしい敖廣さんを適当な路地裏に蹴り入れて、悟空が腕組みをし、仁王立ちのポーズを取る。 「面倒臭ぇから単刀直入に言うぞ。俺ァ女の体に転生しちまってるんだ」 敖廣さんの表情が固まり、動きが止まる。 絶句。 ああ、うん、やっぱりそうだよね。悟空が女の子だって聞いて驚かない訳がないし… 「な、何と、それはまた…」 がっくりと敖廣が姿勢を崩す。先程までの言動からして、悟空を尊敬しているのは間違いない。漢らしい悟空が女に転生したのがそんなにショックだったのか。 「まぁ、罪を犯して下界に転生した訳ではないから俺の神威はさして変わらんのだが…」 「…大聖、大変言い辛い事ではありますが、某、恥ずかしながら下凡して己を知りまして」 「唐突だな。まぁ良い聞いてやろう」 「この肉体、すぐ側にある古書店の主のものでして。目覚めた時も店に居たものですから、状況を把握するなり、直ぐ手元にあった書物に目を通しまして…以前からあった疑問とその感覚が形を持ち、頭にあった霧が晴れるような気が致しました」 …あれ?どうしてだろう。また嫌な予感がする。いや…違う。これは嫌な予感じゃない。もっとずっと忌まわしいような…そう、悪寒、だ。 「常日頃から大聖に暴行を加えられまるで犬畜生の如くこき使われる際に感じる、あの感覚…我は理解せり!美少年からの被虐による快楽こそが至上の悦びであると!」 ぶわぁ、と全身に鳥肌が立った。まさかこんな所で本物の変態に遭遇するとは思ってなかった。 鼻血を流しながら爛々と目を光らせる男前に、流石の悟空も全身に鳥肌を立てて硬直している。何時も良い顔色は蒼白。生理的に無理だ、と書いてある。 「キ」 わなわなと悟空の体が震える。多分本能的な恐怖からだ。かく言う僕も(幸いにも美少年ではないから)対象外だというのに、今直ぐにでも逃げ出したい気持ちで一杯だ。 「キッ」 「しかぁあぁし!大聖であれば例え少女の肉体であろうともこの敖廣、本望です!例え少女であろうと大聖は別格!さぁ、何なりとお申し付けを…」 「キショイんだよテメェエェエ!!」 鉄パイプが炸裂した。脳天に。 数秒だけ荒い息を整えると、悟空はまだ青い顔のままくるりと振り向いて歩き出した。 「…――帰るぞ」 「うん、そうだね…」 敖廣さんの頭蓋骨の状態は確認しなかった。少なくともザクロにはなっていなかったし、それに…確認したら恍惚の笑みを浮かべていそうで、怖かったからだ。 帰りは悟空と二人で電車に乗った。ずっと無言だった。手を振って別れた。こういう日は早く寝て全部忘れるに限ると思う。 この日は久々にグッスリと眠れた。 【豆知識】 東海龍王敖廣は孫悟空に如意棒を授けた龍。何かといえば悟空にパシられている。因みに、三蔵法師の馬になったのは玉龍であり、敖廣ではない。 [*前へ][次へ#] |