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第三話「仮設浄土にて茶を飲む事」




一人の女が、簡素ながらも清潔なキッチンに立っていた。
白で統一された中に、一個だけ明るいグリーンの物体が目立っている。それは緑色の薬缶で、絶叫するのを今か今かと待っている。
薬缶の様子を横目で伺いながら、女はガラスのティーポットに緑茶の茶葉を用意している。横には一つ、ロックアイスを沢山入れたグラスがある。
さて、実に優雅な手つきで茶の用意をしている女は、身体的に目立った特徴こそないものの、間違いなく美人の部類に入る人間だった。即ち、目立った特徴がない、というのは顔にある全ての部品が理想的な形をしていて、絶妙な場所に収まっているという事だ。正に奇跡の美貌。穏やかな微笑がよく似合う。敢えて身体的特徴を挙げるとすれば、女性にしては長身な所だろう。確実に百七十センチ以上はある。
白いカッターシャツと黒いスラックスの上には白衣。緩くカールした黒髪をすっきりとアップに纏めている。
ピィイィィ…
けたたましく薬缶が鳴った。
「ん、あ…」
その音によって、西光寺玄は目を覚ました。ぼやける視界から何とか愛用の眼鏡を手探りで探すと、自分が居るのが誰かの部屋であるのが分かった。モデルルームのように整ってはいるが、どことなく生活感がある。恐らくはリビングだろう。彼はそのソファの上に横たわっていたのだ。
「ああ、気が付いたようですね」
一杯のアイス・グリーン・ティーを手に、女は優しげに声を掛けた。事情は飲み込めないもののその雰囲気から礼儀を払うべき相手だと察して、会釈してグラスを受け取る。
「大丈夫ですか?聞くと、うちの子が無茶な真似をしたようで…」
「えっ、と…あの、あなたは…」
「私は蓮見世利那。孫悟空の保護者です」
「あ、はい、そうでしたか…僕は西光寺玄と言います。西の光る寺、で西光寺」
この女、蓮見は孫少年の姉か何かだろうか、と玄が当たりを付けていると、丁度噂の本人が現れた。
「おー、目ェ覚めたか。気分はどうだい、お師匠様(仮)」
例の鉄パイプを持った孫が、軽い調子で聞いてきた。括弧に仮が付くとはいえ、初対面の相手にお師匠様と呼ばれては何が何だかわからない。
「こら悟空、あれほど室内で如意棒を振り回すなと言っているでしょう!玄関に置いてきなさい!」
「へーい」
蓮見のお叱りを適当に聞き流しながら、孫は素直にリビングを出て行く。
本人がまた居なくなった所で、玄は一番気になっていた事を聞いてみる。
「あの…孫くん、ですか?変わった名前ですよね、孫悟空、何て。あ、ハンドルネームとか…ですか?」
玄の質問に、蓮見はああ、と感嘆する。
「申し遅れました。私は俗世での名前を蓮見世利那、本名を観世音菩薩と言います」
「……は?」
「あちらは斉天大聖孫悟空。悟空は肉体の名を知らないので、そのまま悟空と名乗っています」
玄の思考がフリーズするが、蓮見はどんどん話を進めてゆく。
「話せば長くなりますが、突如として天が消失したが為、我々仏神は俗界の肉体を得て転生する事となったのです。本来俗界に流された者はその罪悪により記憶をなくし真実を見る目を失いますが、今度は罪を犯さずにやむを得ず下界に下ったので記憶と力を持っています」
「え、あ、う、でも…」
「そして、私達には各々探すべきものがあります。私は天が失われた理由を、そして悟空は…」
「我が師、玄奘三蔵。お前がそうなら俺が分かる筈だ」
鉄パイプを置いて戻ってきた悟空が会話に割って入った。
「もし、この俺が分からないってんなら赤の他人か…」
距離を詰めて、尋問の体勢を取る。悟空の深く澄んだ目が玄を捉える。人の手では決して造り出せない人外の色。家がそういう家だから話の概要は知っている。その昔、老君の炉に燻されて染まった瞳。
「まだ、覚醒していないのか。二つに一つだ」
トン、と肩を軽く叩いて、悟空が離れる。そのままキッチンに入って、冷蔵庫を明けて大粒の水蜜桃を取り出して、碌々皮も剥かずにかぶりついた。
「悟空、汁を床に零すんじゃないよ?…信じられない話でしょうが、事実なのです。でなければ、悟空のあの怪力は説明出来ないでしょう?」
「……」
玄は嘘だ、という言葉を飲み込んだ。何故ならばそれは悟空の目と、蓮見、いや観音の言葉が真剣そのものだったからで、既に彼の心はこの異常な事態を受け止めようとしていた。
「…それで、一体僕はどうすれば良いんですか」
「何も。今のあなたは玄奘の生まれ変わりなのか、それともただの人間なのか判別が出来ません。もしも玄奘が転生したのがあなただとしたら…玄奘が目覚めると同時にあなたという人格は消え去る。それを忠告しておくだけです」
「そう、ですか…」
今もしも自分が消えてしまったとしたら、何か不都合はあるだろうか?あるだろう。寺の跡取りが居なくなる。しかし、寺を継ぐ気は、始めからない。至極当たり前の事実を目の当たりにするしかないのだ。誰が死のうと世界は不変だ。例えそれが自分自身であったとしても。けれど、突然何の前触れもなく消えてしまうのだとしたら――…


ドゴォオン!


まるで部屋に鉄球が突っ込んできたかのような音が、鼓膜を痺れさせた。
「おい猿!テメェよくも俺に押し付けて帰りやがったな!」
「あ、悪ィ」
「ッざけんじゃねぇよ!二十人もあんな雑魚殺さねぇようにすんのなんざ面倒臭ぇんだよ!上手くいったから良いものの、下手したらあの電気屋の修理代俺持ちじゃねぇか!」
街中で見た、悟空と共に居た赤毛の少年が怒り心頭といった様子で怒鳴るが。
「まぁ許せよ賢弟。これにはな、ちょっとした事情があるんだ」
「ちょっとも何もあるかよ!このエテ公!チビで寸足らずの猿が!」
「あ゛ぁん!?テメェ、この孫様に対して、事情も聞かずに結構な口を利いてくれるじゃねぇか!身の程知らずのガキが!」
鬼の形相を浮かべた二人が即座に激しい殴り合いを始める。凡そ人体でのぶつかり合いとは思えぬような破壊音がひっきりなしに部屋を埋める。
あちらが腹を蹴ればこちらは顔に拳を食らわす。あちらが身をそらしてかわせば、こちらは軽々宙返り。悟空に限ればついでに顎を蹴る、といった具合だ。
「全く…師兄も師弟も愚兄愚弟で苦労するよ。大体、大会登録なしで試合を始める何て…事後申請は面倒臭いっていうのに…」
ぶつぶつと愚痴を言いながらのろのろと歩いてやって来たのは、最新型のノートパソコンを手にした少年だった。全身黒尽くめで、猫背だからかよく分からないが、恐らくはかなり背が高い。
そしてまた、彼も喧嘩している二人に倣って、美形だった。すきっとした一重瞼の形良い右目の下にある、縦に二つ並んだ泣き黒子が印象的だ。先の二人程派手さはないが、雰囲気がある。流し目でもしたら落ちない女子は居ないだろう。
「あ」
黒尽くめの少年が、玄の姿を捉えるなり感情の見えない声を漏らした。
「?」
「そこ…多分巻き込まれる」
「え」
時既に遅し。壁に向かって吹っ飛ばされる赤毛の少年の爪先が玄の腕に掠ったせいで、袖がぐっしょりと濡れてしまった。
「ははは!この孫様に挑むたぁ、万年早いぜ甥っ子よ!」
「テ、メェ…親戚面すんじゃっ…」
食べかけの桃を片手に勝ち誇る悟空に対し、赤毛の少年が即座に立ち上がり鋭い蹴りを食らわせる。勝ったと見て油断していた悟空は顔から服へとべっちょり桃で汚れ、僅かな間を置いてから再び腕を振り上げようと構えるが、
「や・め・な・さい?」
にっこりと迫力満点の笑顔を浮かべた観音の言葉に、二人が凍り付いた。
「…西光寺さん、大丈夫ですか?」
「あ、は、はい…」
「そうですか。大事に至らなかったようで何よりです。さぁ、すっかり散らかってしまった部屋を片付けましょう。兄弟仲良く片付けるのですよ?」
「うへーい」
「…かしこまりました」
立ち上る怒りのオーラを察して、悟空は怠そうに、赤毛の少年はぎこちなく返事をした。黒尽くめの少年が呟く。
「自業自得…」
「兄弟仲良くと言ったでしょう?お前もやるのですよ」
どうやら観音は地獄耳らしい。ピシャリと言い捨てて、反論を許さない。
「…俺ぁちょっくら、先に風呂にでも入ってくるかな」
「あー、硝子割れてるな。掃除機掃除機」
「全く…何やってるんだよ。このソファいくらすると思ってんの…」
「あ、あのー」
各々動き出した三人を見て、玄が恐る恐る質問する。先程からずっと気になっていた事だ。「もしかして…悟空、って事は、あなた方は猪八戒と沙悟浄…?」
すると、三人は一斉に玄を見た後、一瞬の間を置いて、
「はぁああぁあ!?」
「どこをどう見たら!?」
悟空以外の二人が声を荒げる結果となった。さて悟空はといえば、腹を抱えて呼吸困難に陥っている。
「ぎゃはははははっ!ひっ、はっ、ははははは!」
「冗談じゃない…あの二人と間違えられる何て…ゾッとするね」
「笑ってんじゃねぇぞ猿!」
普通、悟空を中心とした三人組といったら、悟空、八戒、悟浄の組み合わせしか思い付かないだろう。玄の発想はごく自然な推測と言える。
では、彼らの正体は一体何者なのか。そう尋ねる前に、二人は自ら名乗りだした。
「いいか?よく聞け!俺はな…枯松澗火雲洞にあっては聖嬰大王。火炎山で三百年の修行を詰み火炎槍を操る。観世音菩薩に帰依しては善財童子。父の名は牛魔王、母の名は羅刹女。我が俗世での名は、紅孩児」
「…黒風山黒風洞に住まいては黒大王。後、観世音菩薩に帰依しては普陀落迦山守山神。俗世での名は黒熊怪」
所で、玄は考えている事が顔に出やすいたちである。案の定、二人の氏素性を耳にした玄は、どうしよう分からない…という顔をしていた。
見かねた悟空がくくくと笑いながら説明をする。
「こいつらはな、元は旅の途中でお師匠の袈裟を盗もうとしたり、お師匠を殺してかっ食らおうとした妖怪なんだ。しかしこいつらが特別なのは、互いに素手でやるとこの孫様とほぼ互角だって事なんだ。それで、それぞれ俺が緊箍、黒熊怪が禁箍、紅孩児が金箍を付けられて観世音に帰依したって訳だ。言うなれば俺の、もう一つの兄弟分よ」
「へぇー…」
どうしよう主な活躍エピソードを聞いても分からない。特に黒熊怪…
と、顔に書いてある玄を見かねてか、悟空はからからと笑いながら余計な一言を付け足す。
「ま!この孫様が高名過ぎるから、熊だの餓鬼だのが霞んで見えるのも無理はねぇなぁ!」
この一言に、紅孩児が怒らない訳がない。
「オレは別に…目立ちたくない…」
一人消極的な意見を述べる黒熊怪の横で第二ラウンドが始まろうとした、まさにその時――
「…悟空、黒熊怪、紅孩児…私は皆で片付けろと言った筈ですが?」
腕を組んだ観世音がアルカイック・スマイルも美しく言い放つ。妖怪三人は身を硬くしてよく聞く。
「P・D・Q!(Pretty Darn Quick!)」
速攻でやってね?とのお言葉に、今度こそ三人は無言で各々作業に取り掛かる。何となく背中に肌寒いものを感じた玄も、無言のまま片付けを手伝う。
桃の汁を洗い流しに行った悟空とソファの修理を電話予約する黒熊怪を尻目に、紅孩児と共にしゃがんで床の硝子を拾う。
「あ」
「切ったか?」
「うん、ちょっと洗ってくるよ」
奇妙な感覚だった。元来他人に対し警戒心の強い玄は、引き籠もりになるだけあって、相手がヤンキーやら優等生やらだと気後れしてしまう。特に、その中でも最も苦手とするのが玄の意識するスクール・カーストの最上位、つまりはクラス中の人気者というものなのだ。
しかし、明らかにそういった人種である筈の紅孩児と顔を突き合わせていても苦痛を感じないのは不思議だった。紅孩児だけではない。観世音も黒熊怪も、誰もが認める美形だろう。玄は何時もなら顔形の整った人間の傍には居たくないと思うのだが、ここではそれがなかった。
ただ、悟空だけが特別だった。
金に光るあの赤い目の深さが底知れない。余りにも澄んでいてまるで宝玉を溶かして流し込んだような瞳は確かに、もっとよく見たいと思わせるが、魅入るのが恐ろしいような気もする。そんな代物だった。
「あ、おい、西光寺、だっけか」
「こっちだよね?」
脱衣場の扉に手を掛けた玄は、紅孩児が場所の案内をしてくれようとしたのだと解釈して、微笑を浮かべた。
「いや、そうじゃなくて…」
ガチャリ。
ドアを明けると、湯気が一気に部屋へと流れ込んだ。
「おい、いきなりなんだ」
「ああ、ごめん。ちょっと硝子拾ってたら手を切っ…て……?」
風呂上がりの悟空の姿を上から下へと眺めて、玄は硬直した。
「そうかそうか、ちょっと待ってろ。今着替えるからな」
ジャ○ーズジュニアもかくやという凛々しい顔に白い肩に背に、長く伸ばした黒髪が濡れて張り付いている。腕は長く足も長く、胸は僅かに肋が浮き、腹は薄い皮膚の下で筋肉が割れていた。
が、腹の下が問題だった。


「ええぇえぇええぇえぇ!?」

ばたばたと走ってリビングに駆け込み、口をパクパクと開閉させて、脱衣場の方を指差す。
「言い忘れてたんだけどな、その猿…」
「ああ、そういえば…確かに初めて知った時は驚くね」
あくまで淡々と作業を続けながら、紅孩児に黒熊怪が軽く同意する。
「一体何をどこで間違えたのか、そいつだけ女に転生してんだよ」
絶句する玄の後ろから、ペタペタと廊下を歩いてくる音がする。
「おぉい、お師匠様(仮)どうしたってんだよ、人を見るなり叫んだりして」
と、首にバスタオルを引っ掛け、黒いトランクス一丁の悟空がごしごし頭を拭きながらやって来た。こうしているとまるで少年だが、先程見てしまったものは夢ではない。紅孩児と黒熊怪の肯定こそが何よりの証拠で、玄は軽いパニックに陥った。
そもそも、あんなに胸のない少女が存在する事に驚くべきなのか、女の体を全く気にしていないのを驚くべきなのか、あっさりとこの状況を受け止めているらしい紅孩児と黒熊怪の態度に驚くべきなのか…と考えたのだが、まるで的外れだった。ここは本来、あの斉天大聖孫悟空が女に転生している事それ自体に驚くべきだろう。
「うーん、もしやお師匠様の生まれ変わりかとも思ったが、どうも違うみたいだな」
呆れたように言う悟空に対し、紅孩児は、
「いや、この反応、確実に童貞だろ?何か要素としちゃ間違ってねぇんじゃねぇか?」
紅孩児に続けて黒熊怪、
「ああ、確かに。昼間の試合の時といい、このトラブル巻き込まれ体質はかなり稀だね」
すると悟空、腕を頭の後ろで組んで、
「確かに。この筋力と体力と根性の無さがお師匠様っぽいんだがなぁ…まぁ、じっくり待つとするか」
にぃ、と笑った悟空と、女の子だと知ってから見るその際どいポーズに、玄は耐え切れず部屋を飛び出した。
高級マンションの非常階段をがむしゃらに駆け下り、逃げてゆく。
が、いかんせん、長い引き籠もり生活が祟ってか、遅い。
「うわ、走るの下っ手くそだな…おいエテ公、確かにアレ、玄奘かもな」
「腕の振り方が破滅的だよね」
「だろ?」
広いベランダから走る玄の姿を見て、三人がそれぞれ好き勝手な事を呟いた。




さて、少女に転生した悟空が見付けた少年、西光寺玄は、本当に玄奘三蔵の生まれ変わりなのか。
答えは未だ闇の中である。






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