電波塔 今日も無数の電波を発信する電波塔。 下品な喧騒の漣が塒の電波塔。 オレンジ色の夕日に照らされ灰色の濁った影を地面に落とす。空を薄紫に雲を桃色に染める景色の中にあって、化け物のように茫洋と佇んでいる。 その名を冠した理由はとうに忘れてしまったけれど。 「電波塔」 ぼくは呼ばれて身を起こした。眠い。目玉が砂糖菓子のようにとろとろだ。 「なに」 「今度の対戦相手が決まった」 ぼくの交友関係はとても狭い。両手で収まる人数としか、会話をしない。一人としか暮らしていない。つまりはぼくの主人。パートナー。唯一のマスター。無精髭を生やしたぼさぼさ頭のひと。肌色とダークグレーのひと。 「だれ」 ぼくは無愛想に返事をする。 「花時計だ」 告げられたのは、偶然にも、両手で収まる内の貴重な一人だった。 花時計は赤い髪が柔らかくて煩い位におしゃべりな子だ。瞳は綺麗なグリーンをしている。 「何日」 「明日、深夜に」 「そう」 ぼくは寝転んだまま白い天井を見ている。視界の端にマスターの髪がちらちらと動く。コーヒーの香りがしてきた。 「ほら、そろそろ起きろ」 「やだ」 だって動かないんだ。腕も足も思考も、全部、動かない。指先からぴんと張り詰めている。 「起きろって」 「やだってば」 マスターがぼくの髪に触る。ベリーショートの黒髪を、くちゃくちゃにする。頭皮に触られるのは、実は嫌いじゃないんだけど、それよりもまだ眠っていたいんだ。 「お前の好きなブルードリップあるから、起きろ」 「ん、んん…」 ぼくはどうにか頑張って起きた。何時も通りの狭いアパートがある。寝る前と同じように吸殻の山が灰皿に聳えていたので、少し安心した。 「ほら、腕出せ」 「ん―――…」 マスターがぼくの棒のような腕を取る。皮膚と一体化したバイオスーツの小さな、丸い差込口に、針を刺す。銀色のオシャレなキャスターにぶら下げられたパックから、晴れた日の海みたいな色をした液体が、ぼくの体内に流れ込んでくる。ああ、美味しい。やっぱり、点滴はこのメーカーに限るよね。今度新発売のスパーキングゴールドも買って貰おう。 「場所は、ナノプラント第弐ホール。観客は満席なら千三百人」 「遠い?」 「遠くない。電波塔」 「なに」 「…出来るのか?」 マスターが、ベッドに座ったままのぼくの前にしゃがみ込んだ。マスターがぼくを見上げるような形になる。マスターも、髭を剃って髪を切れば良い男なのに。 「誰が相手でも関係はないよ。マイ・マスター・トノエ・ヒラサカ。ぼくたちは悲しみを持たない」 「そうか…」 ぼくたちは悲しみを持たない。 そう言うと、何時もマスターは悲しそうな顔をする。何故だかは、ぼくにも分かっている。悲しいのだ。それと、幾許かの、罪悪感。 首元から、中指の付け根までを覆うバイオスーツは、黒と黄色と水色。まるでウエットスーツのようだけれど、電子回路独特の紋様が刻まれている。電気を通すのだ。 ぼくは黒い髪と黒い目をしていたから、バイオスーツが黒主体のデザインになった。花時計は、真っ赤な髪と、茶色い目だったから、赤と白と茶色のバイオスーツになった。 ぼくと花時計のデザインは、最近加わった同胞達よりも、ずっとずっとシンプルで、貧弱そうに見える。そして、ぼくと花時計以外に、ぼくと似通ったデザインの同胞は居ない。皆、とうの昔に廃棄されてしまったのだ。ぼくはかなりの旧型で、あと五年もしたら、オールド・クラシックの称号が与えられる。 オールド・クラシックに認定されると、ぼくはマスターの元を離れて、国立博物館に陳列される。悲しくはない。悲しくはないけど、そうなったら、その時マスターはやっぱり悲しむのかな? 「寝てもいい?」 「ああ、行く前には起きろよ」 「ねむいんだ」 ぼくは目を閉じた。 マスターが台所で何かしているのが聞こえる。煙草の匂いが漂ってくる。気持ちいい。嫌だな、こんなのは。とても困るんだ。ぼくは眠りたいのに。 そういうのは、起きた時だけでいいのに。 それでも、目を閉じていると眠りに落ちて行けた。落ちて行けた、というのは、起きてみなければ分からないから、結果論でしかないんだけど、まぁ良い方だと思う。 「おい、起きろ」 マスターの声がして、目を開けると、何だかとても明るい所に着いていた。よく見てみるとそれは天井にある巨大な電灯で、試合のあるナノプラント第弐ホールに居るんだと分かった。どうやら、マスターは僕を抱えて会場入りしたらしい。つくづく、ぼくを甘やかすのが好きな人だ。 「おら、準備しろ」 「マスター…勝つ気がないの? マスターが試合前にぼくを運んで、どうするの…」 ぼくの身長は百四十センチ、体重は三十四キロしかない。だけど、抱きかかえて運べば、それなりに疲れる筈だ。例え、マスターが身長百八十八センチ、体重九十キロの大柄な人だったとしても、それは変わらない。何故なら、マスターの商売道具はぼくと、マスター自身の腕なのだから。 「途中までは車だ」 「起こせば良かったのに」 「さっさと準備しろ」 仕方なく、控え室にある鏡を見て、髪形を整える。寝癖を適当に直して、テーブルの上にあったメモリを専用の差込口に入れて、データをインストールする。今回の対戦相手と、会場のデータが流れ込んでくる。 花時計と、そのマスターはよく知っているので、余り意味はなかったが、今回は会場が特殊だった。透明な超強化ガラスのフィールドで、球状。内部は半重力状態になっているらしい。更には、対戦が長引くと合金のワイヤが張り巡らされ、動き辛くなるという仕組みだ。厄介だし、気合が入り過ぎているんじゃないか、と思う。 「電波塔」 「なに」 「今回は、足りないと思ったら勘で動け」 スタッフが用意したらしいフォーマルを着たマスター。黒いスーツはとてもシックでクラシックな感じ。そう、いかにも高級そうだ。なのに、ネクタイを緩めて、着崩している。首元が締め付けられると、集中出来ないらしい。何時もこうだ。そこがいいって女性ファンも結構居るみたいだから許されるけど、髭を剃って髪を整えて、服をきっちり着たら、あと十歳は若く見えるんじゃないかな? 「行くぞ」 マスターは、試合の前にはこうしてぶっきらぼうになる。マスター、トノエ・ヒラサカは今年で三十八歳。二十六歳の時にカノト・ヒラサカ―――つまりはトノエのお爺さんからぼくを相続して、ぼくのマスターになった。つまりはもう十二年間もこうして月に数度の試合をしている訳なんだけど、一向に慣れる気配はない。マスターは豪胆に見えて、意外と繊細に出来ている。 「超満員だな」 「耳が変になりそう」 「塞いでろ」 真っ白な廊下を歩き、自動開閉のシャッタがゆっくりと上がる。僅かに光が差し込んできた途端、同時に歓声が雪崩れ込んできて、思わず眉を寄せた。 会場に顔を出すと、ホールは人で溢れていた。誰も彼もが極度の興奮状態にあるようで、立ち上がって腕を振り回す。雄叫びを上げる。見かねたマスターが、後ろからぼくの耳をその大きな手で塞いだ。 ぼくとマスターを乗せた幅の広い廊下が迫り出し、会場の中心にある巨大な球体に近付く。向かいには、同じ設備によって運ばれる花時計と、そのマスターの姿があった。「付けるぞ」 「…うん」 マスターが、首の後ろにある専用差込口に、通信機を付ける。通信機を付ける時は、何時も緊張する。神経を繋ぐので、壮絶な痛みが伴うのだ。 「行ってきなさい」 「はい、マスター」 花時計のマスターはフヅキ・リンドウという、優しそうなおじさんだ。いかにも上品そうで、白髪の混じった長い金髪を一つに縛って、衣装をきっちりと着こなしている。 花時計は髪に小さな白い花の飾りを着けていて、赤くてふわふわな髪に、よく似合っていた。僕を見て、にっこりと笑う。 透明な球体に、丸い円が開いて、ぼくと花時計はその中に飛び込んだ。半重力なので、着地するとよく跳ねる。ぼくらが着地すると、入り口の円は直ぐに塞がった。 ぼくと、花時計のマスターが居る台がまた縮んで、球体から適度に離れた場所で停まる。床から台が迫り出してきて、それぞれのマスターは係員のチェックの下、装置を装着する。 台は、少し高い囲いに覆われていて、外からは中々見えないようになっている。何故ならば、それが試合の全てを決めるといっても、過言ではないからだ。 囲いの中にあるのは、旧時代の楽器、ピアノを模した鍵盤と、元は譜面台というアナログブックを置いていたという位置から伸びる、十本の細いワイヤ。それは無愛想な十個のリングと繋がっている。リングの上部には出っ張りがあって、そこにワイヤが繋がれているのだった。そのリングは、工具がなければ外せないようになっていて、奏者と呼ばれるプレイヤーは、指を拘束される形になる。まるで、文明未発達時代にあった、拷問器具のように。 ブツ。 全ての音が消えた。演奏という試合開始の合図。騒がしかった観客は、何時の間にか何食わぬ顔で席に着いている。ぼくの耳には、もうマスターの演奏しか聞こえはしない。だけど、何となく、周りも無音だっていうのは分かった。これも、ぼくの勘に過ぎないのだけど。 曲が流れ出す。マスターの指を通じて、ぼくの中へ。床(ここでは球体の事なんだけど、これ以外に表現のしようがない)を蹴って、上部の床に飛ぶ。一回転しながら、爪先でまた床を蹴って、加速する。花時計も同じように、床を何度も蹴って加速する。ぼくが、マスターが花時計の距離を確認しながら、花時計の隙を窺う。 「……っ」 マスターの演奏に熱が入る。そう、音楽に感情に没頭していなければ、理性を押さえ込めないから。否、違う。理性じゃない。倫理観、だ。 指のリングから発する信号が、ぼくの体を動かす。通信機を通じて、神経に微弱な、しかし絶対的な電気を流して操る。ぼくたちはただ、この場合力を抜いていれば良い。 ああ、マスター、ぼくが心配する事何て、何もなかったね。そうだった。何時も、忘れてしまう。マスターは試合が始まれば、揺るがない。 聞こえてくる音楽から、マスターの感情が全部、流れ込んでくる。音楽が感情の伝達に最も優れた手段であると結論付けられ、音楽の感情解析機能が発明されたのは、もう四世紀も前の話。退屈さを持て余した人類は、それに喰らい付いた。 ぼうっと考えていたら、急に曲が激しくなった。 「…っ」 タイミングを計る。曲のリズムに合わせる。ここからがそう、肝心だ。花時計が、迫る。世界がスローモーションに切り替わる。 壱、弐、参、今だ。 腕を振り上げる。狙いを定める。これはマスターの操作。力を入れる。これはぼくの操作。振り下ろせ。 ああ、唸る。軋む。来る。千切れる。波。血が熱く冷たくアルコールのように駆け巡る。筋肉の歓声と、関節の悲鳴が響く。轟く。ぼくの中で。鍵盤の謳う悲哀と、ぼくの歓喜が混ざる。溶け合って、何か別なものになる。感情の濁流。逆流、する。ぼくの感情がマスターに流れ込む。マスターの感情がぼくに流れ込むように。 グチャッ。 花時計の左目が、潰れた。生々しい感触。 ぼくの内臓が潰れた。花時計が伸ばした足。 ぼくの右手と、花時計の右足の骨が、反動で砕ける。オーバーワークによって、筋肉がズタズタになる。優美な音楽と交じり合う、野蛮なメロディが綺麗だ。 バイオスーツに覆われたぼくらの体は、血の一滴も漏らさず、直ぐに再生を始める。永遠に成長しない代わりにぼくらが望んで手に入れた能力。ぼくは一度、口の中に溜まった血を吐き出して、また立ち上がった。大丈夫だ。足はまだノーダメージ。大丈夫だ。ぼくはもう、四十五年前に、内臓何て使わない体になったじゃないか。 もう、今から千年も前に、人類は技術の発展を終えてしまった。その中にも、遺伝子の解析は含まれていて、殺人の遺伝子を持つ人間の断種が行われた。その遺伝子を持つ人間は繁殖を禁じられ、完璧な管理体制の下、暮らすよう定められた。 しかし、人類の持つ殺戮の歴史が示すように、殺人の遺伝子は決して消え去りはしない。数百年の時を掛けても、必ず危険因子の持ち主は生まれた。そこで、誰かがその人間を使って有意義な遊びをしようと思い付いた。 まず、殺人遺伝子を持つ子供達を集め、十歳になるまで施設で育てる。そして、成長を止め、代償に超回復能力を与えるバイオスーツを移植し、闘わせるのだ。子供達はその際、一生施設に居るか、バイオスーツを着て同胞と殺し合いをするか選ぶ。元々、殺人衝動を持つ子供達は、迷わなかった。過去四百年、施設で過ごす事を選んだ子供は、一人も居ない。 子供のまま生きて子供のまま死ぬ。プレイヤーの所有物として、管理されながら、同胞に殺される日まで同胞を殺す。 立ち上がる。よろめく。細胞が活性化して、再生を始める。あるべき場所にあるべきものが、戻る。なのに、弾けるように熱い。火照る。口の端から唾液と血液のカクテルが垂れて落ちる。花時計は両腕を使って、床を押す。逃がさない。マスターも分かっている。曲がまた、盛り上がりを見せる。拘束された指先が生み出す、即興曲。マスターが空気中に描く、ぼくの姿、感情、いのち。 花時計が、そのしなやかな腕を使って、球体上部を跳ねる反動を付ける。ぼくは見る。まるで彗星のように金魚のように優雅に見苦しく健気に流れる、赤を。花時計は頭から血を流しているせいで、透明な球体に、赤い模様が着く。そうだ、ぼくらは水風船に描かれた一個の模様なんだね。 ぼくも床を蹴る。互いに縦横に動く。一瞬だけ交差する。ぼくは腕を伸ばして、交差するそのタイミングに合わせて拳を握った。ぼくの左手の指と、花時計の肩が砕ける。マスター、今日は調子が良いね。音楽は濃密で苦くて甘くて軽快で、まるでお菓子みたいだ。お菓子の味何て、もう覚えてはいないけど。 砕ける、肉と骨が剥離する。とうとう骨の破片に引き裂かれて、血が溢れる。皮膚は、ただの袋だ。ぼくと花時計のバイオスーツは旧式だけど、回復速度は中々速い。人工の細胞壁が自己修復を始める。開いた傷から、遠心力で血が飛び散る。また、球体に模様が増えた。 走る、走る、蹴る、跳ねる。ステップは軽快。マスターの指は上機嫌。深く深く激しくそして穏やかに、何かが混ざり合う。魂。知らない。何も、ぼくは知らない。そんなの。マスター、知ってる? ねぇ、マスター。 踏まれた虫のような花時計。壊れた体でそれでも生きようとする。動こうとする。ごめんね。ないんだ、罪悪感何て、少しも。君と同じように、ない。そう、ないんだ。 凄いスピードで、花時計の姿が迫る。潰れていても、綺麗な顔。 「 」 にっこりと、花時計は何時も通りに笑った。 そこで、ぼくの意識は途切れた。 重力は、楔じゃない。檻じゃない。何も、何処にも檻何てない。楔もない。だから、僕らは誰かと繋がりたがるんだ。拘束具のような指輪と、精神で誰かを繋ぎたがる。きっと。そうなんだ。きっと。 「……」 目を開けると、薄汚れた、だけど、見慣れた天井の染みが見えた。起き上がらないままぼうっとしていると、少しして、煙草を咥えたマスターがこっちを向いた。目が合う。 「起きたか」 「…なんで」 「タイムリミットだ」 ああ、そういえば、駆け抜ける黒い線が視界の端に見えた気がする。肺を貫かれて、ショックで気絶したのか。 「長引かせて、済まなかった」 「花時計は?」 「死んだ」 眉間に皺を寄せて、煙草を灰皿の端で揉み消した。甘い枯葉のような香り。 「違うよ、マスター。砕けたんだよ。キャンディ」 「違う。俺が殺した」 ぼくらはそう、溶けるか砕けるかして消える。 キャニバル・キャンディ・チルドレン。 それがぼくらに与えられた名前。甘い甘い、舌を切って血を啜るハロウィン・キャンディ。今日は、赤いのが砕けて、黒いのが残ったんだ。 「マスター」 マスターは試合が終わった後、何時もこうなる。まるで、子供みたい。ぼくはそんなマスターを理解出来ない。ごめんね。でもすきだよ、マスター。 「ぼくらはキャンディなんだよ。キャンディが一個のキャンディ・ポットの中に入って、二つの内一個が砕けちゃっただけだよ」 「違う、最後に、笑って「さよなら、マスター」って言ってたんだ」 「そう…」 ああ、だから。花時計、幸せだったかは知らないけど、寂しくはなかったんだね。終わるのも終わらせるのも、ぼくらは悲しく何てないんだけれど。 「ねぇ、マスター。ぼくらはいっしょなんだよ。みんな、同じなんだ。ぼくは花時計じゃないけど、花時計と同じなんだよ。ぼくらは、遊んでるだけだよ。マスター、ねぇったら」 マスターの、首に掛かっただけのネクタイを引っ張る。でも、マスターはぼくを見ない。俯いている。辛いんだね、マスター。ずっと拘束されていたいね。演奏がずっと続くといいのに。そうすれば、マスターは辛くないのに。 「電波塔」 「苦しい」 マスターがぼくを抱き締めた。まるで、人情ドラマの親子みたいな感じで。マスターがぼくをぎゅうぎゅうに抱き締める。ああ、ぼくが大人だったら、マスターを抱き締めてあげられたのかな。全部、矛盾した考えだけど。 「髭が邪魔」 「男の八割はこうだ」 「知らない」 手でマスターの顔を押し退けると、もうしれっとした顔に戻ってた。変なひと。子供みたい。子供は、僕だけど。 「…花時計も、大人だったら髭生えてたかなぁ?」 「多分な」 また、何事もなかったかのような顔で、新しい煙草に火を点ける。蛍のように明滅する緋色。花時計の髪みたい。 「ぼくが大人だったら、マスターと同じ位の子供、産んでたかなぁ」 「…多分な」 花時計は大人にならない。だから、髭が生えない。ぼくは大人にならない。だから、子供を産めない。 キャニバル・キャンディ・チルドレンが十歳で改造されるのは、性別が分からない内に、人形のような姿でいる内に、繁殖能力がない内に、時間を止める為だ。十歳以下で改造をしないのは、対戦があっさりと終わってしまって、見ごたえがないから。現代人類における最大の娯楽は、ぼくらだ。 次々とネットで有料配信される演奏の音楽データと映像、それに画像。ぼくらは旋律になって電波の中を駆け巡る。 「マスター」 「ん?」 ぼくの点滴の用意を始めたマスターは、オレンジ色のパックを持っている。ほんとは、ブルーの方が好きだけど、今はオレンジが体に必要だから仕方ない。 「今度、スパーキングゴールド買って」 「ああ」 「寝てもいい?」 「まだ寝るのか」 「うん」 点滴をキャスターにセットして、針を差込口に刺す。またベッドに寝転がって、ぼくは目を閉じた。 煙草の匂い、コーヒーの匂い。寒くはない。暑くもない。マスターの気配がする。心地良い。嫌だな。本当に、困る。こんなのは、起きる時だけで良いのに。 ぼくはあと五年もしたら、オールド・クラシックの称号が与えられて、博物館に陳列される。こんなに心地良いのに、目が覚めて、博物館に居たら、どうすればいいの。 楽しくは、ない。悲しくは、ない。悲しくは、ないよ、花時計。悲しくは、ないよ、マスター。でも、少し、そうほんの少しだけ、寂しいんだ… 今日も無数の電波を発信する電波塔。 下品な喧騒の漣が塒の電波塔。 オレンジ色の夕日に照らされ灰色の濁った影を地面に落とす。空を薄紫に雲を桃色に染める景色の中にあって、化け物のように茫洋と佇んでいる。 その名を冠した理由はとうに忘れてしまったけれど。 いいんだ、悲しくは、ないんだから… そう、少し、寂しいだけ。 |