のんびりで構わないよ、僕らは僕らの歩みで進もう。
「お疲れ様です、陽七」
その日の夜。奥の間でぐったりとしている陽七に、くすりと笑って声をかける。
「客商売には慣れてるつもりでしたが…」
「そちらの仕事とは、少し違いますからね」
「…そういえば、美月さん」
夕飯の支度をする為に台所へ立った徳勝に、陽七はむくりと起き上がって訊ねた。
「お客さんの名前、全部覚えてるんですか?」
「え…いえ、お初にお目にかかる方は…」
三度来られた方なら、と言って、かまどに薪をくべる。
「今日のお客さんはみんな、良く来てくださる方ばかりでしたからね」
「……十五年前、のことは」
「…十五年前?はて、何かありましたか…」
「お唐さんが十五年前、ここに来た事があったらしいんです」
「お唐さん…ああ、遊廓の」
ふむ、と黙り込んでから、徳勝は徐に炊飯釜を覗き込んだ。
「……そのお唐さんは、何か買っていかれましたか?」
え、と零した陽七に、髪を掻き上げて照れ笑いを浮かべる徳勝。
「流石に十五年前だと記憶も曖昧ですが…もし、着物を買われたならきっと思い出せます。なにせ、同じ物は二つと作っていませんから」
「えっと…朱色で、金の桜吹雪の刺繍の」
「……なるほど…あの女性が」
「覚えてるんですか!?」
「呉服屋は、他に覚えるほどの勉学もありませんので」
驚きに目を見開いた陽七に、くすっと笑いかけて答える。洗った胡瓜と茄子を塩揉みしながら、徳勝は懐かしむように微笑んだ。
「それに…あの方は、その時私によく話しかけてくださりました。あの頃は私もまだ幼くて、受け答えも下手だったと思います」
きゅっきゅっと、塩の馴染む音がする。
「あの頃は酷く接客が苦手でしてね…それでも、その人は優しく話しかけてくださって…」
お唐と同じ、遠くを見つめるような目の徳勝に、陽七は堪らない寂しさを覚えた。
のんびりで構わないよ、僕らは僕らの歩みで進もう。
(少しずつでいい…あなたを知りたい)
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